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30年前のあの日から



震災当時の京都での生活

1/17当日


前夜、なぜか
朝すぐにお湯がすぐ使えたらいいな、とお湯を沸かしてポットに詰め、そして
お魚もチンすればすぐ食べられるように夜のうちに焼いておこう、と焼きました。
いつも自分たちの部屋で寝ている娘たちが夜中に突然、2人そろって
「なんだか怖い」
そう言って、寝室に来たので4人で寝ました。

当時相方は毎朝5時半に起床、1人で自分のご飯の準備をしていました。

ふと目が覚めてなぜか周りが明るくなったと思ったら、ものすごい地鳴りがして、そして激しい揺れ!

相方は咄嗟に私と娘たちの上に覆いかぶさりました。
色々欠点もある相方ですが、この時のこの行動で全てがチャラ。

すぐにテレビをつけると、テロップで「東海地方で大きな揺れ」
と。
東海大地震?
その後
「関東地方で大きな揺れ」
そんな離れた場所の地震が京都でこんなに揺れるって、もう日本は終わりじゃない?!と思いました。

明るくなる頃、地震の全容が判明しました。
何回か小さな余震があったものの、相方は出社。
娘たちの学校も普通に授業があるので集団登校の集合場所に集まっていました。
私の判断で、娘たちは小学校、幼稚園を休ませました。
しばらくすると相方も電車が不通のため帰宅。

某FM局は震災当日も通常放送だったので驚きました。

テレビはずっと(今思えばインパクトのある映像ばかり)倒壊した建物、高速道路、燃え盛る街並み。
この時はその後神戸に住むことになるなど予想できず、ただただこれ以上被害が増えないことを祈るばかりでした。

震災直後の生活


ここから、被災地とは少し距離のある京都での暮らしになります。

カセットコンロ、そのガスがすぐに売り切れになったのは覚えています。
学校を通じて、学用品の寄付が募られました。
民放のCMがACのものに差し替えられ、空き缶ポイ捨て禁止!がよく流れてました。

大阪の叔父、西宮の従姉妹に電話して無事を確認できました。
神戸の大学時代の友人も、食器がほとんど割れてしまったけれど無事とのことでした。

ご近所のママ友さん、ご主人が瓦職人で半年以上神戸から帰ってこれないとこぼしてました。
ご主人が仕事で神戸に行くことが多いというママ友さんからは、よく豊助まんじゅうをいただきました。高速道路が不通なので、一般道を通っている時に見つけたので毎回買ってきてくれるけど、日持ちしないから、と。
この豊助まんじゅうは神戸に転勤後、よく買いに行くようになりました。

正直に言うと、心を寄せてはいるものの、どこか他人事でした。

2月、娘たちの通っているバレエスタジオの先生の公演が新大阪でありました。
パンフレットには
「震災で家族が重傷を負ったり、家屋に被害があったダンサーもいますが、こういう時だからこそ、公演を開きたい」
旨が書かれていました。

新大阪駅の表示には「西宮止まり」が並んでいました。
西宮から向こうにある街に暮らす方々の生活を思い、着飾ってバレエ公演を観に来ているお気楽さを少し恥じました。
本当にわずかな距離しか離れていないのに、そこにある「日常」が余りにもかけ離れていることを改めて実感。

大学時代同じサークルだった人が神戸のテレビ局勤務でした。
交通機関が全て壊滅状態のため、舞子の自宅から自転車で勤務先にたどり着き、そこから毎日取材に奔走する日々だったとか。
彼はその後、他の地域で震災が起こるとそこに飛んで取材活動をしていたそうです。

「神戸」が毎日のように報道されていたのは春先まででしたよね。
その後は東京で起きたテロ事件に世間の目は傾いていきました。

震災から1年後、神戸に

前々から話があったらしいのですが、トップ交代によるあれやこれやで、相方が神戸に転勤となりました。
ついていくか、単身赴任かで話し合いましたが、一家で神戸に移り住むことにしました。
京都の住まいは会社の不動産事業部が賃貸物件として管理してくれることになりましたが、神戸の借り上げ社宅との二重家賃生活の始まりです。
また、揺れたとは言え、地震の被害は全くなかった地域から神戸の学校に転校する不安があり、転校先に電話して色々お尋ねしました。
転校先の校区は比較的被害の少ない地域で仮設住宅もなく、避難している児童もいないとのこと。
こちらが気を使うようなことは何もありませんということでした。

確かに、神戸市内と言ってかなりはずれの方で、そこには普通の暮らしがありました。
少なくとも引っ越ししたばかりの私にはそう見えました。
 
次女が小学生となり、1年生の時授業参観で、震災の事を学びました。

担任の先生はまさに30年前の1月17日にご出産され、その時の事をお話されました。

初産の妻を残して、ご主人は自分の勤務先の学校に向かったそうです。

先生は自分で運転して、なんとか病院にたどり着き、停電、断水の中で出産。
産湯もつかわせることができなかった、という話に涙が止まりませんでした。

教え子たちの安否確認を優先されたご主人、そしてそれを受け入れて1人で出産された先生。
教職にある方々の尊さをひしひしと感じました。、

「がんばろう神戸」のスローガンのもと、ブルーウェーブの活躍を応援にグリーンスタジアムに通いました。
そこで知り合った方々の、震災当時のお話もたくさん伺いました。

数年したら京都に戻るという話が、永遠に神戸ということになり、京都の住まいを売却してグリーンスタジアムそばのマンションに引っ越しました。

ここも比較的震災の被害は少ない地域です。 
野球殿堂入りしたイチローさんの昨日のコメントにもあります。
そのオリックスの寮もすぐそばにありました。

娘たちも手がかからなくなり、生命保険会社の窓口で働きだしました。
そこで聞いたのは、半壊認定の自社ビルにヘルメットをかぶり、いつ余震があるかわからない中でそれこそ命がけで、顧客の重要書類を持ち出したという話。
万一、ビルの倒壊でそれらの書類が社外に飛び出すようなことがあれば大変なことになるからと。
こういう事は他の会社でもあったのでしょう。

また、震災直後、ミネラルウォーターにウイスキーをセットで売っていたお店があったけれど、復興が進むにつれ誰も買いに行かなくなったというはなしも。
私のような行動範囲の狭い人間でも、報道されない小さな真実をたくさん聞きました。
神戸だけでなく、それ以降の震災のあった地域でもインパクトの少なさ故に報道されない事実もたくさんあることでしょう。

次女の中3の時の担任は、震災でお子さんを亡くされました。
そしてその後離婚され、お一人での生活となったそうです。
夢をかなえることのできなかったお子さんのことを思ってか、生徒たちには勉強一辺倒ではなく(公立ですが、かなりレベルの高い学校でした)、好きなこと、やりたいことを見つけた生徒には背中を押してくださる先生でした。
娘の同級生で中学卒業後に神戸を離れ、そして現在テレビや舞台で活躍する俳優になった人がいます。
過去の教え子の中には冬季オリンピックの選手や力士も。
次女も普通ではない道に進むことを決めましたが、それも後押ししてくださいました。

10年ぶりに京都に戻って

永遠に神戸、と言われていたのにトップが交代し、再び本社に呼び戻されることになりました。
神戸の西の端から1時間半近くの通勤時間、そして娘たちは京都の学校に通うことになり、再び京都に引っ越すことにしました。

神戸での暮らしはとても快適でした。
海と山が近く、それになにしろ歩いてスタジアムに通える!
野球もラグビーも徒歩圏内!

神戸に少し暮らしたくらいではわかりきれない、震災の落とした陰もあることでしょう。
でも、震災から少しずつ復興していく様子を肌で感じることができました。
道路が開通した、ビルが再興された、そういった話題が増えていくのがわかりました。
ルミナリエの暖かい灯りには鎮魂の思いを強くし、亡くなった方々のご冥福をお祈りしました。
京都で祇園祭の山鉾の鉾立で夏を感じるように、当時働いていた元町近辺にルミナリエの作品が組み立てられるのをみて、「あぁもう12月やね」と。

「震災後30年」ということで特番が組まれたりしてますが、明日からは又何事もなかったかのような日々となり、次の「震災後40年」まで忘れられるのかもしれません。

それは「終戦から80年」と言われても、当時を語れる人が少なくなっているのと同じ。

その事を知らない人が増えていくからこそ、個人レベルでも何かを残さないと、伝えていかないと、と思います。
取り組んだことだけでなく、しなかったこと、見てこなかった事も残しておく事が大切だと思います。

娘たちは幼稚園、小学生、中学校と多感な時期を神戸で過ごしました。
きっと親には話さないようなことも見聞きしたことでしょう。
被災者でない人間が被災地で生活したことによる、違和感、疎外感を乗り越えて共感に至る経験で得たものを今後に活かしてほしいと思います。私もそうありたい。

周年だけでなく、いつでも神戸の事を思います。

いつの間にか私も「しあわせ運べるように」を歌えるくらいに、娘たちは歌っていました。


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