「人それぞれ」は思考停止のための言葉ではなく、思考のスタート地点
人生における様々な問題について考えるとき、「人による」あるいは「人それぞれ」という言葉が出てくることがしばしばある。
だが、その時点で「議論は終わりだ」とか「それを言ったらお終いだ」と思考停止し話を切り上げてしまう人が多いように感じる。
それで良いのだろうか?
人は分かりやすい答えを求める
人の悩み事や相談事に対して一般論で答えても、基本的には満足はされない。一般論では満足できないくせに、分かりやすい答えあるいは理由を求める。
場合によっては、二元論や究極の選択のような二択に落とし込んで考えたがる人もいる始末だ。
選択肢は本当にその二つだけなのだろうか?そもそも二者択一に落とし込んで考えられる問題なんて、そうそう無いだろう。
二者択一は極端とは言え、分かりやすい答えや理由を求めるのは、条件を削ぎ落としシンプルにすることによって物事の本質を見極めようとしているからだ、と捉えている。
ただ、それが人生における選択に生きることは少ないと私は考えている。
なぜなら、条件を削ぎ落としてしまっているから。
思考の条件が複雑になると投げ出したくなる
条件の話で言えば、他者の成功体験をそのままマネしても上手くいかないのは、そもそも条件が異なるからである。
成功者自身の環境や社会情勢など、様々な要素が存在した中での成功体験に対し、追従者が全く同じ条件下で物事を進めることは不可能だ。
どの条件におけるどの選択が自身にとって有意となりうるかを読み取って取り入れることができなければ、当然上手くはいかない。
そして、次のような結論に至る。
- 万人に当てはまるものはない
- 人それぞれだ
- 参考にならない
- 本当のことは書かれていない
これらの言葉は、条件の洗い出しを途中で投げ出す場合に主に用いられる。要は思考停止であり、思考するに値しないと自らに言い聞かせているようである。
しかし、本当の思考はここから始まるのだ。
思考のための条件は削ぎ落とすのではなく洗い出す
- 人それぞれ
- 人による
繰り返しになるが、これらの言葉を思考停止の意味で用いている人が実に多いこと。
「人それぞれ」だからこそ、その人はなぜその行動に至ったのか、その人にとって大事にしているものは何かを思考する事こそが重要なのである。
思考するということは様々な条件を知り、考慮に入れることである。
条件を考慮外とする削ぎ落としによるシンプル化は、物事の本質を突いているようでいて、考えることを浅くしている。スピード感や他者との合意が必要な場合には有効だろうが、可能であれば深く思考できるようにしたい。
面倒臭い作業ではあるが、条件をより細かくより多く洗い出すことが「人それぞれ」な考え方について思考するために必要なことだと私は思う。
「人それぞれ」という言葉が出てきたタイミングというのは、普段は面倒だったり考えが及ばなかった条件について、まだまだ深く思考することができる事を知らせてくれている。
「人それぞれ」な考え方を様々な条件から推察し、理解できるかが思考を深くしていく。「人それぞれ」な考え方の全てに「納得」をする必要はないが、多くの人の考え方について「理解」できるところまで深く思考できるように心掛けたい。
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(追記)
↓ポッドキャストでも話しております。いつもどおり前談長めです。
アウトプットはシンプルなものが望ましいが、思考における要素や条件はより豊富であることが望ましい。
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