消えてしまわないように、消してしまわないように。
自分の心から純粋な部分が消えてしまいそうで、貪るように本や映画、音楽から"誰か"の綺麗な心を吸収してたくさん泣いた。
いつからか"大人"になって、布団の中で考え事をする日が増えた。静かすぎる夜は、うるさいくらい自分が浮き彫りになる。
抱えきれないけれど誰にも打ち明けられない暗い心を、文字に起こす。最近の下書きには、何かと闘っている、暗くて寂しくて、でもどこか暖かい文字が並んでいる。
あなたたちは、もう少し、そこにいてね。
過ぎる時間が重みを消してくれるはずだから。
そう呟く日々を超えて、少し自分を取り戻してきた。それは同時に、痛みや繊細さを忘れることに慣れてしまった、ということでもあった。
4月に出会った同期のうち、何人かが様々なタイミング、形で職場を去っていった。心の状態が体に出始めて、休職するまで、ずっと話を聞いてきた同期がいれば、周りに伝えてる理由と辞める本当の理由が違うことを話してくれた同期もいる。
「対人援助職ではよくあることだから」
何人かの先輩からそう言われた。
確かによくあることだとは思う。でも、よくあることでまとめてしまうことへの違和感が強く残った。本人の合う合わないはもちろんある。
現時点で、私は生き残れてしまった側だ。
でも、自分のなかで大切なものを失ってしまっているような感覚が強くある。
全てをまともに受けていたら、自分が崩壊してしまう。自分の心が揺れ動かされることを最小限にしよう。そして、相手の気持ちを想像することを止めてしまった。人の要求や出来事に優先順位をつけるようになってしまった。
辞めることを選んだ同期たちは、相手のことを考えられる人だった。自分の痛みを抱えているからこそ想いや理想があって、「優しさ」という言葉ではしっくり来ないような、「繊細さ」を持っていた気がした。
その「繊細さ」を持ち続けることは、どうしてこんなに難しいんだろうか。欠いて働き続けることも、持ち続けて自分を消耗することも、どちらも避けたい。
でも、それが正しいのかも、それを実践する術もわからない。わからないから、忘れてしまいそうな自分の心を定期的に取り戻す作業をする。
人と会うとニコニコしてしまう。
無理をしているわけではなく、純粋に楽しんでるし、一番楽だし、無意識的にそうなってしまう。話すことで自然と元気になるから、ネガティブな気持ちを忘れてしまう。
それはそれですごくいい。
ニコニコしている時の自分も好きだ。
ただ、1人になったとき、忘れていたネガティブな気持ちの声が聞こえてくる。忘れちゃってたことに対して、罪悪感のような、嫌悪感のような、そんな感情が出てくる。
結局のところ、全部ひっくるめて自分で在りたいんだろう。綺麗な言葉や感情で覆いきれない生身の自分がそこに存在していることを、受け入れてほしい、受け入れたいんだろう。
みんな、諦めてしまわないといいな。
生きるのが上手くなってしまった人だけが生き残れる社会じゃなくて、「繊細さ」を持ち続けてもなお生きられる環境に出会って欲しい。
それまで味方でいられるように、味方であると感じてもらえるように。この日々を笑い話にできるまで、全力で付き合うから。
私も、私であることを、心を持ち続けることを、諦めないでいたい。そのために、今日をしっかりと過ごそう。そうすることでしか、きっと生きて行けないから。
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