批判してくれる人は信頼できる
社会に属していると、日々浅い共感をもらう。さほど親しくない知人との会話、初対面の店員さんや美容師さんとのやりとり。年々浅い共感が増えているように感じるのは、社会の変化か、それとも自分の変化か。
街行く人々やSNS上での他人同士の浅い共感や反感を観察することは、世の中の動きを捉えるという点では興味深い。ただ、私自身が関わる会話において浅い共感や反感が占める割合が増えるのは、なんだかモヤモヤする。まあその分ラクではあるのだが。
そもそも人とまともに会話をする機会が減っているのだろう。とても建設的ではない。
だからこそ、しっかりと批判してもらえると嬉しい。その批判がポジティブな内容であれネガティブな内容であれ、だ。
批判はメンドクサイ
批判と聞くとどうしても否定的なイメージが強く出るが、元々の意味合いとしては肯定否定に依らず批評をし、評価をするということだ。
ひ‐はん【批判】
[名](スル)
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
→批評
(出典:Weblio 辞書)
批評する際には様々な角度から客観的な意見を挙げる必要があり、それを踏まえて評価する際には、主観的であれ客観的であれどの立場からの評価であるかを明確にする必要があるだろう。ここがとても重要だ。
単なる肯定や否定だけでは終わらず、その根拠をしっかりと説明した上で評価を伝える。ここに浅い共感や反感との違いがある。
批判をするということは、しっかりと頭を使わないといけないということである。正直、メンドクサイ時もある。話し手としても受け手としても、だ。会話が浅い共感や反感で溢れてしまうのも無理もない。だからこそ、批判的な会話は貴重なのだ。
その場のお互いの精神力にも依るため、一概にどちらが良いとは言えないが、批判的な会話の方が議論になるため私は好きだ。
意見は噛み合わないくらいがむしろ良い
他人と批判的な会話をしていると、お互いの意見が噛み合わない、あるいは平行線を辿る場合が往々にしてある。人それぞれ考え方は千差万別なのだから、評価が異なる場合があるのは仕方がない。
むしろ噛み合っていないところから合意へと変わった場合の方が達成感がある。もちろん、始めから同意見な内容を批判しあって深め合っていくのも有意義だが、思考がより広がるのは異なる意見からのスタートだろう。自分の思考の幅や深さが試される。
推しキャラが被ったときより違った時の方が議論は白熱する。GoTo推進派かGoTo否定派かで別れている方が多くの角度から世の中を知ることができる。目玉焼きは醤油派かソース派か、それとも。。
もっとも、意見が噛み合わないまま終わる場合も多々ある。そしてひとりになった時、モヤモヤしてくる。なぜ理解されなかったのか。なぜ理解できなかったのか。解決する、あるいは風化するまでそのモヤモヤは続く。それが思考を深くしていく。
批判を嫌う人が存在するからこそ
否定的な批判を受けると気分が悪くなる人もいる。伝え方の問題もあるだろうが、根本的に嫌っている人は確かに存在する。そもそもメンドクサイ話をしたくない人も存在する。私自身も耳が痛い話を好んで聞きたい訳ではない。一般的には批判されることが嫌な人の方が多いだろう。批判は少し間違えれば人格否定がセットでやってくるため、そう感じる人が多いのではないかと考えている。
だからこそ、批判してくれる人というのは貴重だ。嫌がられる可能性よりも、そのトピックについて建設的な議論を行うことを優先してくれていると考えられるからだ。そうでなくても、嫌がられない伝え方や距離感を図るのが上手い人だっている。そういう人たちは、その伝え方などについても深く思考ができているからこそ可能なのだろう。
そしてその人たちの考えは得てして、深い。経験則ではあるが、とても貴重な存在である。たとえ私の好きな考え方とは異なる考え方でも、とても貴重だ。
何が言いたかったかというと、面と向かって正しく批判してくれる人は大切にしたい。
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(追記)
↓ポッドキャストでも話しております。いつもどおり前談長めです。
【#120】日常の中でしっかりと思考しながら生きている人から受ける批判は面白い。