見出し画像

煩悩の砂場 ―『さとり世代』以後の小規模コミュニティ論―


はじめに

2010年前後から、若者を表す言葉として「さとり世代」という表現が使われるようになりました。物事に執着せず、競争を避け、現状に満足しているように見える若者たち。この言葉は、当時の若者の特徴を捉えた表現として広く使われましたが、実はより本質的な社会の変化を示唆していたのかもしれません。

今日では「Z世代」など、新しい世代を表す言葉が主流となっていますが、本稿であえて「さとり世代」という視点から考察を進めるのは、この現象が単なる世代論を超えて、現代社会が抱える根本的な課題を映し出していると考えるからです。彼らは本当に「悟って」いるのでしょうか。その態度の背後には、どのような社会の矛盾が隠されているのでしょうか。

第1章:「サトリ」という現象が示す社会の矛盾

「さとり世代」という言葉は、実は明確な定義も、統計的な裏付けもない社会的構築物です。しかし、この現象が示唆する社会の構造的な矛盾は、きわめて現実的なものです。

その第一は、社会構造との不一致です。現代の若者たちは物質的な豊かさの中で育ち、競争や向上心の必要性を強く感じる機会が少なかった一方で、社会システムは依然として競争原理に基づいています。この齟齬が、若者たちの内面に深い葛藤を生んでいるのです。

第二に、価値観の多様化と選択の困難さという問題があります。情報過多の時代に生きる人々は、むしろ多すぎる選択肢と情報に疲弊しています。彼らの「悟り」のように見える状態は、この選択の重圧からの回避として機能しているのかもしれません。

ここで重要なのは、この態度が本来の仏教的な「悟り」とは大きく意味が異なるという点です。本来の「悟り」が深い洞察と覚醒を伴うものであるのに対し、現代の若者たちに見られる態度は、むしろ社会の重圧からの防衛的な反応という性格が強いものです。以降、この現代特有の現象を「サトリ」と表記し、本来の「悟り」と区別して考えていきたいと思います。

第2章:防衛反応としての「サトリ」

「サトリ」の態度の背後には、より深い心理的メカニズムが働いているのではないでしょうか。それは、新しい価値基準を見出せない中での、一種の防衛反応としての「執着しない」という態度です。

現代社会では、「自分で価値を見出しなさい」「自分らしく生きなさい」という言葉が、むしろ新たな重圧として機能しています。この「自由」は、実は大きな責任と不安を伴うものです。価値観が多様化する中で、自分の選択に確信が持てない。その選択の結果も、すべて自己責任として引き受けなければならない。

このような重圧から身を守るため、人々は「そもそも執着しない」という立場を選択するようになっています。これは一時的に麻酔のような心理的安定をもたらすかもしれません。しかし、この態度は長期的には個人の成長や社会の発展を妨げる可能性があります。なぜなら、「サトリ」は本質的な問題解決ではなく、ただその存在を無視しているに過ぎないからです。

第3章:人間的な成長の場としての小規模コミュニティ

ここで注目したいのが、「最近接発達領域」という概念です。これは、ロシアの心理学者ヴィゴツキーが提唱した概念で、人が最も効果的に学び、成長できる領域のことを指します。具体的には、現在の能力水準から、少し背伸びをすれば届く程度の課題に取り組むとき、人は最も大きく成長できるとされています。

この概念を現代社会に適用すると、興味深い示唆が得られます。「たこつぼ」や「猿山」と揶揄されるような小規模なコミュニティこそが、人々の成長にとって理想的な環境となる可能性があるのです。なぜなら、そのコミュニティの中での相対的な位置が、個人の成長にとって重要な意味を持つからです。

例えば、あるコミュニティの中で、その人の何らかの能力が偏差値60程度の位置にいる状態を考えてみましょう。私の経験上の話になりますが、この立ち位置は、その人にとって「まだ伸びしろがある」と感じられると同時に、「ある程度の自信を持てる」バランスの取れた状態に感じます。これは、成長の意思を削ぐことなく、また目指すものを見失わずに進める上で理想的な位置かもしれなません。

これまで私たちは、小さなコミュニティを閉鎖的で限定的なものとして否定的に捉えがちでした。しかし、むしろそのような小規模なコミュニティだからこそ、独自の価値観や文化を育むことができ、またその中で個人が着実に成長していける土壌があるのではないでしょうか。

各コミュニティは、他のコミュニティから干渉されることなく、独自の価値基準や文化を発展させていく。そして個人は、そのコミュニティの中で、自分の現在地から少しずつ成長していける。このような「たこつぼ」や「猿山」の積極的な価値を、私たちは再発見する必要があるのかもしれません。

第4章:人間の不完全さを包摂するテクノロジーへ

AIの進化は、私たちの社会や仕事のあり方を大きく変えていくでしょう。その中で、皮肉なことに最も重要になってくるのは、情報を「見えない化」する仕組みかもしれません。

これまでのテクノロジーの発展は、人類をより崇高な存在へと導くという理想に支えられてきました。世界とつながることで視野を広げ、知識を得て、より理性的で完璧な存在になることができる―――そう信じられてきたように感じます。

しかし、この人類の美しい側面を信じた「理想化」への過度な期待が、かえって人々を窒息させていたのではないでしょうか。すべてが可視化され、評価され、理想との距離を常に突きつけられる社会。そこでは、人間の持つ未熟さや醜悪さ、時には破壊的ですらある衝動は、徹底的に抑圧されるべきものとされてきました。

ここで提案したいのが「情報の砂場(サンドボックス)」という考え方です。これは、コミュニティ内での情報が完全に閉じた形で流通する空間を意味します。外部からの介入や監視を受けることなく、そのコミュニティ独自の文化や作法、時にはある種の危うさを含んだコミュニケーションも許容される場所です。公序良俗の観点からは微妙なやり取りであっても、そのコミュニティの文脈の中では意味を持つ情報のやり取りが可能な空間と言えるでしょう。

一方で、人の移動に関しては、まったく異なる原理が働きます。コミュニティ間の人の移動は、むしろ積極的に許容されるべきです。ちょうど、窮屈な田舎から可能性を求めて都会に出るように、あるコミュニティの作法や価値観に耐えられなくなった人は、別のコミュニティに移動することができます。

このような「情報は厳密に閉じるが、人の出入りは自由」という原則は、一見矛盾するようですが、実は重要な意味を持ちます。情報の完全な囲い込みがあるからこそ、コミュニティは独自の文化を育むことができる。そして、その文化が窮屈に感じられるようになったとき、人々は新しいコミュニティを探す自由を持つ。この緊張関係こそが、人々の成長と新しい可能性の探求を促すのです。

これからのテクノロジーに求められるのは、このような人間の「汚さ」や「醜さ」をも包摂できるような設計思想です。それは単なる「性善説」でも「性悪説」でもなく、人間という存在をより現象として捉え、その多面性をありのままに受け入れる姿勢です。

おわりに

今の世界は、テクノロジーの力を借りて個人と世界があまりにも直接的につながりすぎています。広い世界に目を向けることは大切ですが、自分の小ささや微力さを見せつけられ続けることに、本当の意味での幸せはないことに、私たちは気づき始めています。人が「サトリ」に埋没していく背景には、このような生きる意味の喪失があるように感じます。

むしろ、ある種の「世間知らず」な状態、「根拠のない自信」が湧いてくるような青臭い感覚の中にこそ、幸せは存在するのではないでしょうか。背伸びしすぎず、また卑屈になりすぎず、等身大よりちょっと上の何かを目指しながら、それぞれの段階の人生を謳歌できる社会。そこにこそ、地に足のついた希望を見出せるのではないでしょうか。

それを支える環境として、人間の不完全さをも受け入れられる「砂場」の上で機能するコミュニティ群。それらは小規模、かつ情報は堅牢で、人の出入りは柔軟性を持つ。

この方向性は、決してテクノロジーからの逃避ではありません。むしろ、テクノロジーを活用しながら、より人間的な尺度を取り戻していく試みなのです。情報の『砂場』の中で、人々は自然と『たこつぼ』や『猿山』を形成していくでしょう。

それは防衛的な『サトリ』とは異なり、また本来の『悟り』が説くような執着からの解放とも異なる、不完全さを抱えたまま人間らしい煩悩に寄り添える場所として、私たちに新しい幸福のかたちを示してくれるのかもしれません。


いいなと思ったら応援しよう!