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自己紹介①(幼少期〜学生編)
はじめまして。
ご覧いただきありがとうございます。
かなり長くかなり私的な話です。
こんなふうにしっちゃかめっちゃかに無計画に寄り道してなんとなくとテキトーをモットーにそれでも好きなことをして生きていけるんだという参考にしてくださり読んで元気が出たら嬉しいです。
とにかく絵を描いて生きていきたかったのです。小さな頃からずっと。
推奨:飛ばし読み
幼少期:2歳で字を読み、3歳の時靴を買いに行った際「何色の靴がいい?」と聞かれ「群青色」と答え、紙とペン、本があったらどこに連れて行ってもいつまでも時間を潰せたという才女(?)エピソード。
製図を書く青焼用のロール紙が常にあり(父 建築士)帰りは絵本を買ってきてくれ、遅くなる時は巻物風な手紙があり、寝かしつけは父のベッドタイムストーリー(海外か?)。
常に子供の才能を生かそうとして絵が描ける環境。
母(元々美容・理容サロン経営)は常に美しい花を育てていて住むところは庭付き戸建。(引っ越しが多かったけど常に庭付き戸建)
⚫︎幼稚園は北海道へ(父が北海道出身) 大人しくて絵で注目されていた記憶はゼロ。
⚫︎小学校は3度変わって(北海道→神奈川(母が雪が降らないところに住みたいと言い外構工事が終わらない間に神奈川へ)→同じく神奈川で引っ越し)2番目の学校が楽しくて絵を描いてと頼まれるようになりノートを預かって描いていた記憶あり。
⚫︎中学校は父が洋楽や洋画と出会わせてくれ英語が大好きに。高校はアメリカに行こうと勝手に決めて筆記体の練習をよくしていた。(アメリカ人はみんな筆記体を書いているものだと思い込んでいた)部活は美術部。先生が武蔵美の油科出身だったのもあってなのか油絵が部活メニューにあって中学はずっと油絵三昧。描いた絵を母がゴミに出しに行ったらどこぞのおじいちゃまが拾ってくれていたらしい。
⚫︎高校は父が日芸に進ませようと思っていたので日大付属に進む。そこでも受験用の指導もあってか美術部の先生が厳しかった。(プラモデルのタミヤの三男坊だった)
高校でも水彩コースと油絵コースを選択(なんでもよかった)
①思い返せばここから歯車が増え始めたターニングポイント(狂いはじめたのではなく増えはじめた)
美術部のみんなは日芸を選ぶ中、自分の中では絵(イラスト)=ファッションがなぜか固まっていて日芸に進んだら描きたい絵が描けないんじゃないかと勝手に判断。
(しかも付き合ってた人が文系から理系に行こうという安易な誘いで理系に行ってしまい途中別れてまた文系に戻ってしまったりしたので試験範囲が全く違って内部エスカレーターではそもそも日芸には行けなかった。)
そんな中、母の友達の従兄弟が桑沢デザイン研究所の先生をしているご縁で桑沢を選択することに。専門学校なのに試験があるので有名で図形デザインやデッサンを頑張った記憶が。
そんな試験もクリアし、無事桑沢のドレス科に進んだものの。
デザイン・パターン・縫製 イラストを描くのはデザイン画のみ。(おかしい・・・私は服を作りたいんじゃなくて服の絵を描きたいのに・・・?何 この部分縫いとか・・・パターンとか・・・縫製とか・・・すっごい面倒なんだけど・・・)
そうなんです。お気づきの方いますよね。
私、イラストレーターという仕事を知らなかったのです。
ファッションデザイナー=ファッションイラストレーターやガールズイラストレーターと勘違いしていたんです。
デザイナーは描く人ではなくデザインをする人。
イラストレーターはデザインする人ではなく描く人。
(注)しかもこれに気付いたのはもっともっと後。在学中に気付いていたらまた違った人生だったと思います。
大好きだったのはデザイン画とファッション史、そしてユニークな友人たち。
知る人ぞ知るタカハシとの出会いもこの学校。
ある日、毎晩のように通っていた新宿2丁目のファッション好きなゲイの子に「セツモード」の存在を知り父に聞いてみたところ父の恩師(油彩画家)の友人であることが判明。「あの学校は入学試験はくじ引きなんだってよ」とのことでその友人ゲイと一緒にクジを引き当たったので無事入学。
なんだかんだ縫製が得意な友達に部分縫いをお願いし、卒業制作は和紙に墨で絵を描き(縫製嫌いだったから)無事卒業。
桑沢卒業後、セツモードに通いながらスタイリストのアシスタントバイトをしたりジュエリーデザイナーのアシスタントをしたりしていました。
スタイリストアシスタントは友達の従姉妹がやっていて、そのご縁からスタイリストネットワークに登録されたのか何かにつけて色々なスタイリストさんに呼ばれるように(スタイリストさんは常に雑用係が欲しい)
ある日はオレンジページ、ある日はテレビ局、ある日は富士山の麓(ディノスの家具の撮影)カタログ、資生堂、雑誌のロケ・・・(思い出してきて懐かしい!)
ジュエリーデザイナーアシスタントはオフィスが千駄ヶ谷に会社があって今思い返せばアパレル会社のオフィスや倉庫になっている地域の一角に。
マイケルオレリーさんがやってる会社なのでMODという社名。
奥さまが日本人でいつもオフィスで英語で喧嘩してた。けど英語なのでなんにも気にならない。
むしろ海外ドラマ観てるみたいでした。
いつもビシッと決まっているスーツ姿なのに夏の暑い日上半身裸で仕事をしていたのが印象的でした。
(下はスーツのズボン)
その頃世はゴローズやクロムハーツが流行っていて、マイケルさんのところにはそのシルバーアクセサリー担当の岩田兄弟ってのがいてその岩田兄のアシスタントになぜか抜粋。(そもそもマイケルさんのところはアパレルもやっていてその為に入ったのに!)←打ってて思い出した。
続く