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学べない人間の三つのタイプとは?『学びの構造』から読み解く。

「学ぶ」とは一体何なのか。

学ぶことが好きで、楽しくて、28歳の頃に社会人大学院(立教大学大学院リーダーシップ開発コース)に通い始めた私ですが、ふと、「そもそも、学ぶとは何なんだろう」と、そんな疑問が湧いた時に、手に取った『学びの構造』という本を改めて読み直しています。

この本、実は、立教大学の教授でもある中原淳先生に、「先生が人生で影響を受けた本はありますか?あるとしたら何ですか?」と個人的な興味で尋ねたときに、教えてくださった本でもあります。(教えていただいた次の日に購入して、読み始めました。)

そもそも人は学ぶ必要があるのか?
なぜ学ばなければいけないのか?
自分はどうやって学んでいるのか?
学びは何をもたらすのか?

ふと立ち止まって考えてみると、自分の学び方は、果たしてこれで良いのだろうか、と思う時があります。ある一定のパターンになってしまって凝り固まってしまっている可能性もあれば、自己流が正しいと思い込んでしまっている可能性もあります。

だからこそ改めて「学ぶとは何か」をこのタイミングで考え直そうと思い、この本を読んでいます。

今回は、この本の中でも出ている「学べない人間の三つのタイプ」についてまとめていきます。

【著者紹介】
佐伯 胖
日本の認知心理学者。信濃教育会教育研究所所長。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。主著:『幼児教育へのいざない』東京大学出版会 2001 年、『共感̶育ち合う保育のなかで』(編著)ミネルヴァ 書房 2007 年、『ワークショップと学び』(編著)[全3巻]東京大学出版会 2012 年、『子どもを「人間とし てみる」ということ』(編著)ミネルヴァ書房 2013 年、『「子どもがケアする世界」をケアする』(編著)ミ ネルヴァ書房 2017 年、『ビデオによるリフレクション入門』(編著)東京大学出版会 2018 年、など。


学べない人間の三つのタイプ

佐伯先生は、この本の中で学べない人間には三つのタイプがある、と述べています。ここでは、その三つのタイプについて、本の中の言葉を抜粋しながらまとめていきます。

無気力型

彼に取って学ぶとは暗記という労働であり、要するにやったという証拠さえあれば「勉強した」ことになることを言う。

p20より抜粋

これはそもそも学ぶということを「暗記すること」だと捉えて、内容はともかく勉強をしたという形が取れるとOK、という解釈を持っているということだと思います。これに関しては振り返ると、私は特に、大の苦手な数学においては無気力型だった気がします….とにかく問題は解いてみるけど、当たれば「ラッキー」みたいな感じというか….あの頃は、全然学べてはいなかったなあ。

ガリ勉型

勉強という「無意味作業」に課す要求水準の高さにあるのみで、勉強があくまで「やる」べき作業であり、やっているという「動作」が勉強の全てであると考えている。

p21より抜粋

勉強自体を「こういう理由だからやる」という自分自身の動機付けが特になされないまま、疑うことなく先生から出された宿題などの「やるべきこと」をひたすら向き合い、机に向かって長時間勉強をしていること、そのものに安心をするということだと思います。

これも耳が痛い話で、高校生の頃の自分を思い出します。高校生の頃は、勉強そのものは長ければ長いほど良い、みたいな考え方で学んでしまっていた気がします。努力すれば報われるんだ!という根性論というか。(この考え方は、私は嫌いではないのですが)少なくとも学びに対しての広がりや、自身の思考の深さ、みたいなことには繋がりにくかった記憶….

ハウ・ツウ型

あらゆる知識の問題を、彼は全て「やり方」の問題、うまくやる方法や手段の問題として考えるのである。

p23より抜粋

これは、ビジネスに置き換えるとありがちなパターンな気がしています。「なぜ」よりも「どうやって」ということが最優先になってしまうような。「なぜ」と問いをその場に置くという行為は、遠回りに感じてしまう。だから、早く目的を達成するために「どうやって」を考える。

一見、物事は早く進むし、学びも活かせているような気がするのですが、真理や本質が空っぽ、という可能性も。

そういえば、ジャーナリストの池上彰さんが、「すぐに役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」という慶応義塾大学の塾長であった小泉信三の言葉を紹介していましたが、この言葉を言い換えると「すぐ役に立たないようなことを教えれば、生涯ずっと役に立つ」という意味にも捉えられます。

佐伯先生は、これらを、せっせと本を読み書き写す作業としてとらえる「作業的学習観」と「考える」ことをすべて「うまくやる工夫」とみなす「方法的学習観」に分かれる、と整理しています。

そして、このような学習観に陥りやすいのは、①知識に対する権威主義的なみかた②真理というものに対する主観主義的解釈③人間にとっての「善さ」即ち道徳を「マナー」としてとらえる方法主義的道徳観、と説明しています。

この中でも私は②心理というものに対する主観主義的解釈の以下の一文を読んで、自分の考え方が大きく変わりました。

要するに「世の中を知る」ということは自分がそれを「感知」すればよいことであり、あくまで主観的にとらえ、自分が「悟る」ことであって、論理的な吟味や事実と仮説との一貫性の検証などは「悟る」ために必要ではなく、むしろその妨げにすらなると考え、そのような「理屈」をこねることは全くの単なる「知的作業」の一つとみなす。

p28より抜粋

主観的であることに価値を感じて、それ以上踏み込まない、思考停止になっている自分がいたな、とハッとしたんですよね。

最近も、そのことについて感じたことがあって、noteに記していました。(学びとは少し違う角度ですが)

学ぶということは「私はこう感じた」「私はこう思う」という主観だけを並べて対話したり議論したりすることだけではなくて、論理的な吟味や事実と仮説との一貫性の検証をすることでもある。

もちろん、主観や自分の解釈はとても大切なことだとも思っています。どちらかというと私は「解釈主義」に共感しています。

解釈主義とは、世の中の出来事や社会現象は、我々の知識と独立して存在しているのではなく、私たちがどのように解釈しているかが決定的に重要であり、その違いやあり方が政治的・社会的結果に影響を与えるため言説や文脈を重視して各主体がどう解釈しているかを把握することが社会諸学の要諦であると考えている。調査対象は客体ではなく、自らの活動や社会生活に意味を与える主体であり、その解釈を理解することを重視している。

『社会科学の考え方』より抜粋

一方で、とある事象や問題に対して、事実を事実として捉え、論理的に考えることや仮説を立ててみることで見える視座もあります。

「学ぶ」時に、すべて「主観」でまとめてしまっていないか。
批判的思考や知的な問いを投げかけることをやめてしまっていないか。

この本を読んでから、そんなことを考えるようになりました。ちなみにここまでのまとめだけで、第一章です。(この本は、全部で第五章まであります)

残りの第二章から第五章までも、「学ぶとは何か」という問いを掲げて読み進めていきます。



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