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裸にされた街

都会で飲み明かした経験のある人なら誰でも知ってると思うけど、夜空にネオンをきらめかせ、艶笑・ざわめきに溢れた歓楽街は、明け方近くになると泥酔した客をカオスの闇に封じ込め、やがてくる朝陽にその無惨な姿を晒す。
ペンキのはげた屋根だとか、半開きの軋んだドアだとか、あるいはポスターが引き裂かれた電信柱とか…。その脇には始発電車に向けて歩むサラリーマンの姿があり、あくびをするタクシーの運転手もいるだろう。

裸にされた街に
乾き切った風が砂埃舞い立て
愛しすぎてた街に
色とりどりの朝がまた来る

PANTA&HAL「裸にされた街」

この歌をうたうPANTA(中村治雄)は、1950年生まれのロックヴォーカリストで、作詞作曲も手がける。1972年に「頭脳警察」というバンドを結成してデビューし、左翼系の政治メッセージを盛り込んだ歌で一部マニアに熱狂的に受けた(らしい)。
1975年に頭脳警察を解散、ソロ活動を経て1977年にPANTA&HALを結成した。この「裸にされた街」という曲は、彼らのファーストアルバム「マラッカ」に収録されたものだ。

なにごともなかったみたいだ
街を行く人の顔は
あれほど深かった傷あとも消して
季節のよろめきに身をまかす

PANTA&HAL「裸にされた街」

僕は、中村治雄より7歳年下で、世代的に1960年代の学生運動とは無縁だったが(当時の僕たちは無気力、無関心、無感動の「しらけ世代」と呼ばれていた)社会のシステム化に逆らい、自分たちの「自治」や「共同体」を生み出そうとする上の世代の奮闘を肌で感じ取ってはいた。しかし70年代も終わりに近づくと、世の中のそうした機運は次第にすぼんでいき、人々はお給料を貯めてクルマや家電、ラジカセなどを買い求め、音楽でいえばサザンやユーミンなど、ちょっとオシャレでポップなサウンドが街をモダンに染めていくような気配があった。

闇の中を子供の群れが
松明を片手に進む
100 200 300と死に場所をもとめて
だれひとり 声もたてずに

PANTA&HAL「裸にされた街」

このフレーズを最初聴いた時、ドキッとした。中村治雄は何を言いたかったんだろう?かつては街の空き地や路地裏で忍者ごっこをして遊んでいた戦後の子供たちは、ある時期から一斉に塾通いに転じ、「無気力、無関心、無感動」を再生産するようになった。大企業や公務員をめざす若い世代の「寄らば大樹の陰」的な動きは、中村からすれば「死に場所を求めて」静かに行進しているように見えたのだろうか?

祈りをわすれたシスター
ことばをなくした詩人
笑いを拒んだ子供たち
叫びを捨てたRockn’ Roller

PANTA&HAL「裸にされた街」

こうして、人々の自発性は失われ、管理社会の<PIECE>として組み込まれてしまう。中村はそうした地滑り的な社会の動きがイヤでしょうがなかったのかもしれない。危機感を募らせていたのかもしれない。

浮気な時間はいつだって
勝手に流れを変えちまう
ことわりもなしに突然に
追いかけても無駄なことだよ

PANTA&HAL「裸にされた街」

このレコードが流行っていた時に、僕はPANTA&HALのライブを見たことがある。京都のライブハウスに彼らはやってきて、僕らの前でパワフルなロックを演じてくれた。「マラッカ」「つれなのふりや」「裸にされた街」…

ライブが終盤に差し掛かった頃、突然ステージ上のPANTAが持っていたコップの中に入っている水を、ザアっと観衆に向かって撒き散らし、それを合図に観客は総立ちになった。「お前らおとなしく社会の<PIECE>になんかなるなよ!」PANTAは僕たちに向かってそう叫んでいるように思えた。

あれから40年。
日本は輸出大国になり、若者は海外旅行やグルメ旅に明け暮れ、世俗のファッションを追いかけ、お立ち台に立つうちに、いつの間にか経済はしぼみ、企業の躍動感は失われていった。この間数度の大震災があり、列島は軋み、原発は壊れた。
そうなると<PIECE>は辛い。寄らば大樹の陰は、40年前の宿題をいま紐解かなくてはならない。その時にこのPANTAの叫び声や祈りが、もう一度僕たちを[無気力、無関心、無感動]から目覚めさせてくれるだろうか?

すべてはそこからしか始まらないだろう。
その意味でこの歌は今を生きていると思う。

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