勇気を出してサンパウロの日本人社会に飛び込んだら、世界がどんどん広がっていった。
ここまでの話の流れ。
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前期(闇)ー 自分の闇、被害妄想、孤独、依存、ヒトのせい、甘えたい、母親に愛されたい、拗ねなどが、海外での孤独や育児と重なり、徐々に堕ちていった。
中期(停止)-困難の原因は全て自分だったことに気付き、変わる決意をしたけど、目的も理由も曖昧なまま「何者かになりたい」「どこかに行きたい」と焦った結果、深い穴の底で身動きが取れなくなってしまった。
今ここ
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後期(再スタート)-旦那に頼らず一人で出かけられるようになり、日系・日本人社会へと行動範囲を広げていく。少しずつ道が開けていったけど、まだ自分の軸が定まっていない。
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自分の中に原因を認め、
「変わろう」と決心したとき、
何でもいいから行動に移したくて、
最初にまず、鼻ピアスを開けた。
理由は単純で、ずっとやってみたかったから。
でも心のどこかで、何か勇気を得られるような、
勇気の証になるような気がしたのも事実だった。
「ブラジルを知る会」の参加も、その時に決めた。
ブラジルに移住してすぐ、
「ブラジルを知る会」というグループがあることを知った。
いつか参加したいなと思っていたことを思い出し、
2017年、下の子の小学校入学を機に、参加することにした。
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「ブラジルを知る会」とは、
ブラジル史やラテンアメリカ史、日系移民史、宗教、インディオについて、本やネットをベースに勉強するグループで、
普段の勉強会の他に、
年1回テーマを決めてグループ全体が参加する勉強会がある。
事前勉強したところを実際に訪れるツアーもあり、
セントロの歴史地区やリベルダージをグループで回った。
毎年恒例、南研子さん(40歳から始めて30年間、毎年アマゾンに入り、インディオの支援活動を行っている)の会員向けのお話会もある。
グループに参加し始めてから、
ひとりで電車と地下鉄を乗り継ぎ、1時間強かけてサンパウロ市に出かけるようになった。それからは時々、子供たちを連れてバスでセントロに出かけるようにもなった。
勉強会の場所は、サンパウロの高級マンション。
うちは郊外の一軒屋。パウリスタ大通りの周囲に高級マンションが建ち並び、そこに大勢の日本人が住んでいることすら知らなかった。そこへ行く度視野が広がるような気がした。
勉強会はそこそこ大変だったけど、
勉強会後のおしゃべりタイムは、自分がブラジルにいることも、今まで一人ぼっちだったことも忘れさせてくれた。
こうしてグループに参加するようになってから、
行動範囲も人間関係も一気に広がった。
その頃にはもう、
何者かになることも、何かを成し遂げることも忘れて、
ただ毎日を忙しく過ごすようになっていた。
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「知る会」の繋がりから、個人的な友人もできた。
勉強会に少し慣れた頃、
私はブラジル料理教室を開催した。
講師は、
料理上手なスエリ(近所のアート店の店長)の旦那さん。
スエリは、孤独だった私を支えてくれた最初の友達で、
そのスエリが経済的に困っていることを知っていた私は、
何か出来ることはないか?と考えた末、
日本人駐在の奥さんを対象に、
ブラジル料理教室が出来ないか?と思ったのが始まりだった。
初めてのブラジル料理教室の直前、
日本に一時帰国していた私は、
訳あって、
オラクルカードというものをブラジルに持ち帰っていた。
自分の練習も兼ねて、
料理教室でオラクルカードリーディングの相手を
募集したのをきっかけに、
初めてのリーディング相手とはその後、
定期的にカードリーディングをし合う仲になった。
その彼女の紹介で、
もう一人スピリチュアルな友人と出会うことになり、
その友人を通じて、
切り絵教室や本格的なカードリーディングへと
活動がさらに広がっていった。
そうして、
彼女たちが本帰国する2019年まで、
気付けば、
沢山の人に囲まれ、沢山の居場所が出来ていた。
その頃には、義家族との関係も良好になり、
孤独感も被害妄想も消えていたし、
母親を恨む気持ちも消えていた。
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一気に落ち着いたように思えたのだけど、
それと入れ替わるようにして、新たな問題が表面化していた。
手を上げたり、放棄することこそなかったものの、
それまで、自分のことで頭がいっぱいで、
子供たちから逃げたり、自分の苦しさをぶつけてきた。
そのツケが、
息子との問題として回ってきていたことに気が付いた。