【無料】半径5メートルの世界に広大な笑いが待っている
「笑い」にも多種多様あり、取り扱うテーマや表現技法によって何もかもが異なる。
当然、人それぞれ好みは千差万別ですが、全てを網羅して繊細かつ大胆に紡ぎあげる普遍的な笑い。
それは半径5メートル。
私たちの身の回り半径5メートルの距離感の中に、真っ直ぐに本質を突き刺す笑いが待っています。
何も起こっていないといえば起こっていない。
しかし、実際は何かが起こっている。
お話を描くストーリーでも、ホームドラマと呼ばれるものや、ヒューマンドラマと称される物語など、半径5メートルを描く際に必要なのは鋭い着眼点と圧倒的表現力。
何も起きていないようでも、ドラマはすぐそこに落ちている。
派手な爆破シーンがあるわけでも目を見張るCGがあるわけでもない。
類稀なる高等技術と共に、種を拾い上げては丁寧に構築し、展開を広げていく。
目の前に見えたものが全てじゃない。
行間を読めるか否かも問われるがゆえ、半径5メートルの中で描かれる世界は無限に広がる。
誰の人生にも起こる当たり前のストーリーを笑いに変える。
そうやって何気ない日常の一コマが人々の笑い声へと昇華されていく時…
我々は何事にも変えがたい不思議な気分と共に笑みをこぼし溜飲を下げる。
半径5メートルの中にありふれた大小様々を次々エピソードトークへと変えるプロフェッショナル。
まさしくキングオブコメディショーと呼ぶに相応しい。
1人しゃべって笑いをバンバン生み出せば、それは話芸における王様である。
スタンダップコメディと呼ばれるものがアメリカのエンタメシーンには根づいている。
1人でステージの上に立ち、とにかく1人でしゃべってしゃべってしゃべりまくって、笑いをドカドカと量産していく。
このスタンダップコメディ形式の笑いは日本でなかなか根づかない。
なぜなら、現状において日本を代表するお笑いは漫才だからだ。
かけあいの妙や、やりとりの変幻自在さ。
ボケとツッコミの役割から滲み出ていく間や空気感や関係性。
それらを楽しむ姿勢が根づいている。
ゆえに、日本のお笑い文化においては漫才が圧倒的にメジャーである。
近年、M-1グランプリが社会現象的盛り上がりと共に権威づけされ、そのブランドイメージはさらに底上げされている。
おそらく、1人板の上に立って戦う芸の代表格は落語だろう。
文化的な側面、長い歴史を踏まえた説得力、
古典も創作もふくめ、落語は唯一無二の世界観を構築している。
ゆえに、ある種の別格である。
漫談と呼ばれる1人しゃべりもあるが、「漫談」と呼ばれるものは、どことなく肩の力を抜いた芸事のようなイメージもある。
落語でもない。漫談でもない。
日本には「おしゃべり大好き」がある。
お笑い界のラスボスは、たった1人ステージに立ち、ひたするにしゃべりまくる。
書いて字の如く、おしゃべりが大好きなのだ。
そこに理屈なんてなく
おもしろい話をみんなに聞いて笑ってほしい。
ただ、それだけ。
「大好き」の中に込められた意味を勝手に定義づけしてみるが
しゃべるのが「大好き」
みんなに聞いてもらうことが「大好き」
みんなに笑ってもらえることが「大好き」
「大好き」なことを話して、共有して分かち合う。
その空間の全てが「大好き」なのだ。
ステージ上で繰り広げられるエピソードは
誰もが人生の中で触れてきたような話だったり、これからの人生で触れていくような話だったりする。
大それた話など1ミリもない。
半径5メートルだ。
みんなにとっての半径5メートル。
ここに普遍的な笑いと人生の機微がある。
テクニック、経験則、表現力、構成力
それら一流のプロフェッショナルの技を全て踏まえた上で、その何もかもを超越していく人間力。
全ての土台を支えるのが人間力。
そこには人間がいて、人間だけが放つ力がある。
1人の人間がしゃべり、たくさんの人間が笑う。
人間が話し、話を聞いた人間が笑う。
文明は進歩し、ウィルスは蔓延し、世の中は大きく変わり果てた。
しかし、ここの空間だけは何も変わらない。
1人で板の上に立ち、しゃべってしゃべって人々を笑わせるだけ。
真剣にふざけて、真摯に笑いを追い求める。
娯楽が溢れかえる世の中。
プロアマ問わず、コンテンツの供給は止まらない。
何を観るのも何を観ないのも、あなた次第。
ただ、一つだけ。
世の中で一つだけ例外があるとすれば…
おしゃべり大好きは観たほうがいい。
人それぞれ好みは千差万別だが、好みの世界をも超えていく。
なぜなら、我々が住む世界と地続きで存在するステージだからだ。
とにかく観てよかったと。
きっと、そう思えるはず。
前代未聞、昨年から100年に一度とも言える未曾有の事態が巻き起こり、我々の生活は一変した。
例年以上に芽生え始めた半径5メートルへの意識。
あなたのすぐ足元に、笑顔の花が咲く準備をして待っている。