【映画】『福田村事件』/いま一度自分の差別意識と向き合うきっかけに
みなさん、こんにちは、こんばんは。
最近は、隔週に𝕏でスペース配信している「#EDDIEのかく語りき」のまとめ用noteみたいになっていますが、久々の単独映画作品の紹介記事です。
はい、あまりにも衝撃的でした。
1923年、関東大震災を境に巻き起こった「朝鮮人虐殺事件」を描いている作品で、史実としての資料もほぼ残っていない、当時の関係者や子孫からも証言がなかなか得られないというもので、森達也監督は劇映画として製作することを決めたそうです。
もともと2019年に製作したドキュメンタリー『i-新聞記者ドキュメント-』が劇映画でのオファーだったということもあり、そのタイミングで今作『福田村事件』の劇映画としての企画を考え出したといいます。
ずっとドキュメンタリー映画ばかり製作していた森達也監督が劇映画を撮ったらどうなるのだろう……興味は尽きることがありませんでしたが、今回この映画を観て確信しました。
森達也監督は劇映画も撮れる人だと。
このnoteを更新した今日時点では、個人的に2023年の映画ベスト1位は今作でございます。
それでは『福田村事件』について、ネタバレなしのあらすじ紹介から、監督とメインキャストの紹介、そしてネタバレありの解説記事という構成で紹介してまいります。
①『福田村事件』/作品紹介(あらすじ)※ネタバレなし
映画鑑賞直後の感想はこちら。
本当に圧巻でした……ドキュメンタリー作家の森達也監督が劇映画を撮るとどうなるのだろうと、不安と期待が入り混じった状態でしたが、全てが杞憂。間違いなく2023年に”いま観るべき映画No.1”と言えます。
さて、まずは監督とメインキャストの紹介を行い、そしてパンフレットなどにも書かれていた史実とフィクションの境目について解説してまいります。
②『福田村事件』/監督とメインキャストの紹介
まずは監督とメインキャストの紹介です。
◆森 達也(監督)
森達也は、広島県呉市出身のドキュメンタリー作家。
今作『福田村事件』はドキュメンタリーではない、劇映画の監督デビュー作になります。
森達也監督といえば、オウム真理教信者たちの日常を追うドキュメンタリー映画『A』が有名でしょう。1997年に同作を公開すると、2001年には続編となる『A2』を公開、さらには2010年に書籍『A3』を出版し、第33回講談社ノンフィクション賞を受賞しました。
個人的に印象的な作品でいうと、ゴーストライター問題で一世を風靡した佐村河内守氏を追ったドキュメンタリー『FAKE』です。
◆井浦新(役:澤田智一)
井浦新は、東京都日野市出身の俳優、ファッションモデル。
長らく”ARATA”名義で活動していましたが、2012年に大河ドラマ『平清盛』への出演をきっかけに本名に。
映画、ドラマともに引っ張りだこなベテラン俳優は、2008年に『蛇にピアス』で奇抜な役柄を演じたことが印象的で、後に同作で共演した吉高由里子と共演したドラマ『最愛』での献身的な弁護士の役が記憶に新しいです。
◆田中麗奈(役:澤田静子)
田中麗奈は、福岡県久留米市出身の俳優。
清涼飲料水『なっちゃん』のCMの初代イメージキャラクターとして人気を博し、まずは映画を中心に出演を重ね、2005年頃からドラマへの出演も増え始めました。
これが代表作という映画やドラマこそパッと思いつかないですが、2007年に出演した実写映画『ゲゲゲの鬼太郎』の猫娘役が印象的。
ただし、CMにも多く出演しており、一般的にはかなりイメージの良いタレントという感覚が強いです。
◆永山瑛太(役:沼部新助)
永山瑛太は、東京都板橋区出身の俳優。妻は歌手の木村カエラ、弟は同じく俳優の永山絢斗。
芸名”EITA”でモデル活動を開始し、2002年頃には”瑛太”に改名。映画『サマータイムマシン・ブルース』やドラマ『WATER BOYS』など話題作に出演し、人気を不動のものにしました。そして2020年に本名の永山瑛太に改名。
2023年は本作のほか、『怪物』といった話題作で中心人物の役を演じています。
◆東出昌大(役:田中倉蔵)
東出昌大は、埼玉県出身の俳優。189cmの長身がトレードマークで、朝ドラ『ごちそうさん』で共演した杏と2015年に結婚。その後、2020年の映画『寝ても覚めても』で共演した唐田えりかと不倫したことがきっかけで、CM降板や杏との離婚など、マイナスイメージがついてしまいました。
とはいえ、出演する映画やドラマはいずれも演技を評価されており、僕個人としては東出昌大がメインキャストの作品にハズレなしと思っているほど。
2021年の映画『草の響き』はその年の僕の年間映画ベスト1位、今作と同年の2023年公開の映画『Winny』も上半期映画ベスト3位と、間違いない俳優の1人であります。
◆コムアイ(役:島村咲江)
コムアイは、神奈川県出身の歌手、俳優。
音楽ユニット”水曜日のカンパネラ”の初代ボーカルとして、2012年に同グループ結成&YouTubeデビューを果たします。
歌手としての彼女にはあまり詳しくないですが、”水曜日のカンパネラ”2代目ボーカルの詩羽も近年俳優としての活躍が目覚ましく、表現力の豊かなグループなのでしょうか。
本作でも他の俳優には出せない独特の魅力を放っており、今後の俳優業での活躍にも期待したいところです。
◆松浦祐也(役:井草茂次)
松浦祐也は、埼玉県出身の俳優。
2003年に城定秀夫監督の映画『味見したい人妻たち』でデビューを果たすなど、俳優歴は20年と長いです。とはいえ、彼を一躍有名たらしめたのは2018年の映画『岬の兄妹』でしょう。強烈な演技で映画ファンに印象を残し、その後は話題作に続々と出演。今作では、福田村の村民、井草茂次役としてかなりインパクトを残しています。
◆木竜麻生(役:恩田楓)
木竜麻生は、新潟県新発田市出身の俳優。
2014年に映画『まほろ駅前狂騒曲』でデビューを果たし、2018年には瀬々貴久監督の映画『菊とギロチン』で300人のオーディションから主役を勝ち取り、映画初主演を果たしました。
2022年には『わたし達はおとな』や『ヘルドックス』、2023年は東出昌大と共演した『Winny』など俳優としての存在感がどんどん増していっています。今作では個人的に最も力強い演技で印象づけてくれて、陰のMVPを与えたいぐらいです。今後の活躍もますます注目しています。
◆水道橋博士(役:長谷川秀吉)
水道橋博士は、岡山県倉敷市出身のお笑い芸人、作家、俳優。
ビートたけしの弟子として芸能界入りし、浅草キッドで漫才コンビのツッコミとしてデビュー。
長年、お笑い芸人、タレントとして活動を続けながらも、2022年には政治家として活動を開始し、参院選に初当選。ただし、過去に一度発病したうつ病が再発し休職。2023年に復帰し、実質的に表舞台としては今作が復帰作となりました。
◆豊原功補(役:田向龍一)
豊原功補は、東京都新宿区出身の俳優、ミュージシャン。
1982年に映画やドラマに出演するようになり、1990年代は映画やドラマに端役も含め多く出演しています。ドラマっ子の僕は、1990年代といえば、『ロングバケーション』や『青の時代』の出演が印象的。
阪本順治監督の『亡国のイージス』や『カメレオン』などに出演し、2007年の映画『受験のシンデレラ』では第5回モナコ国際映画祭で最優秀主演男優賞を受賞しています。
ちょっとキザな役柄がとにかく似合う俳優ですが、今作では福田村の村長というマトモな人物を演じています。
◆柄本明(役:井草貞次)
柄本明は、東京都中央区銀座出身の俳優、演出家、コメディアン。
映画ファンなら知らぬ人はいない俳優一家で、妻は角替和枝、息子は柄本佑、柄本時生、佑の妻で義理の娘は安藤サクラ。
重厚なテーマ性ある映画やドラマだけでなく、コメディまで幅広い演技をそつなくこなし、何よりも彼の登場するシーンは一瞬で締まる、そんな印象です。
直近の作品で言えば、『ある男』の役柄が主役を食う存在感でした。
③史実とフィクションの境目(※以下、ネタバレあり)
さて、今作は1923年9月1日の関東大震災を皮切りに流言飛語が飛び交い、史実にもある「朝鮮人大虐殺」に繋がっていく話を映画として描いていきます。
しかし、Wikipediaにも解説がある「福田村事件」は当事者が語らないことや資料がほぼ残っていないことからどこまでが真実でどこまでが嘘かが計りかねるところがあります。
ということで、ここでは映画の中で描かれた話でフィクションなのはどこなのかを、わかる範囲で解説していきましょう。
●主人公夫婦は架空の人物
井浦新演じる澤田智一と、田中麗奈演じる澤田静子はこの映画のために作られた架空の登場人物です。
映画の中に登場した讃岐の行商人たちが15人いたことと、男女比の構成は史実の通りだそうです。
そこで、この行商人たちと福田村の村人たちの対立を描くことが話の軸になるので、彼らのエピソードをうまく作用させるための要素として架空の人物として誕生した夫婦だそうです。
ドキュメンタリー出身の映画監督が、劇映画を作る際に主人公たちを架空の人物で仕上げるというのは非常に面白い試みだと感じました。
ちなみに、実在のモデルもいないとのことです。
●劇中に登場した新聞社は架空の会社
今作で重要な役割を担う、木竜麻生演じる新聞記者の恩田楓が所属する新聞社が「千葉日日新聞」。
同じく編集部長の砂田役はピエール瀧が演じていましたが、この千葉日日新聞は過去も現在も実在しません。
当時あった新聞社は、東京日日新聞と千葉日日新報で、それらが命名の由来になっているとのこと。
●関東大震災前後の時系列が異なる
今作では、関東大震災が起きた直後から、福田村のある千葉県では朝鮮人が暴動を起こしているという噂がどんどん広まっていく模様が描かれています。
しかし、史実では震災直後には暴動の報道は出回っていないといいます。
というのも、内務省が地方各地の警察署に通達した文書が噂の発端となるので、この段階では千葉県には暴動の報道は行き渡るはずがないのです。
実際には、上記のデマの源泉となる文書の裏取りをせずに真に受けて報道した他の地域の地方紙の方が出回るのが早かったとか。
●讃岐の行商人が歴代天皇の名前を言わされたのは真実
映画のクライマックスでもある大虐殺シーンですが、その前に讃岐の行商人たちが「朝鮮人じゃないのか?」と問いただされ、様々な質問をされているシーンがあります。
その質問の中で「歴代の天皇の名前を言ってみろ!」と問われるシーンがありますが、これは実際の裁判の証言として残っているそう。
フィクションも織り交ぜながら、これだけ丁寧に史実のエッセンスを入れていることに、本作にかける森達也監督の想いを感じることができますね。
一方で、今作で行商人たちが朝鮮人だと疑われる中で、福田村の村民から確信されてしまうきっかけとなる朝鮮の扇子は本当かどうかはわからないので、脚本家の佐伯俊道氏による創作とのこと。物語の中でとても重要な要素となる朝鮮人の飴売りの少女。フィクションだからこそ、物語にブーストをかけられるきっかけともなりうるのがわかります。
フィクションと史実の組み合わせが見事に折り重なった奇跡のような映画だと改めて感じました。
④5つの視点で語られる群像劇
今作は大きく分けると5つの場所・視点から語られる群像劇として仕上げられています。
それは下記の通りです。
・福田村に移住してきた澤田夫妻
・福田村の村民たち
・千葉日日新聞の記者たち
・讃岐の行商人たち
・東京の劇作家
これだけの人物やグループが介在しながら、137分の尺で全く話が渋滞しなかったのは本当にお見事というほかありません。
登場人物がどれだけ多かったかは、エンドロールの役者の部分を見ていただければ十分にわかると思います。こんなにいたのか、と。
さらに細かく仕分けると「福田村の村民たち」については、東出昌大演じる倉蔵とコムアイ演じる咲江、松浦祐也演じる茂次と柄本明演じる貞次と向里祐香演じるマスの井草家、豊原功補演じる村長の田向と水道橋博士演じる長谷川ら軍人の3グループに分けられるかとも思います。
これらの視点が織り混ざりながら、順々にそれぞれの抱える悩みや疑心、ヘイトの部分が炙り出されていくからこそ、クライマックスが盛り上がったと言えます。そういう意味で、森達也監督と脚本の佐伯氏の狙い通りという技術の高さを感じざると得ません。
●澤田夫妻
澤田夫妻は前半こそ目立ちませんが、物語の中盤以降から主人公たる所以が徐々に浮かび上がっていきます。
夫の智一は元教師で、もともと朝鮮で日本の憲兵たちによる朝鮮人大虐殺を目にした過去があります。そして「東洋拓殖」の重役の娘であるお嬢様の妻・静子とともに故郷の福田村に戻ってくるという背景設定です。
智一は朝鮮在住時代に、大虐殺が起こっても傍観者でしかなかった……しかも男性としての機能も不全になっており、妻とはしばらく体の関係がありません。
一方、妻の静子は自分を女として見てくれない(と思っている)智一に不満を抱き、船守の倉蔵と船の上で逢瀬を遂げるわけです。
そんな光景を遠くから見ていた智一はその時もただ見ているだけでした。
もちろんただ傍観しているだけの理由としては男性としての機能不全が妻に対して申し訳ないとか、自分には怒る資格すらないとか、彼の性格的にはそんな想いが頭の中を巡っていたのでしょう。
だから、彼女を迎え入れるときに、黙っておんぶをするという行為で受け入れたのです。もはや教師としても生きることができなくなった彼にとって、唯一の拠り所が静子なわけです。彼女がもし彼の前からいなくなっていたら、きっと智一は廃人になっていたかもしれません。
そして、この一連のシーンがあるからこそ、終盤の智一の覚醒に繋がった時に一種のカタルシスを感じることができるのです。
●福田村の村民たち
前述した通り、船守の倉蔵は澤田の妻の静子と体の関係を持ちます。
ただし、それだけではなく、倉蔵はもともと夫を持つ咲江と不倫関係にあるというふしだらなところもあり、とにかく色気がムンムンなんですね。
そりゃあ常日頃からあんなに鍛え上げられた体で、上半身ほぼ裸なんて色気ダダ漏れですよ。
咲江の夫は徴兵令が出て東京に行っているわけで、そこで倉蔵に惹かれてしまったという構図なのでしょう。
その上、自分がいま夢中になっている男性が、村に来たばかりの得体の知れないお嬢様と体を重ねていたともあればキレるのも無理はありません。
さらに、大震災前後の東京での朝鮮人大暴動の噂を聞きつけ、帰らぬ夫が死んでしまったと信じてしまった咲江は、終盤の暴動シーンである意味トリガーを引いてしまうわけです。
この辺りの話の持っていき方はさすがにフィクションだと思いますが、だからこそこの男女の行き違いや根も歯もない噂話を信じ込んでしまうストーリー的背景の作り込み方がエグいぐらい上手いと思わされました。
軍人である長谷川は、朝鮮人による暴動から自衛の精神で間違った正義感と憎悪がどんどんと大きくなっていきます。
村長の田向は「戒厳令」が撤回されたときにいの一番に自警団解散を言い渡しますが、いざ暴動が起きた時に何もできません。さらには現在もなお、福田村事件の真実が語られないように、新聞記者に「記事にしないでくれ」と懇願するのも彼です。
井草家に至っては、もはや男女の性愛が入り乱れすぎています。
一見、茂次とマスが夫婦で、一人息子がいるという設定に見えますが、劇中に驚きの真実が告げられます。そう、一人息子の父親は茂次ではなく、茂次の父親である貞次なのです。
貞次が絶命するシーンのマスが上の衣服を脱ぎ、彼を抱きしめるシーンはあまりにも衝撃的かつ美しいシーンの一つでした。
●千葉日日新聞の記者たち
新聞記者たるもの、真実を報道すべき。
一般的にはそれが当たり前の信条でしょうが、今作では一筋縄ではいきません。正義感でいっぱいの若手記者である恩田は、自分の目で見た真実を記事としてまとめ、報道する意義を編集部長である砂田に強く訴えます。
しかし、彼はそんな彼女の想いに応えることなく、内務省、つまりお国からの指示に従うばかりの弱い存在に成り下がっていたのです。
きっと彼も昔は正義感の強い新聞記者だったのかもしれません。しかし、新聞が売れなければ意味がない、お金にならなければ意味がない。
そうやって年月を重ねてきたことで、守りに入り、いくら真実とはいえ、上から目をつけられるような報道は控えるという方針に変わっていったのでしょう。
この映画の巧さに”善”と”悪”の両立された描かれ方にあります。
何が善で何が悪か、それが曖昧だからこそ人は迷いが生まれる。だから被害者側の視点だけでなく、加害者側の視点も丁寧に描くことでどちらの言い分もわかるように作られていることです。
そんな中で最も正しく、真っ直ぐ突き進み続けたのが真の新聞記者である恩田と言えるでしょう。今作で”本当の正しさは何か”を考える時に、彼女の存在はとてつもなく大きなものになっていったと考えられます。
●讃岐の行商人たち
さて、今作で最も感情移入させられやすいのは彼ら讃岐の行商人たちでしょう。
物語として大きいな転換点となる虐殺シーンですが、そこに至るまで彼らが西から東へ移動しながら苦労しながら生活している模様が映し出されます。彼らは自分たちのことを”えた”と名乗っています。これは歴史の授業で習うのでみなさんご存知だと思いますが、”えた、ひにん”と言われる蔑称です。
大昔から農民(百姓)や町民よりもさらに身分の低い存在がいました。それがえたやひにんです。
日銭を稼ぎながら、生きるか死ぬかという厳しい生活を送っている彼らですが、彼らの生活を映画を通して見ていると至って普通の人間なのです。
人間には善人や悪人がいると言えますが、実際のところ良い人も悪い人もどちらにも良い面と悪い面があるのが当たり前なんです。
彼ら行商人も同様で、劇中で差別の渦中にある朝鮮人に対して、彼らのリーダーである新助は優しい言葉をかけ売り物である朝鮮飴を購入します。
一方で、日銭を稼ぐために、効くか効かないかわからないような薬を人を騙しながら売りつけるということもやっています。
メンバーの1人は、朝鮮人と遭遇した時に「自分たちの方が上だ」と誇示します。それは身分が低いことが日常であるがため、差別の対象にある外国人である朝鮮人よりは下に見られたくないという賎民意識とも言えます。
さらに彼らは可能な限り学ぶということを行っています。だからこそ、天皇の名前も言えるし、書物にあった言葉を暗誦することもできるのです。
結局、人は誰が偉いとかではなく、何をし、どのように努力したのかが大事なんじゃないかなと、彼らの振る舞いから感じさせられます。
物語上、彼らは最大の被害を受ける人たちなので、感情移入もしやすいですが、この映画を観るにあたり大事なのは人を人たらしめる所以を考えることです。
終盤に新助が強い語気で放つ「朝鮮人なら殺していいんか!」が物語の重要なファクターと言えるでしょう。人は人である以上、平等だとそう信じたくなる彼の優しくも強い訴えです。
●東京の劇作家
あまり登場シーンとして多くはありませんが、意味ありげに何度か登場するのがカトウシンスケ演じる劇作家の平澤計七です。
彼も実在の人物で、日本のプロレタリア演劇の祖と呼ばれる人だそうで、関東大震災後の社会主義者が警察に逮捕されて殺害された「亀戸事件」に絡む人物です。
この映画を観て誰もが再認識するメッセージとして、「日本人も朝鮮人も関係ない。人はみな平等、殺戮することは無意味である」というようなことではないでしょうか。
そして、この劇作家の平澤のパートも軽視してはいけないと書いた所以は、社会主義者としてある意味アウトサイダーとして反抗する人物たちを力でねじ伏せ虐殺した事実がある点です。
そう、彼は朝鮮人ではなく日本人なんですね。日本人でも当時の主義に反するのであれば殺せという行き過ぎた考えが巻き起こったことです。
この映画が伝えるメッセージの大半は、福田村で起きた「朝鮮人大虐殺」でしょう。しかし、劇中にわざわざ彼が警察から虐げられるシーンを入れた意味を考えてみることももう一つのメッセージとしてとても大事なことではないでしょうか。
⑤森監督と製作陣が込めた今作にかける想い
この映画は、クライマックスの虐殺シーンに至るまでは決して派手なシーンはありません。しかし、一つ一つのエピソード、各パートの群像劇を丁寧に描くからこそ、後半の虐殺シーンが生きてくるという”エンタメ”としての機能もきちんと果たしていることが実に巧いと思わせられた所以です。
映画のパンフレットの中で、森達也監督は印象的な言葉を残していました。その一部を紹介します。
ここになぜ森達也監督が『福田村事件』を扱おうと思ったかの真髄が書かれていると感じました。
確かに人間というのは過去の過ちを認めたくない傾向にあるかもしれません。しかし、日本は過去の失敗を自ら発信するという行為はまだまだ少ないように見えます。
過去の事実から目を背けてはなりません。それは「知らない」ということから再び「同じ過ち」を繰り返してしまうかもしれないからです。
彼はドキュメンタリー作家として追求し続けてきたことが、劇映画でも一切ブレることなく発信されています。
映画の中の新聞記者の恩田楓は、まさに森達也監督の写鏡なのかもしれません。僕はそう感じました。
さらに、脚本家の佐伯俊道氏、井上淳一氏、荒井晴彦氏の三者対談のインタビューも掲載されており、その中でも井上氏の下記の言葉が印象的でした。
情報を伝えることの難しさを切に訴えている箇所です。
しかし、映画の力を信じているからこそ、彼らは闘い続けるという決意表明。僕も常日頃から思っていることですが、史実を描いた作品は映画に限らず、一面的であり、上のインタビューでも語られている通り、興味のある人しか観に来ない。でも、形にすることで記事にされたり、僕のようにnoteなど誰でも見ること、読むことができるプラットフォームで引用されるかもしれない。
だから僕も文章に起こすということを積極的にやりたいと思いました。
この映画を1人でも多くの人に観てほしい。それ以上にこの事件の存在を知ってもらって、同じ過ちを繰り返さないでほしい。
そんな想いで僕は文章に起こしました。
⑥まとめ
いかがだったでしょうか。
登場人物紹介も含めると、割と長い記事になってしまいましたが、これでもまだ伝えきれていない部分があるかもしれません。
ネタバレありの箇所もありましたが、最後まで読んでいただけた方には今一度、今作を「面白かった」「面白くなかった」という一面的な感情だけで語るのではなく、どう感じたかを言葉にしてほしいなと思います。
とにかくこの物語の背景にある「福田村事件」は、起こしてしまった大虐殺は許されることではありません。だからといって、その子孫やその村の関係者を糾弾する材料にしてもいけません。
史実として語られることとして、映画のラストに紹介されるテキストを今一度引用します。
6,000人とも言われる朝鮮人大虐殺の被害者の人数。
その中のわずか10人と思うのか……しかし、それを自分のことに置き換えて考えてみてほしいです。自分の人生と考えたときに、1人も6,000人もないと。1人だったら良い、10人だったら良いとは言えるわけがありません。
人が人を殺すーーそれほど無意味なことがあるでしょうか。
今なお、世界中で戦争や殺人は巻き起こっています。ただ、まずは自分の身の回りだけでもそれがない人生にできないかを考えていきたいです。
自分は大丈夫、自分の周りで起きるわけないーーそんな思い込みほど頼りない言葉はありません。「絶対」と言い切れるほど、強く信じ、行動し、そして大切な人たちと一緒に生きていけるように進んでいきましょう。