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3月3日(水)ひな祭り

삼월 삼일 수요일

 人生でいちばんストレスフルな日はいつだっただろうと思い返してみる。だけど答えは明確である。それは今日だから。仕事に関することだから詳細は避けるけれど、胃が痛くてしょうがない。明日はその件に関することで時間を割かなければいけないので、急遽バイトもシフトを人にカバーしてもらうことになった。こういう迷惑のかけ方はいちばん嫌なのに。自分の中で何かがプツリと切れてしまっている。今日はお姉ちゃんの誕生日で明るく祝いたいのに。帰りに愚痴りに親友の家に寄りたかったけれど、私も疲れていたし彼女も疲れているようだったのでそれも止めることに。今日は大人しくワインに頼ることに。おかげでまた筋トレはせず。これで3日も休んでいる。だけど力が出ない。なんだか切ない気持ちでいっぱいだ。だけどこんな日常を毎日送っている人も世の中にはごまんといるわけで、単純に私が弱いだけなのだろうけれど、だからと言って他人と比較して大丈夫だなんて這い上がる気もない。他人は他人。私は私。嫌なものは嫌なのだ。

 子供時代と違って大人時代が好きなのは、選択ができることだ。生活を支えるぶん選択の余地がないと見えることは多いけれど、そんな時にでも私たち大人は選択権をいつだって持っている。それを忘れてはいけない。そして私は今、その選択権を行使しようと決めたところである。

 さて、そんな一日にも何かいいことはなかったか、と考えてみる。すると面白いのが、その嫌な出来事そのものという答えになる。相変わらず胃は痛いし細かく考え始めれば怒りは蘇生される。しかしこれではっきりとある種の意思を持ち、決定をすることができた。それは一般的に前進と呼ばれるものであり、一般的に前進とは上向き思考を指す。つまりこれは良いことだったという結果に落ち着くのだ。どんな決定かについてはご想像にお任せするわけだが。

 仕事中から帰り道、このストレスまみれな心で考えていたのは「早く、一刻でも早く、私のあの家に帰りたい」ということだった。部屋の模様替えをしてから、本当に深く、家が心の拠り所となった。前から家がいちばんだったのだが、一層包まれているという感じが強まった。ちなみに私の家はキッチンエリアだけではこんな感じである。我が子並みに自慢である。

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 帰宅してワインを呑んでのんびりし始めた途端、明日のことも全てなんでもないことのように思える。嫌な案件を終えてまたここに戻ってくることを想像すると、もうそれだけで大丈夫だと思える。私にとって家とはそういう存在だ。家というより、もはや生き物に近い。そばに寄り添い、いつでも私を癒すことに一生懸命生きてくれている存在。怪しく聞こえるかもしれないが、本当にそうなのである。家に対してこんな風に感じている人は他にもいるだろうか。来年韓国に1ヶ月ほど行こうと思っているが、この家を離れることだけが辛い。

 さて、なんてなんてホカホカした話をしているが、明日になれば別の話。半ベソをかきながら家を出て、辛い気持ちで帰ってくることだろう。そんな時はこういう風に考える。「この件で誰も死んでないから大丈夫」。あまりに極端だけれど、私はいつもそう考えるようにしている。ある意味命を軽く見ているような感じの考え方だが、実際そういう風に思って立ち直るのだからしょうがない。自分の責任でない何かをこなさなければならない時には、フリをして、これは演技なのだと思えばなんとか耐え抜ける。今観ている韓国ドラマでは主人公の女が違う名前で生きている自分がいた、という設定なのだが、だからこそ彼女は普段とは違う明るく弾けた女として恋をできた。それは確かに虚像であり嘘だが、しかしそうでなければ生き抜けない時が人生にはある。それでいいじゃないかと思う。本当の名前で本物の自分と思って生きていても、どうせ演じて生きているのが人間なのだから。

 明日を怖がらないで済むように、今日はこの曲を聴いて残りの夜を過ごす。もちろん、姉のこれからのさらなる幸せを願いながら。誕生日おめでとう、私の大好きなお姉ちゃん。


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