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自転車の先輩
炭酸飲料をあまり飲んでこなかった。きょうだいはサイダーが大好きでよく飲んでいたのに、自分だけはいつも麦茶をのんでいた。
でもあの時から、炭酸が特別なのみものになった。
大学生の頃、塾でバイトをしていた。夏はいつも夏期特別講習のためにいそがしくて、休憩もろくにとれない日があるほどだった(実際にはとれているのだけれど、気ぜわしくてとった気にならなかった)。でも、その忙しさからか、夏は特にバイトの仲間たちの結束が固くなるような、「チームでこの夏を乗り切るぞ!」という雰囲気だった。みんな大学生で、全体で8人くらいの小規模な仲間たちだった。
そのなかに気になる先輩がいた。シフトの時間が重なったり、仕事の時に任される持ち場が近いと嬉しかった。そんなあわい気持ちをずっと持ちながら、でも、チームの雰囲気をこわさないようにと、その気持ちを表に出さないようにこっそり「気になる」だけの先輩のまま、接していた。
特に嬉しかったのはシフトの終わり時間が一緒になることだった。そうすればだいたい、終わり時間に、みんなで一緒に駅まで帰ることができるからだ。先輩は自転車だし、私が電車に乗る駅まではほんの少しの距離なのだけれど、私は先輩たちと並んで歩けるその機会をとても楽しみにしていた。仕事の外の先輩。
その日はたしか講習があまりない日で、バイトに出ている人が少なく、たまたま私と先輩の2人だけがシフトの終わり時間が一緒になった。8月の午後2時はとても暑くて、コンクリートから跳ね返る日の光も強くて、ビル街には日陰もあんまりなかった。塾から出たとたんにむわっとした熱気につつまれた。
「Tさん、こんな暑いのに自転車で帰るんですか」と私は聞いた。
「うん、だって置いていくわけにもいかんし。バイトない日にわざわざ取りに来るのめんどいし」
背が高い先輩はいつも少し猫背な感じ。青地に黄色の線の入ったメッセンジャーバッグをななめがけしている。大きいけど中身はほとんど入っていないらしかった。どこへでも自転車でいくから、この形状のカバンが便利なのだという。年季が入っているようで、角の色が少しあせていた。
「そっか、そうですね」
「ちょっとコンビニ寄っていい?」そう言うと先輩は自転車をとめた。
先輩についてコンビニに入る。外の暑さとは真逆で、コンビニは寒いほどだった。私たち(二人とも眼鏡をかけていた)の視界が曇る。
先輩は文具のコーナーで防水ガムテープを選んだ後、飲料のコーナーに行って、ペットボトルのサイダーを買った。
「このカバン、なんか裏が褪せてきてて、雨に濡れると水が中にしみてくるんだよ」と先輩は言った。
「え、そのガムテープで止めるつもりですか」
「うん、一時しのぎにはなるんじゃないかなと思うけど。明日から雨らしいし」
「どうでしょう」
会計をして外に出た。
外にでると室内との温度差で眼鏡が曇った。先輩と私はお互いの眼鏡がまた曇っていることを少し笑った。自転車が止めてあるガードレールに近づいてもたれかかり、先輩はサイダーをあけて飲んだ。すごいいきおいで半分くらい。
「あーうまい。仕事の後の炭酸は最高だな~。あれ、なんも買わなかったの」
「はい、さっき職場でお茶飲んだので」
「飲む?」
先輩は何の気なくペットボトルを差し出した。丸っこいサイダーのペットボトルが、日の光に反射してぴかっと光った。
「いいんですか?」
「うん」
私は、ひどくどきどきしながらそれを受け取ってひとくち飲んだ。
暑い日の仕事上がり、気になる先輩から差し出されたキラキラしたサイダーはびっくりするほどおいしくて、唇と首の後ろがキュッとした。それは私が炭酸に慣れていないせいなのか。それだけではない気もした。
「おいしいです、ふだんあんまり炭酸飲まないんですけど」というと
「そでしょう」と得意げに先輩は笑っていた。夏の日差しのあふれる街で。
「それ飲み終えたら帰ろ、駅まですぐそこだけど」
「はい」
先輩は残りを全部私にくれた。ペットボトルのサイダーは3分の1くらいのこっていて、私はそれをできるだけゆっくり、シュワシュワを味わいながらのんだ。きらめく特別な飲み物。
飲み終えたあと、先輩と駅まで行ってさよならをした。
「また来週~」
「はい」
私は改札を通ったあと、振り返って、自転車に乗る先輩の後姿を見ていた。背が高くて細長い先輩が、角を曲がって見えなくなるまで。私の手には空になったサイダーのペットボトル。
この日以来、サイダーは私にとって特別な飲み物になった。
夏が来ると、つい手に取ってしまう。
炭酸を見ると、いつも先輩のことを思い出す。
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