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M-1グランプリを日本一のお笑い番組にしたのは審査員だという真実

M-1グランプリの決勝が近づいてきた。

この時期になると、当然仕事場でもネット上でもM-1の話が出てくる回数は増える。
話題が出るということは、盛り上がっている証拠なので、お笑いの世界において素晴らしいことだ。

だが、こういった盛り上がりは逆に1番大切なことを見落としがちになるタイミングでもあるので、この場を借りて一石投じさせてください。

そもそもM-1グランプリとは何か?

分かっている人は一定数いるが、最近になって分かっていない人が非常に多い印象を受ける。
しかも、お笑い好きを声高に宣言する人ほど根底にある大切なことや全体像が何も見えていない。
なので、この注目度が異常に高い漫才賞レースの根底に流れている"1番大切なこと"をきっちり説明させてください。

まず、2001年にスタートしたM-1グランプリだが、他のお笑い賞レースと比べて、圧倒的に別格だという事実は誰もが理解できるだろう。

だが、なぜM-1だけが別格なのかを説明できる人は意外と少ない。「他の賞レースよりもM-1に出たほうが売れるよね」くらいの感覚である。

別にそれは知らなくていいのだが、ここを知らないままM-1と向き合うことが間違いに向かわせている根源なのは明らかだ。

この文章を読んだ人には覚えておいてほしい。特にお笑い好きを自称している人ほど、これを理解した上でM-1に向き合ってほしいです。

まず、M-1グランプリを創設したのは島田紳助氏であり、始まる際にはいくつか番組コンセプトが設定されている。

若手漫才師の日本一を決める。
優勝賞金は破格の1000万円。
出場条件はコンビ歴10年まで。(現在は15年)
この期間内で結果を残せないのなら漫才師を辞めるキッカケにするという1つのハードルも紳助氏は設けていた。

賞金の高額さを除けば、ここに別格さを表す要素はない。賞金にしても今では優勝賞金1000万円の大会は増えたので、もはや賞金の高さに別格さは感じない。

では、なぜここまで別格になったのか?

それは審査員である。

紳助氏の尽力もあり、M-1グランプリは審査員席に雲の上を突き抜けた一線級たちが座る。
もちろん全員だとは言わないが、芸の世界における天下人が若手の漫才を審査する。

M-1グランプリとはこれが全てなのだ。

天下人たちが座る審査席から放たれるピリピリ感や常軌を逸したオーラと緊張感、それらがM-1グランプリの格でありブランドを作り上げた。

出場漫才師たちは、その審査員たちの前で漫才を披露することに大きな価値があり、その結果熱心なお笑い好き以外からも注目を集め、他の賞レースとは比べ物にならない驚異的なソフトへとM-1は成長していく。

たまに「M-1は出場漫才師たちのものであり、審査員のものではない」という類の正論っぽい雰囲気を出した意見を見かけるが、それはとんでもなく稚拙かつアマチュアな発想である。

それならテレビ放送もなしで、ライブハウスみたいな場所で熱心なお笑いファンだけ集めて勝敗を決める漫才コンテストをやればいい。

M-1は1年に1度全国ネットで生放送する、大きな大きなテレビ特番である。
そこの影響力や規模の大きさなどを分かっていないお笑いファンが、「M-1は出場者たちのもの」などと言って、出場芸人に対する肩の持ち方を間違える。

●たくさんの人に見てもらえる状況
(とんでもない高視聴率)

●何よりも注目を集めるステージ
(お笑い好き以外も真剣にネタを見る)

●芸人として売れる切符が手に入る可能性
(これからの芸人人生を劇的に変える)

これら全てを司っているのは審査員なのだ。

決勝出場者たちは誰が出てきてもM-1だが、決勝の審査員は誰が出てきてもM-1とは言えない。

審査員たちが一晩だけ若手の漫才を
1番日の当たるステージに担ぎ上げる。

それこそM-1グランプリが別格であり続けた最大のストロングポイント。

M-1の主役は出場漫才師たちだが、M-1に価値を与えているのは審査員たちだ。
一般的にはまだ何者でもない漫才師たちに4分間の輝きを与えているのである。

無名だろうが売れてなかろうが一夜にして、ここまで世間に名を知らしめるチャンスは他の舞台にはない。
興味のない人にまで届くことでメジャーへの道は開拓されていく。

M-1はお笑いマニアのものではないのだ。

そこを分かっていない人が多すぎる。

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