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<芸術一般>俳句について

松尾芭蕉の次の句が、鈴木大拙の「禅と日本文化」に引用されている。

やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声

大拙によれば、この句は人生の無常を意味したものではなく、芭蕉の無意識に対する直覚だという。それはまた、「明日をおそれず、明日に属する事象をおそれぬ、蝉や蝶の内的生命を理解するのである。」と説明している。

日本人は、こうした昆虫や草花に対する擬人的な投影が、芸術作品に多い。

朝顔に 釣瓶取られて もらい水

で有名な、加賀の千代(女)という人がいる。この朝顔の句を敢えて説明すれば、朝起きて、井戸水を汲みにいったら、朝咲いた朝顔の弦が桶と紐に巻き付いてしまって水を汲めない。だからといって弦を切ってしまうのも無粋だから、近所の人から水をもらうことにした、という句だ。夏の爽やかな朝の風景と、美しい朝顔の花と弦の情景が浮かんでくる。

たぶん武家の娘(つまり武士道を叩き込まれた人)であったと思うが、別の句で、子供を亡くして、いつまでも「死んだ子の年を数える」ことは恥辱となるため、俳句の世界でこの切ない気持ちを良く表現している。なお、当時トンボを取りに行くことを「トンボ釣り」と表現し、子供の遊びとして普通にあった。

トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら

そう、千代の姿の見えない子供は、今日もトンボ釣りに行ったのだろうか。まだ帰って来ないが、きっと遠いところまで追いかけて行ってしまったのだろう。・・・そして、あまりにも遠いところ(あの世)まで行ってしまったために、もう家に帰って来ないのだろう・・・。

トンボは秋の風物だから、おのずとトンボが飛ぶ風景は、寂しげな夕焼けの茜空が浮かんでくる。そこに小さな子供がどんどん遠ざかっていく風景が重なることで、千代の子供を亡くした悲しみが、より深く伝わるような名句だと思う。

ちなみに、これは今読んでいる新渡戸稲造「武士道」の、女子の武士道教育を説明するくだりにあったものだ。「武士道」は、キリスト教によって道徳概念(原罪、喜捨、寛容、隣人愛等)を教育されるヨーロッパ人に対して、無宗教と言える日本人が、いかにして高度な道徳概念を教えられるのかとの外国人研究者からの問いに対して、新渡戸が英語で書いた答えだった。

日本人は、自然崇拝を基本とした、禅と武士道によって、豊穣かつ高度な道徳概念を、俳句のような文化的に洗練された感情表現で日々身近なものにしている、と思う。もっとも、それは第2次世界大戦前までの日本人に限定されてしまうだろう。もう、「武士道」で表現される日本人は、現存していないようだ。

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