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7 weeks #4

2020.07.20 mon

16:00
父の検査結果が出揃い、診断が出る日だった。仕事を早く切り上げて自宅から病院へ向かう。私の勤め先はコロナを機に全ての社員に完全在宅勤務を可能としていた。それがこんな形で役立つなんて思ってもみなかったが、ありがたいものはありがたい。

この間、肺がんについてそれなりに自分で調べた。
肺がんには大きな分類として小細胞肺がんと、非小細胞肺がんの2種類がある。多いのは非小細胞肺がんのほうで、前者の小細胞肺がんは進行がとても速く、たちが悪い。父に疑われているのはこの小細胞肺がんだ。
肺がん全体での5年生存率(男性)は約30%と低い。たちの悪い方のがんを疑われている上、父の腫瘍は明らかに大きく、病気が進行しており、この数字よりもさらに低い生存率が想定されることは明白だった。

父は新型コロナウィルスのPCR検査で無事陰性が確認され、個室から大部屋に移っていた。
呼吸器内科のある7階のフリースペースに妹とM氏と集合し、ナースステーションに声をかけると、その奥の個室に通された。主治医のM医師がパソコンのあるデスクの前に座っており、看護師が人数分の椅子を用意してくれた。父はすでに病室から出てきて医師のデスクの横に座っている。普段から着ているポロシャツとハーフパンツという格好で、相変わらず傍目には健康そうな普通の人だ。

主治医が検査結果を見ながら説明を始めた。

まだ最終確定ではないが、と前置きしながら、おそらく小細胞肺がんでしょう、と言った。腫瘍マーカーの値が上がっていないので、念のため追加の検査は行うが、小細胞肺がんでほぼ間違いない。小細胞肺がんは進行が速いため、この2−3ヶ月の間にほとんど何もない状態からここまでの大きさの腫瘍に進行した可能性がある。緊急事態宣言前まで何ら体調不良もなくランニングもしていたということだったが、その時点ではおそらく腫瘍がまだなかったか、あってもごく小さかったのだろう。肺がんを発生する年齢としては若い(65歳)ので、それも進行が速い要因のひとつになり得る。

小細胞肺がんはほぼ治らないので、治療は延命治療ということになる。

治らない。
延命治療。

医師が続ける。小細胞肺がんは転移しやすく、骨転移や脳転移に注意する必要があるが、現在のところ明らかな骨転移はない。脳は8月に入ってから頭部MRIにより検査する予定だという。
腫瘍が物理的に血流を悪くしているので、手足のむくみが出ている。そのため点滴のルート(抗がん剤投与などに使う)が取れにくいので、埋め込み型のポートを簡単な手術で付けられるようなら付ける。
小細胞肺がんに対しては、化学療法(抗がん剤による治療)が比較的効果があり、7割程度の人でがんの縮小が見られるという。ただし有害事象(吐き気、脱毛その他)が起きるので、それに耐えられる体力がなければ化学療法はできない。抗がん剤により免疫力が下がるので、感染症リスクが高まり、肺炎などで亡くなる場合もある。
抗がん剤治療は3週間を1クールとして行う。2クール行ったところで効果を測定し、腫瘍の縮小が見られればそこで一時退院できるかもしれない。その後は可能なら外来で抗がん剤治療を続ける。

そして、抗がん剤の効果が出ればがんは縮小するが、すでに腫瘍がかなり大きいので消滅させることはできないだろう。かつ、一度縮小しても数ヶ月すればまた大きくなるため、そこで再び抗がん剤を使うことになるが、有害事象により徐々に体力を消耗するので、いずれは抗がん剤も使えなくなる。そうなれば治療を止めるという話になる。

治療を止める。

抗がん剤が効いてがんが縮小したとしても手術はしない。今回のケースは手術はメリットよりデメリットが大きい。本人の体力を消耗するのでその後の治療が難しくなったり、かえって寿命を縮める結果になる可能性が少なくない。

一通り話を聞いた後、いわゆるインフォームドコンセントの証左として、同意書に父本人と、家族代表として私がサインをした。医師はまだ最終確定ではないと言っていたが、書面には「小細胞肺がん」という病名が書かれており、さらに未治療の場合の余命は1−2ヶ月とあった。

余命1-2ヶ月。

つまり、この驚くほど短い余命を抗がん剤治療でどれだけ先延ばしにできるかという話なのだ。治らない、かつすでに死期が極めて近いところからのスタートだ。そしてその抗がん剤も代償として父の身体を蝕み体力を奪い、いつかは使えなくなる。そうなればもう手の打ちようがない。俄には信じがたいが、紛れもない現実だった。

M医師が最後にセカンドオピニオンについて触れた。通常ならセカンドオピニオンを取りたいといった要望はなるべく聞き入れているが、セカンドオピニオンを取りに行っている間は治療を開始せずに待つことになる。父のケースは進行が速いがんである上、腫瘍の場所が悪いので、治療の開始が遅くなることはリスクだ。かつ、小細胞肺がんに関しては病院による治療方針の違いはあまりなく、せいぜい使う抗がん剤の種類や組み合わせが異なる程度ということだった。
医師が「もしもセカンドオピニオンを取る場合は、ちゃんとした医療機関に行ってください」と言った。がん患者やその家族の弱みにつけこみ、科学的根拠のない治療を施して法外な治療費を取る”医者”がいることは私も知っていた。M医師もおそらく、患者がそのような”医者”の元で不毛な”治療”を行った末、手の施しようがなくなったケースを経験しているのだろう。
幸い、父はサイエンスに全幅の信頼を置いている人だった。娘の私たちもその態度は自然と受け継いでいる。父本人がM医師の説明と治療方針に納得している様子なので、セカンドオピニオンは取らず、このまま江東豊洲病院でお世話になることになった。

17:00
医師の説明を聞き終えて、父も含めて4人で同じフロアの共用スペースに移動した。各々飲み物を手にしてテーブルに座る。
4人とも、死の宣告を受けた後とは思えない普段通りの様子だった。何より父が見た目には元気そうで、病室を出て自由に立ち歩いている。病院も綺麗で明るく、死の病の気配は感じられない。
もちろん4人とも、できることならこんな話は信じたくはないと思っていただろう。だからといって、現実から必死に目を背けているという空気感でもなかった。突然に渡された死の便りを、それぞれが自分の身体から少しだけ離れた場所に置いてみて、各々眺めているような、そんな雰囲気だった。父とM氏は仕事の引き継ぎらしい話をしつつ、合間に私と妹も加わって談笑する。写真まで撮る。時空が捩れたかのような、奇妙な光景だった。4人それぞれが受け取った事実は確かにそこにあるはずなのに、4人の周りを姿を見せずにふわふわと漂っているようだった。父本人を含めて誰も感情的にならず、それぞれに努めて冷静に受け止めようとしていたことはありがたかった。
父は入院中の病室にPCを持ち込んでちょくちょく仕事をしているらしかった。M氏が、くれぐれも無理のないように、と言う。何の気無しに、でも率直な感想として「仕事している方がいいよね」と私が言うと、父が「本当に、仕事がなかったらまいっちゃうよ」というようなことを言った。

18:00
父が病室に戻るので、少しだけ病室に立ち寄らせてもらった。5人部屋の1番奥、窓際のベッドを割り当てられていた。ラグジュアリー感すらあった個室とは打って変わって普通の病院然とした病室だが、窓際というのはいい。父は私に向かって「(ベッド周りの)写真でも撮っとく?」と言ったが、M氏が「写真は禁止されていますよ」と制した。

それから私たち3人は病院を出て、M氏とは豊洲駅前で別れた。私は妹とららぽーとに寄って夕食をとる。好きなものを好きな時に好きな場所で食べられることは、もはや当たり前でもなんでもなくて、ただの奇跡だった。
来週から抗がん剤治療を始めたいと主治医が言っていたので、その前にもう一度オンライン面会ができると良いねと話した。

19:30
妹と別れてから、子供たちのための買い物を少しして帰路につく。3月に開業したららぽーと3から豊洲駅前に続く広場は整備されてきれいだ。オリンピックに合わせて開業した新しいホテルやレストランもある。本当なら今頃ここは、五輪目当てで海外からきた観光客で賑わっているはずだったのだ。現実とは思えないことばかりの2020年夏、東京、豊洲。
ベンチに座ってしばらくぼさっと音楽を聴いた。

さよならをいう日まで/君のこと見させてよ
さりげのない場面にも/光を充てがおうよ
終わりには敵わない/それでいい/それまでが見せ場なんだ
月が見えた/明日が見えた
(「LIFE」TENDRE )


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ユカカ/パラレルキャリア人事部
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