感覚が失われていく
言葉に出来ない世界ってあるよなあと久しぶり感じた
理論的に考える
そのためには言葉にする必要があるので言語化する
その過程でいくらかの感覚が単純化され、失われてしまう
言葉は多様だが、感覚はもっと多様だ
その多様な感覚をなるべく多く包括するために
言葉が増えたり、使い方を工夫する必要がある
それと同時に感覚を忘れないでいる必要もあり、
考えて構築していくことも大事だが、
失われてはいけない物が失われてはいないか、
その確認のためにも感覚を研ぎ澄ます時間や習慣を作る事がとても大事だ
今日食べたうどんの出汁
あれはいつも食べるのより少ししっかりした味
今日飲んだコーヒー
あれは浅煎りで豆量を増やし過ぎたのか酸味が立っていた
それでもフルーツのニュアンスが出ていたのでエ
夫次第でもっと美味しくなりそう
そんな些細な感覚は時代が進んだから生まれたのか、むしろ昔はあったのに失われてきたのか
クラシック音楽や絵画などにあまり詳しくないからわからない
父の持っている陶器には自然の美しさのような感覚が吹き込まれているように思った
陶芸も詳しくないが、陶芸が今も注目され民藝として親しまれているのは昔から感覚を研ぎ澄まし、感じて、芸術作品にそれを吹き込むと言うことをしてきたのだろう
しかし、感覚が失われて何か問題があるのかと考えてみてもわからない
それが今の社会から感覚が失われていく事の要因の一つなんだろう
倍速再生やショート動画
その方が効率が良いと言ってそれを良しとする
確かに頭で考えると効率が良いと思う
でも感覚はそう言っていない
なんか違う気がしている
それらを全く否定するわけではないが、
効率に支配された時人は幸せになれない
それを理屈で表すのがとても困難だ
頭で考えることも大事なのだが、
感覚も同じように大事
いや、感覚の方が大事である可能性もある
どちらも両立出来る状態を目指したい