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因縁のカルダニ

ギオルギ・カルダニとの最初の出会いは19年のバクーでした。

グランプリ・バクー2019男子66kg級、2回戦。
試合開始から約3秒。肩車。
技ありの判定でしたが、すぐに一本に訂正されました。

あっという間の出来事。レベルが違いました。
この年の3月に東京国際選手権で国際大会デビューして以降、これが私の初めての海外での国際大会挑戦、そして初めての国際大会での敗戦でした。

この大会でカルダニは優勝。
カルダニもIBSA国際大会へは初めての出場でした。

彼は当時27歳、私は19歳。
まったくの別格。
圧倒的な実力差を見せつけられ、その後の敗者復活戦でも敗れた私は世界のレベルの高さを思い知らされるのでした。


カルダニはその後も66kg級で大会に出場、上位入賞を続け、わずか半年で世界ランキング5位にまで駆け上がります。

しかしコロナ禍による大会中止が明けた21年5月のグランプリ・バクー2021。
東京パラの出場権をかけた非常に重要な大会で、カルダニの名前は73kg級のトーナメントにありました。

この大会には私も出場しており、試合場横の選手待機通路で気合いを入れるために吠える彼を目撃しました。

この大会でカルダニは再び優勝。
さらに続く6月のグランプリ・ウォリックでも優勝。
わずか2大会で、約10大会の合計で集計された世界ランキングの9位に名を連ね、73kg級で東京パラの出場権を手にしました。


東京パラでこそ奮わなかったカルダニですが、それでも彼の強さは群を抜いていました。
東京パラ後の最初の国際大会、グランプリ・アンタルヤで優勝。同年のヨーロッパ選手権も制しました。

階級の統廃合によって73kg級へ階級を変更した私は、東京パラ後、初めて出場したグランプリ・ヌルスルタンで初優勝。その後のランキングを見て、やはり彼こそがパリでの金メダルに最大の難敵であることを認識しました。

22年5月末の世界ランキング
カルダニと同率1位

しかし、ここから1年以上、カルダニの長期欠場によって試合で顔を合わせることはありませんでした。


私が73kg級である程度の地位を確立しつつあった23年夏、世界選手権・バーミンガム。

イランのジェッディに初戦で敗れた私は、敗者復活戦の二回戦で4年ぶりに彼と相対します。

当時私の対抗意識は前年の世界王者・イランのジェッディ、共に66kgから階級を上げたアゼルバイジャンのアバスリ、カザフのオラザリューリーらに向いており、カルダニなにするものぞ。
今の私なら十分に勝てる相手だと思っていました。

しかし、結果は惨敗。
序盤こそ積極的に攻め、また彼の技を防ぐことができていましたが、長くは保たず。
得意の足技と肩車で畳に沈められました。
私の思い上がりに反して、彼にとって私などは取るに足らない相手だったことでしょう。


新たな階級に適応できたと思っていました。出場した各大会で優勝こそ逃しているものの表彰台に上がり続け、少なくともパリの出場は固いと思っていました。

初戦、王者ジェッディへの敗北は悔しいけれど納得はできます。
一方で、とうに追いついたと信じていたカルダニへの敗北は悔しい以上の衝撃を私に与えたのでした。
最も重要な大会を取りこぼしたことでランキングは大きく後退、パリ出場圏内から転落し、パリまで残りわずか1年にして私は崖っぷちに立たされました。


この夏、私は柔道への取り組み方の全てを変えました。
多くの犠牲を払い、不安や不満を呑み込み、金メダルだけを取るために、信念をも曲げて柔道を生活の中心に置きました。
これまで避けてきたウェイトトレーニングに着手。勝たなければならない試合で確実に勝てるように、負ける要素をひとつでも減らすために、階級変更以降課題だったフィジカルの補強を図りました。


フィジカル強化にある程度の成果が見え始めた12月、グランプリ・東京2023。
未だパリ出場圏外にあり、ここで勝たなければパリが絶望的な私は、背水の陣でこの大会に臨みます。

二回戦、三回戦と順調に勝ち上がり、続く準決勝。
ヤマ場を迎えます。

対するはジョージアのギオルギ・カルダニ。
今まで越えられなかった壁。越えなければならない壁。
ここで勝たなければパリの道は閉ざされる。仮にパリに出れたとしても金メダルは不可能なものになるでしょう。
絶対に勝たなければなりませんでした。

グランプリ東京 準決勝

やはり足技に苦しめられます。幾度もギリギリ腹這いで逃れますが、一度だけ、捕えられた足を外すことができませんでした。技あり。

リードを許す展開ながらも確実に成長を実感してもいました。パワーでは互角、肩車も無難に対処することができています。

そして、開始2分手前。
低く入った背負投で押し込むことができました。

会心の一撃 背負投

大きな大きな壁を超えた瞬間でした。
彼に負けたところから始まった世界への挑戦。
彼に負けたところから始まった苦しい道のり。
崖っぷちからギリギリ踏みとどまり、やっとパリに続く道に立てた気がしました。

決勝戦の前、選手の待機通路で彼に会いました。
「ナイス セオイナゲ」
初めて彼と言葉を交わしました。
ようやく対等になれた気がしました。

グランプリ東京 表彰式


以後、試合会場や計量で会った時には握手を交わすようになりました。
ずっと怖いという印象を彼に対して持っていましたが、意外にもギオルギ・カルダニという男は笑顔の優しい穏やかな人でした。


年が明け2024年。
ジェッディがドーピングで、オラザリューリーやアバスリがクラス分けで出場資格を失ったため、依然として一番の難敵はカルダニでした。
一度勝ったとはいえ、当たりたくない相手。

しかし再び対戦の機会は訪れます。

4月、グランプリ・アンタルヤ2024。
ドローの時点でカルダニは反対側のブロック。そして、スタミナに難のある彼は決勝には上がってこないだろうという予想。
さらに今回のカルダニは絶不調でした。まさかの初戦敗退。
これで対戦は完全に回避できた。そう思っていました。

しかし彼との間にはなにか引力のようなものが働いているのかもしれません。
私は準決勝でクランバエフに敗北。
カルダニは敗者復活戦を勝ち上がり、三位決定戦に駒を進めたのでした。

四度目の対戦はお互いが満身創痍の状態でした。
やや辛い判定ではありましたが、結果としては残っていた元気がわずかに多かった私が背負投を決め勝利。

この勝利をもって私のパリ出場が確定。
カルダニに負けて失った地位を彼への二度の勝利によって取り戻しました。

場外際 背負投
場内の判定で一本


因縁のカルダニ。

私の柔道人生の節目となる試合には彼がいました。
彼との対戦は私の柔道人生に大きな影響を与え続けてきました。
対戦成績は2勝2敗。
決着をつけるには最高の舞台だったのかもしれません。

パリ2024パラリンピック、決勝。

あれだけ苦手で恐れていた彼を相手に不安や緊張はあったものの、自信を持って臨むことができました。

パリパラリンピック 決勝

開始早々に一番の武器である背負投で技あり。
足技で一度危ない場面はありましたが、直後、出足払で技あり合わせて一本。
わずか45秒の出来事でした。


決勝前の昼休憩、試合後の畳の上、試合後のウォームアップエリア、表彰の待機通路。この日私は彼と何度も握手を交わしました。
表彰式で涙を堪えきれなかった私に彼は優しく寄り添ってくれました。


彼の存在は私の柔道に大きな影響を与え、パリへの道に大きな試練を与えてくれました。
彼の存在が私を成長させてくれました。
彼にとって私がどうであったかはわかりませんが、少なからず同じように思ってくれていると嬉しく思います。

長らく私を苦しめた、恐れていた、私の壁であったカルダニ。5年にもわたる因縁によって結ばれた彼と私の関係には、言葉は通じないし、おそらく互いの顔も正確には見えていないけれど、互いが互いを認め合い競い合う、戦友ともいえる絆があると思っています。

ありがとう、カルダニ。

グランプリ・トビリシ(24年5月)表彰式
パリパラリンピック表彰式

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