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コロナの傘の下とアリさんのおうち

新型コロナウィルス。その名を初めて聞いたのが今年1月。それから、あれよあれよと言う間に感染が広がり、社会はすっかり変わってしまった。ようやく感染は落ち着いてきたようにも思えるが、今なお私たちはコロナの傘の下で、密接につながりあった世界に生きていることを噛み締めている。

3月、東京都で感染者の増加が顕著になると、仕事がほとんどキャンセルに。4月になると、4歳の長男と1歳半の次男が登園している保育園から登園自粛を求められ、それ以来2カ月近くをひたすら子供たちと過ごした。
我が家はシリア人の夫と私、そして二人の子供たちの四人家族。夫はシリアの伝統文化に生きていて家事と育児はノータッチ。私はいわゆるワンオペ育児中だが、少なからず家計を担わねばならない。日中はひたすら家事をして子供と遊び、夜に子供が寝て、ようやく自分のための時間を得る日々だった。大体22時を過ぎてゆっくり新聞を読み、メールを確認し、朝方まで原稿を書いたりの作業を始める。しかしそうした徹夜状態の日々も、もう若くないため二週間近くで体調に変調をきたし、バッサリやめた。物事には時があり、それを潔く、クリエイティブに受け入れることの道理を改めて自覚する。

外を見やると自然の営みは例年と変わらず、季節は春から初夏へと移ろっていった。山々は鮮やかな緑へと変化し、我が家のアパートの隣の畑では野菜が日に日に大きくなる。時折チョウチョがヒラヒラやってきて楽しそうに遊ぶ。私は子供たちと、アパートの敷地内のじゃり道で、忙しそうに働くアリの家族を観察した。

沼地のひととき-2

〝アリさんのお家がこの辺りに何個あるか。何匹のアリさんが、アリさんの道を通るか〟を、1時間17分にわたって子供と真剣に数えたこともある。最初の十分ほどはなんとか集中力が続くが、だんだん蟻が川の流れのように見えはじめ、終いにはほうぼうへと飛び散っていく数珠の玉のようにも思えたりと、思考は遥か彼方にいってしまう。つまりは途中からどうでもよくなって、ただ無意識に蟻を眺めることになる。次男はよくアリを踏んづけて重傷を負わせた。長男がそれを見て、病院に連れて行くといって大事そうに箱に入れるが、アリはやがて動かなくなってしまう。子供は、自分が殺めた小さな命への贖罪の念にしばらく泣いた。私は子供と一緒に「ごめんね」の気持ちを受け止め、アリさんのお墓を作った。結局、何度やっても蟻の数は数えられなかったが、数えられないほどの蟻さんがいることがわかり、東京の片隅の小さなアパートの周囲にも、こんなに命のドラマがあふれていることを知った。

不思議なことに、コロナの傘の下で経済生活は破綻していったが、日常生活はより豊かに彩られていき、心もより豊かになった気がする。私たちは何を求めて働き、何のために生きるのか。そうした問いかけへの自分なりの答えが、以前より明確になったからだろうか。特に、子供と一緒に何かを経験し、ひとつではない答えを共有するという経験が、新しい視点を与えてくれた。子供たちの小さな心の動きやささやかな成長にも気づかされ、それまで目に入っていたにも関わらず、見えていなかった世界の輝きに驚かされた。大人になるうちに忘れてしまった〝小さな眼差しが持つ魔法〟を思い出させてもらったように思うのだ。ひたすらアリを観察し、「頑張れ」と話しかけ続けたり、行き交うアリの数を数え続けたり、大人になった自分にとっては意味をなさないと思っていたことを子供が満足するまでとことん一緒にやるという行為も、子供とのとても特別で新しい信頼関係を生み出してくれた。まだヨチヨチ歩きの次男は、毎日アリを踏み潰してしまい、その都度一緒にアリの埋葬をしているが、私たちが生きていることが、多くの命の共生によって成り立ち、時に図らずも命を奪ってしまうことも、命を奪わなければ生きられない局面もあることを、子供なりに少しずつ理解したように思える。サン・テグジュペリの名著「人間の土地」にあるように、「自然は、万物の書より多くを我々に語ってくれる」のだ。

沼地のひととき-1


わんぱく盛りの子供たちを日中、自転車の後ろと前の座席に乗せ、水とおにぎりをもって自転車で行ける範囲の山や川、史跡やお寺や神社に探検に繰り出している。子供は楽しいこと、素敵なものを見つける天才だ。まるで白い紙に自分だけの地図を描くように、新しい何かを次々と見つけ、心を奪われる。
私も子供と一緒の時間を探検する。これまで心を奪われなかった、というより、気づかなかったものが目に入る。丁寧に石を積んで作られた、苔むした古い田畑の石垣や、山の麓にひっそりと残る石碑やお地蔵様。人間が連綿とこの土地に生きた証を目の当たりにし、時代を越えていく普遍的なものを感じた。月日が移ろっても、人間の本質は変わらないのかもしれない。どの時代にあっても、人々はさまざまな天変地異、戦や飢餓やひとときの平和に、喜びや悲しみを見出しながら、一日一日を生きてきた。そうやって、数えきれない多くの人間の命が生まれては消え、何かが残されたり残されなかったりしながらこの世界がある。そして私たちも今、そうした先人と同じ土地に立ち、同じ歴史の一幕にいるのだ。


フォトグラファーとして私が取材を続けているシリア難民は、コロナウィルスの感染拡大でさらに厳しい状況に追い込まれている。働き口が減り、職を失うケースも増えているようだ。だが、未知のウィルスによる脅威は、かつて彼らがシリアで経験したほどの脅威とまでは言えないようだ。
内戦下のシリアでは、毎日のようにミサイルが飛び、空爆され、銃撃戦が起きて、明白な理由なく父親や息子たちが連行されて戻らなかった。それに比べ、今は家族が安心して家に集うことができる。実際、夫の家族が難民として暮らすトルコ南部の街では、基本的な生活は変わらず、淡々と日常を生きているとのことだった(ムスリムにとって祭日であるラマダン明けの三日間については、ムスリム同士の濃厚接触を避けるため、各国で外出禁止令が出された)。

シリア人の社会は、特定多数の家族や親類との連携のうちに日常が成り立っている。言い換えれば、特定多数との接触によってしか成り立たない暮らしだ。感染拡大への懸念もあるが、コロナウィルスによって世界が変わった今も、暮らしの根幹は変わらない。
他方、日本では、「不特定多数との接触を避けるように」と盛んに注意喚起がされた。裏返せば、私たちの社会が、不特定多数との接触によって成り立つ社会だからだ。

コロナウィルスの脅威を経験したことで、「不特定多数」ではなく、より多くの「特定多数」の人間との絆にこそ生きたいと気づかされた。そのうちコロナウィルスとの共生が進み、愛するたくさんの人々と集い、再び文化的な活動を再開できる日が来たら、私は特定多数の仲間と、愛情や信頼の絆に生きることを心がけたい。

サラームの冒険-1

そんなこんなで、コロナの傘がもたらしたのは、丁寧に日常を生きること。それを意識することだった。足元にも宇宙のような生命の営みがあり、未知の気づきがあふれている。コロナの到来で失ったものもあるが、よりクリエイティブであるための可能性もまた得た。

これまで、シリア難民の取材などの写真活動で表現したいと願ってきたのは、人間はどんな状況下でも生きていく存在だということだ。その思いを今、改めて自分に問いかけたい。フォトグラファーとして人間を見つめ、問い続け、撮り続ける。今日が、また新たな一歩。

(この原稿は、2020年5月に「地平線通信」に寄稿させていただいた内容に加筆したものです。)


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