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毒舌とはキャラではなく芸のことを指す

面白くするため
時に人のことを悪く言ったり、時に人を傷つけるようなこともある。
それが世間の皆さんが思う毒舌のイメージだろう。

賛否両論を巻き起こし、決して子供からお年寄りまでに好かれることはない。
むしろ、何かしら物議を醸すので、嫌われる場面のほうが多いかもしれない。

世の中には「人を傷つける可能性のあるものを笑いと呼べるのか?」といった意見もある。
たしかに正論だ。誰も傷つけずして笑いを取れるに越したことはない。

だが、ここで大切なのは毒舌とはキャラクターではなく、1つの芸だということだ。

芸の積み重ねが結果としてキャラクターになっていくことはあるが、キャラクターから始まる毒舌を私は認めない。

なぜなら、キャラクターから始まる毒は悪口が先行しているのに対し、芸から始まる毒にはプロとしての技術が先行しているからだ。

ようは、毒舌にも話芸やテクニックを必要とし、芸を伴わない毒舌はひたすらに気分を害することとなる。

この紙一重の戦いに勝ち続けることで、ようやく毒舌は1つのジャンルとして認められる。

それゆえ、かなり道のりは過酷である。
下手な人が手を出せば、スベり散らして大惨事が待っている。実際に力不足の芸人が何かしら毒づいた結果、とんでもない空気になった場面に遭遇した経験は1度や2度ではない。
それどころか、あまりにスベリすぎた結果、無礼な発言だけが先行し、ネットが大炎上することもある。
やはり毒舌はキャラではなく芸なのだ。
腕がなければ毒舌を背負うことはできない。

漫才やコントでも人をバカにしたような内容や、誰かを傷つけてしまいかねないネタはある。

子供からお年寄りまで気楽に楽しめるものが"お笑い"という考え方も分からなくはない。
ご時世的にも、その風潮は強い。

だが、なんだかんだ言ってもそれはキレイゴトなのではないだろうか。

もし、毒の要素が抜かれた芸人で全てが塗り固められてしまったら、それはそれで不満が噴出することは目に見えている。
テレビが面白くないと言われ出したのと同様、また同じことを繰り返すのは容易に予想できる。
毒がなくて好感度の高い芸人も、毒がある人ありきなのだ。

笑いはエンターテイメントなのだから、どんなものがあってもいい。
もちろん、人の道から外れたものや差別的な表現は笑えないのでNGだが、笑える範疇のものなら基本は自由だ。

そこを自由にしておかなければ、笑いの文化は確実に退化していく。

音楽も同じ。
コンプラ的な理由で自由を奪い続けていたら、ロックもヒップホップも存在しなかっただろう。

そもそも、どうして毒舌は一定数の支持を得るのか?

それは"人を批評する視点"と"笑いの相性が抜群だからである。

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