また一つ歳をとる、私、一輪の薔薇
二〇一九年八月六日、わたしはまた一つ歳をとった。
酷い目眩に苛まれながら日を跨ぎ、お祝いのメッセージに返信をしながら眠りに落ちた。目が醒めるともう昼過ぎで、母親が付けっ放しにしているテレビでは広島の原爆について話している。手を合わせ、目を閉じて。祈る。亡くなった方々の安寧を。
わたしの誕生日はいつも、黙祷から始まる。
小さな頃から、夏休みに入るとすぐに祖父母の家に泊めてもらっていた。東京よりも心なしか蒸し暑い、大阪の夏。
祖父が仏壇のご飯と水を替え、般若心経を唱え始めるとわたしも自然と起きるようになっていた。朝食を摂りに台所へ行くと、ブラウン管の小さなテレビから、広島原爆への黙祷を、と、必ず聞こえてくる。言われるがまま、わたしは手を合わせた。黙祷とは何なのか、そして何に祈っているのかもわからなかったけれど。いつしか、それがわたしの習慣になった。
ご飯と目玉焼き、サラダという朝食を平らげ、縁側に出る。足を出してブラブラとさせながら、今日の夜はケーキが食べられるんだ、と、心が躍る。
祖母が蚊取線香を持ってきてくれて、わたしはそれで半分燻製みたいになりながら、汗をだらだらと流してただ思う。暑いなあ、暑くて暑くて仕方がない。
今だってそうだ。滝のような汗をかきながら、光熱費節約のためにクーラーを切って、目眩でぐるぐる廻る天井と揺れる脳を抑えながら横になっている。暑い。暑くて暑くて、ただ、暑くて。
この記事を書き始めてから何日経っただろう。誕生日なんて、とうの昔のことのようだ。
誕生日プレゼントに、入浴剤をくれた友達がいた。わたしがクナイプのバスソルトが好きだとふとした時に口にしたのを覚えていてくれたらしい。
Happy For Me 、なんて言葉に救われるほどわたしは地上にいられない、けれど、これは確かに幸せの香りだった。穏やかで、何も考えなくていいような。
何も考えないわたしのまま、死にたかった、本当は。
今はもう、薔薇の花は枯れ切って、頭ごと、落ちている。
残された茎もそのうち干からびるのだ。
美しいうちに捨ててあげられなくてごめん、と、わたしはひとつキスを落として、この薔薇を捨てる。
腐った生ゴミの中に、そっと、捨てる。