ていねいな暮らし
邦ロックDJをやっている友人が、よく「ていねいな暮らし」という一文を添えてSNSへ投稿している。
しかし添付されている写真は、いわゆる二郎系ラーメンだ。
味の濃いスープにこれでもかと浸された大量の麵。
それは「ヤサイ」という名前で本当に合っているのかと問い詰めたくなる山盛りのモヤシ。
こくこくに煮込まれた極厚チャーシュー。
仕上げにぶっかけられたこてこてのアブラと生のきざみニンニク。
いつも思う。
それを食べるのは「さいこうの暮らし」ではあるが「ていねいな暮らし」とは言わない。
"ていねい"と名のつくものに、そんなにもアブラが浮いていてたまるか。
あまり、ていねいを、舐めるな。
さておき、豊かな自然の中で生まれ育ったくせに自分の生活に対していい加減なわたしは、ていねいな暮らしに憧れてやまない。
それは、『西の魔女が死んだ』のおばあちゃんの生活で、また、以前共演したシンガーソングライターが毎日欠かさず投稿しているような、おしゃれで慎ましやかな朝食を食べる日常のことだ。
暮らしが自分の中で根を張っているのがとても素敵で、生活の確かな軸を感じる。
かっこいい。
今すぐは無理でも、いつかこうなりたい。
とはいえ密やかに、もう少し年齢を重ねたら、そんな暮らしに近づいていくのでは、という期待がある。
家に小さな畑があって、朝早く起きて、水をやって、芽が出たことをひっそり喜んで、生活のための生活を楽しみながら生活する。
素敵ではないか。これはもう"ていねい"としか表現できない。かっこいい。
しかし、思い返してみると、大人になったら…と妄想していたことは、漏れなく全て叶っていない。
責任感はないし、あたふたするし、話すこともまとまりがない。
きっと、時間の流れなんかではなく、ていねいであろうとする方向に、自ら足を進めるしかないんだろう。
そんなていねいさはまだ持ち合わせていないのだが、この場合はいよいよ、どうすればいいのだろう。
いまのところわたしの生活は、さいこうな暮らしだ。
いつ、ていねいに、なれるだろうか。