おじいちゃんと私
祖父は廣野光といいます。幸容商店の創業者として真面目に働きました。
おじいちゃんのお母さん(曾祖母)は旧赤穂藩浪士の総領娘でしたが、生活苦から京都へ姉妹で売られたそうです。女衒は士族の娘ということで女郎屋ではなく、女給さんとして働ける木屋町のお店へ売ったそうです。ですが、することといえば、昼間はお茶を運ぶウエイトレス、夜は体を売るという女郎とそう大して変わらない生活だったそうです。
曾祖母は洲本の網元に身請けされ、洲本の本妻と同じ屋敷で暮らしました。
子沢山でその内の一人がおじいちゃんです。
曾祖母は網元お抱えの技師と恋に落ちて、大阪へ駆け落ち(またかと思われた方は前のを読んでくださったんですね。ありがとうございます。)しました。
おそらく身分の高い女性であった本妻は総領娘であったのにもかかわらず、一人も子供がいないこと、跡継ぎの問題も関係したのでしょう。子どもたちも全員連れての駆け落ちです。おそらく網元の手も借りたのだと思われます。逃がしてもらったのですね。
洲本の網元がなぜ、京都のお茶屋の女性を身請けするくらい仲良くなったのでしょうか。仲良くなるには通い詰めねばなりません。
アノ時代の京都といえば、坂本龍馬、いわゆる海援隊(海軍)ですね。洲本の網元が通い詰めるにはなるほどと言わざるをえない。
女給として店で立ちまわっていると、様々なお客様の内密の話も自然と耳に入ってくるでしょう。女スパイ。かっこいい!
閨の中で睦言と同じ口で諜報活動の報告もしていたのだとすると心躍ります(全くの想像ですけどね)。
大阪へ駆け落ちしてからは、技師(漁で使う網や針の補修をしていた)であった器用さで特許を取得し財を成します。竹製の傘の柄を曲げる特許だそうです。商売はうまくいったそうです。
おじいちゃんの話のはずが、おじいちゃんのお母さんの話が長いですね(汗)。も少しお付き合い下さい。
おじいちゃんのお母さんは総領娘だと言いましたが、実は嫡男が廃嫡されたからなんですね。
どうやら頭がおかしかったようです。よく小銭をせびりにきたそうです。
ただ、その頭がおかしいというのもきな臭くて、どうやら自分たちとは考えを同じくしないという意味で廃嫡されたようなんです。尊王攘夷とかあの辺りで赤穂藩も保守派・革新派で真っ二つでしたから。士族って政治しなきゃならないですから大変ですね。
そしておじいちゃんは大阪で育ちました。元士族ということでまだうら若い頃に招集され、きちんと訓練をして戦争へ行ったそうです。
大陸で銃剣を構えてラッパとともに突撃して、敵とぶつかってからはもう記憶が無い、とおじいちゃんは笑って私に語りました。死屍累々の中でふと意識が戻ると立っているが、足元には死体がゴロゴロ転がっているそうです。
そして、怪我している同胞を抱えて退却する日々。ある日、おじいちゃんも負傷して抱えられて退却しました。
そして、そのまま蘇州で怪我を癒すという日々。快癒しても出撃命令はおじいちゃんにだけは下りず、訓練をつけた後輩を見送る日々です。そのまま終戦を迎えました。
日本に帰り、軍の内部の将校の同期に話を聞くと、死亡者を縦線で潰しているそのページに生き残りはおじいちゃんだけで、命令を下すときにそのページを飛ばしていたそうです。
おじいちゃんは山村商店で働きました。専務にまで上り詰め、その社長の妹を嫁にもらいました。そして、幸容商店を創業しました。プラスチック成形工場です。小さな町工場です。
女工さん数名と内職数名、長坂さんという社員が一名いました。
長坂さんは大阪城で戦時中、大砲を打っていたそうです。軌道計算も瞬時にできるほど、計算には長けていたのですが、学徒動員であったために学歴といえるほどの学歴もなく、闇市で腹を空かして死にかけていたところをおじいちゃんに拾われたそうです。
光おじいちゃんから勉強を教わった長坂さんはとても賢くて、フェルマーの定理や相対性理論だって理解することができました。しかし、それを教えてくれたのはおじいちゃんなのでフェルマーの定理も光の定理、相対性理論だって光理論と言った具合で、おじいちゃんをとても尊敬していました。
おじいちゃんの孫娘である私だって、長坂さんにとても可愛がってもらいました。車で奈良からやってくると、まず気づいて出迎えてくれるのは工場で働いている長坂さん。高い高いしてくれたり、面白い話をしてくれたり、ひょろひょろと細いのにとても力持ちでパンチパーマの頼りになる方でした。
おじいちゃんは1男2女に恵まれました。長女、次女、末っ子長男、です。
その後、おばあちゃんは役目を果たしたとばかりにおじいちゃんと冷戦に突入したので、おじいちゃんは外に飲みに出るようになりました。
おじいちゃんは女の胸に顔を埋めないと戦争の亡霊のせいで眠れないのです。おばあちゃんはそれを拒絶したのでおじいちゃんはよその女の人と寝ることにしました。
おじいちゃんと寝たと家に押しかけてきた女性におばあちゃんはいつも主人がお世話になっておりますと頭を下げて、私には似合わないからと反物を持たせて主人を宜しくと見送っていたそうです。
その後、家の中は茶碗や皿、怒号が飛び交う戦場になったのは言うまでもありません。すごく外面がいいんですよね、うちの人達。外聞を気にする。
私は成長して、大阪に住むようになり、戦争の話を家族とするという夏休みの宿題をすることになりました。
おじいちゃんに直接聞けばいい叔父にアドバイスを受け、従兄弟たちと従姉と私の四人で宿題をすることになりました。
その宿題は戦争をいいか悪いかという自分なりの答えを出すというものだったのです。
おじいちゃんを囲んで男の従兄弟二人vs従姉と私の二人で戦争賛成派反対派の大論戦が勃発しました。
私は人殺しは良くない、と主張。従兄弟たちはその時代はしょうがなかった、と主張。
私は政治で戦争を回避すればよかった、と主張。従兄弟たちはそんなのできるわけない。国内で戦争反対すれば殺されて、俺達は生まれてないんだぞ、と主張。
私は人を殺して生まれてくるなら生まれてこなくてよかったと主張。
おじいちゃんはそっとその場を離れ、自室に引きこもってしまいました。何も言葉を発しませんでした。
従兄弟のお兄ちゃんは絶対にお前なんか許さへんからなっと自転車に乗ってぷいっと何処かへ行ってしまいました。従姉もそれはまずいよ、と私をたしなめます。
従兄の優しいお兄ちゃんがあんなに言葉を荒げたのは最初で最後だと思います。
その後、おじさんにお前は正しい。だけど、正論で人を傷つけた。周りの人を傷つけないように、自分を曲げることはできないのか、と聞かれました。
できないと応えたら、そのまま大人になれたら、そのままで生きられたら、見事だ。そう生きられる社会であるよう願うよ、と皮肉たっぷりに私に言いました。
それから三ヶ月後、おじいちゃんは亡くなりました。
私はおじいちゃんに謝ることがなんとなくできないままに、おじいちゃんは入院したりなんだりで会う機会がなく、私達が眠っている真夜中に息を引き取りました。
39歳になってはじめて、おじいちゃんに謝りたいと、声を上げて泣きました。約30年の時を経て、おじいちゃんがなぜ人を殺さねばならなかったのか、が理解できたのです。
おじいちゃんは私を慈しみ、総領娘として育ててくれました。
幼稚園の頃から、箸箱のバリ取りをしているおじいちゃんのそばで私も手伝いたいというとカッターや小刀の使い方を丁寧に教えてくれながら、箸箱のバリ取りも削り過ぎたら箸の蓋がするっと落ちてしまう、削らな過ぎたらひっかかって開け閉めに余計な力がいる、熟練の業がいるんだよ。
おじいちゃんの箸箱もお前の箸箱も商品として並んだら同じ価格だ。
使いやすいのはおじいちゃんなのに、使いにくいお前の商品も同じ値段だ。
お客さんに損をさせてはいけないから、いつも一流品、一級品をつくれるようにならなあかん。
箸箱を1000円で売ってるとしたら、原材料はいくらいくら、電気代はいくらでって全部足して人件費でお前に払えるのは一個50銭だな。
「100個やって50円?!」
ちゃんと工賃はあげるからやれるだけやってごらん。
おじいちゃんがバリ取りした箸箱は一級品でした。するっと力も入れずに開けられるのに、真ん中のバリが絶妙に引っかかって箸箱の蓋が外れない。
今、私が一番欲しい箸箱はおじいちゃんがバリ取りした箸箱です。
私はそうやって総領娘として、商売のいろはを教えてもらっていました。
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