アイン・ランドのオブジェクティビズム倫理学②
アメリカの起業家、テクノ・リバタリアン、知識人たちに今でも多大な影響を与え続ける作家/思想家アイン・ランドのエッセイ集『SELFISHNESS(セルフィッシュネス) ―― 自分の価値を実現する』「第一章」公開
オブジェクティビズム倫理学 The Objectivist Ethics Ⅱ
生きるとは生きながらえることではない
オブジェクティビズム倫理学の価値基準、つまり善悪の判断基準は、人間のいのちです。つまり、人間が人間として生き抜くために何が不可欠かが善悪の判断基準になります。
理性は人間にとって基本的な生存手段ですから、理性的存在としての生きかたにふさわしいものは善であり、それを無力化するもの、おびやかすもの、破壊するものは悪です。
人間は自分に必要なすべてのものを自分の頭脳で発見し、自分の努力で生産しなければなりませんから、理性的存在にふさわしい生きかたには二つの要素が不可欠です。思考と生産的な仕事です。
何も自分で考えず、自分の仕事の意味をわかろうともせず、調教された動物のように誰かの動作をまねしてくり返すことで生き延びている人間がいたとしても、彼らが生き延びているのは、自分できちんと考え、どう動いたらいいかを発見した人たちのおかげなのです。そういう頭脳的寄生者が生き延びることができるかは運次第です。考えることのない頭脳では、いったい誰をまねしてどんな動作をくり返したら安全なのかわかったものではありません。こういう寄生者たちは、意識的である責任を放棄してしまい、その責任を肩代わりすると約束する破壊者のあとを追って奈落の底へと落ちていく人たちです。
暴力や詐欺によって奪い、盗み、騙し取り、生産する人間を隷属化して生き延びようとする人たちがいても、彼らが生き延びられるのは、奪う対象の犠牲者たちが自分で考え、生産しているおかげなのです。略奪者たちは自分たちだけでは生き延びることのできない寄生者であり、人間にふさわしい行動をしている生産者を破壊することではじめて存在しているのです。
理性ではなく力を手段として生き残ろうとする人たちは、動物のやりかたで生き残ろうとしているのです。しかし、動物が植物のやりかたでは生き残れないように、つまり移動を拒んで土壌が栄養を与えてくれるのを待っていては生き残れないように、人間は動物のやりかたでは生き残れません。理性を拒否して、生産的な人たちが自分の餌食になってくれるのを当てにしていては、生き残れないのです。彼らのような略奪者も、ごく短いあいだなら目的を達成することがあるでしょう。しかし、その代償は破滅です。彼らの犠牲者たちの破滅であり、彼ら自身の破滅です。どんな犯罪者でも独裁政権でもその証拠になります。
人間は、動物のように瞬間ごとのスパンで行動していては生き残れません。動物の生は、子を産み育てる、冬越え用の食べ物を貯蔵するといったばらばらなサイクルの連続が、ひたすらくり返されることで成り立っています。動物は、自分の生を一生のスパンで統一的に意識できません。動物の意識には、ほぼ直前までのことしか残っていません。動物は、同じサイクルを前回とのつながりなしに、始めから丸ごとくり返さなければなりません。人間の生は、継続した全体です。人間の毎日、毎年、毎十年の生には、自分がそれまで生きたすべての日々の合計が、善い方向にも悪い方向にも加わっています。人間は、自分の選択を変えられます。自分が進む道を変える自由があります。多くの場合、自分の過去の結果を償う自由さえあります。しかし、自分の過去の結果からのがれる自由はありません。動物のように、遊び人やチンピラのように、行き当たりばったりの生きかたをして罰なしに済むことはありません。生き抜くというタスクを成功させたければ、行動する目的が自己破壊でないのなら、人間は自分の行動、目的、そして価値を、一生のスケールと文脈で考えて選ばなければなりません。このようなことは、感覚や、知覚や、衝動や、本能ではできません。このようなことができるのは、頭脳だけです。
「人間が人間として生き抜くために不可欠」とは、こういう意味なのです。人間が人間として生き抜くということは、一時的な、単に肉体的な生存を意味するわけではありません。知性を持たない獣の、遅かれ早かれ他の獣に自分の頭蓋骨を潰されるまでの、束の間の肉体的生存を意味するわけではありません。一年でも一週間でも生き延びさせてもらえる望みがあるなら、どんな条件も進んで飲み、どんなチンピラにも進んで服従し、どんな価値も進んで譲り渡す、つまりどんな代償を払ってでも生きながらえること自体が目的になった、地べたに這いつくばって生きる腑抜けの、束の間の肉体的生存を意味するわけではありません。「人間が人間として生き抜くために不可欠」とは、理性的存在がその生涯をまっとうする上で欠かせない、自分に選択の余地があるすべての面における条件、方法、状態、目的を意味するのです。
人間は、人間としてしか生きられません。たしかに人間は、自分の生存手段である思考を放棄することもできます。人間未満の生きものに成り下がることもできます。自分の人生を、短い苦悶の生涯にすることもできます。それは、人間の肉体が病気で朽ちていくあいだも、しばらくは存在しているのと同じことです。しかし、人間が人間未満の存在として成し遂げられるのは、人間未満のことだけです。歴史上の反-合理主義の時代に現れたおぞましい恐怖が、そのことを証明しています。人間は、選択によって人間にならなければなりません。そして人間にふさわしい生きかたを人間に教えるのは、倫理学の役目です。
基準とは・目的とは・美徳とは
オブジェクティビズム倫理学では、「価値の基準は、人間のいのちである」と考えます。そして、「自分自身の人生こそ、すべての個人にとっての倫理的な目的である」と考えます。
ここで言う「基準」と「目的」の違いを説明しておきます。基準とは、個人が特定の目的を達成していく過程で迫られる、さまざまな選択の指針や尺度として役立つ、抽象的な原則です。「人間が人間として生き抜くために不可欠」というのは、あらゆる個人に適用できる抽象的な原則です。この原則を特定の具体的な目的、つまり合理的存在にふさわしい人生を生きるという目的に適用する責任は、一人ひとりの個人にあります。そして各個人が生きなければならないのは、自分自身の人生です。
価値とは、それを獲得し維持するために人が行動するものです。価値を獲得し維持する手段になる行動が、美徳です。オブジェクティビズム倫理学における三大価値は、理性・目的・自尊心です。これら三つの価値は全体として、人間にとって究極の価値、つまり自分自身の人生の実現手段であると同時に、この究極の価値の具現化でもあります。この三大価値のそれぞれに対応する美徳が、合理的でいること・生産的でいること・誇りを持つことです。
生産的な仕事は、合理的な人にとって人生の中心的な目的です。そして、自分にとっての他のあらゆる価値の序列を合理的に決める、中心的な価値でもあります。理性は、生産的な仕事のみなもとであり、前提条件です。誇りは、その結果です。
合理的でいることは、人間にとって基本的な美徳です。そして他のあらゆる美徳のみなもとでもあります。人間にとって基本的な悪徳は、つまり人間のあらゆる悪のみなもとは、自分の思考の焦点をぼかすという行動です。つまり、自分の意識を止めることです。見えないことではありません。見るのを拒むことです。知らないことではありません。知るのを拒むことです。不合理でいることは、人間の生存手段を拒否することです。ですからこれは、盲目的な破滅にコミットするのと同じことです。反-思考であることは反-生命なのです。
合理的でいるという美徳が意味するのは、理性を知識の唯一のみなもととして、価値の唯一の判定者として、行動の唯一の指針として認めるということです。自分が目覚めているあいだ、あらゆる問題や選択に関して、十分に鮮明な意識状態でいることです。そして、思考の焦点を十分に定め続けることに完全にコミットすることです。自分の能力が及ぶ限り正しく現実を知覚し、自分の知覚、つまり知識を絶えず能動的に広げていくことや、自分の存在の現実にコミットすることです。言い換えれば、人間の目的、価値、行為はすべて現実の世界で実現されるのだから、どんな価値も配慮も自分が知覚した現実より上位に位置づけてはならないという原則にコミットすることです。自分のあらゆる確信、価値、目的、願望、行為を、自分の能力の及ぶ限り正確で周到な、そして自分の能力の及ぶ限り冷徹に論理を適用した思考によって、根拠づけ、導き出し、選択し、検証しなければならないという原則にコミットすることです。自分自身の判断を形成する責任、そして自分自身の思考によって生きる責任を引き受けることです(これが自立という美徳です)。自分の確信を、他人の意見や気まぐれの犠牲にしてはならないということです(これが一貫性(インテグリティ)[訳注 「誠実さ」とも訳される]という美徳です)。どんなやりかたであれ、決して現実を偽造しようとしてはならないということです(これが正直という美徳です)。物質的にであれ精神的にであれ、自分が稼ぎ出していないもの、値しないものを得ようとしてはならないし、相手が稼ぎ出していないもの、値しないものを与えてもならないということです(これが正義という美徳です)。原因抜きに結果を望んではならないし、結果への全責任を負うことなしに原因を引き起こしてもならない。ゾンビのように振る舞ってはならない、つまり自分の目的と動機を自覚することなしに行為してはならない。自分の統合された知識全体に照らすことなしに、またそうした知識全体に反するような判断を下してはならないし、確信を抱いてはならないし、価値を追求してはならない。そして何より、矛盾をごまかしてはならないということです。あらゆる形の神秘主義を拒絶するということです。つまり感覚も定義もできない、非合理的で超自然的なものを、知識のみなもととして認めないということです。時々気まぐれにではなく、特定の問題についてではなく、非常時や緊急時にではなく、恒常的な生きかたとして、理性にコミットすることです。
生産的でいるという美徳が意味するのは、生産的な仕事こそ、人間の頭脳が生命を維持するプロセスであり、動物のように環境に自分を適合させる必要性から人間を解放して、環境を自分に適合させる力を人間に与えたプロセスであるという事実を認識することです。生産的な仕事は、人間が無限に達成を重ねていく道です。生産的な仕事は、創造性・野心・自己表現力・災害への屈服の拒否・大地を作り変え、自分が思い描く価値を実現していくことへの専心といった、人間が持つ最も優れた特性を呼び起こします。「生産的な仕事」とは、漫然と何かの作業をくり返すことではなく、どんな能力レベルでも、どんな職業分野でも、派手な仕事でも地味な仕事でも、合理的な領域で自覚的に選択した生産的なキャリアを追求することです。能力の程度も、仕事の規模も、倫理の観点からは無関係です。重要なのは、自分の頭脳を徹底的に、目的意識的に活用しているかどうかです。
誇りを持つという美徳は、「人は自分のいのちを維持するために物質的価値を生み出さねばならないように、自分のいのちが維持する甲斐のあるものであるために人格的価値を獲得しなくてはならない、言い換えると、人は自ら富を築く存在であるように、自ら魂を築く存在である」(『肩をすくめるアトラス』)という事実を認識することです。誇りの美徳は「道徳的野心」という言葉で最も良く表現できます。つまり、人は自分自身を最高の価値として保つ権利を稼ぎ獲ることができ、それは自分自身が道徳的に完成することによるのです。決して非合理的で実践不可能な美徳を受け入れず、合理的な美徳の実践を怠らず、身に覚えのない後ろめたさを受け入れず、もし後ろめたいことが実際にあったときは必ず挽回するようにし、自分の人格的欠点を受け身でないがしろにせず、自分自身の自尊心を無視してその場の心配や願望や不安や気分を優先しないことによって可能なのです。そして何よりも自分を生贄の獣にせず、自己犠牲を道徳的美徳や義務だと説く教義のいっさいを拒絶することです。
幸福が道徳的生きかたの目的であっても基準ではない理由
社会的な問題についてのオブジェクティビズム倫理学の基本原則は、「自分自身の人生がそれ自体目的であるのと同じように、生きているすべての個人は一人ひとりが目的であって、他人の目的や幸福の手段ではない。だから人間は、自分を他人の犠牲にせず、他人を自分の犠牲にせず、自分自身のために生きなければならない」というものです。「自分自身のために生きなければならない」というのは、自分の幸福の実現が、人間にとって最高の道徳的目的であるということです。
心理的な観点で見ると、人間には生存に関わる問題が「生か死か」の問題ではなく、「幸福か苦痛か」の問題として意識されます。幸福はいのちが成功している状態であり、苦痛は失敗、死の警告信号です。幸福は人生の成功状態であり、苦痛は失敗、死の警告信号です。ちょうど人の肉体の快苦のメカニズムが生きるか死ぬかの基本的選択肢のバロメーターによって体の健康状態を自動的に知らせてくれるように、人の意識の感情的メカニズムは、喜びと苦しみという二つの基本的感情のバロメーターによって同じ機能を果たしています。感情は、無意識が下した価値判断の自動的な結果です。自分にとっての価値にプラスになることとマイナスになること、つまり自分の味方になることと敵になることが、自動的に見積もられたのが感情です。感情は、自分にとっての損得を瞬時に計算する計算機なのです。
しかし、快苦のメカニズムが生まれつきの価値基準に従って自動的に働くのに対して、人間の感情のメカニズムには、生まれつきの価値基準がありません。人間は知識を自動的に持つことがいっさいないのですから、何かを価値として自動的に知ることもあり得ません。生まれつきの観念がいっさいないのですから、生まれつきの価値判断もあり得ません。
人間は、認知のメカニズムを持って生まれるのと同じように、感情のメカニズムを持って生まれます。しかし、生まれた時点ではどちらも「白紙状態」です。どちらの内容を決めるのも、人間の認知機能、つまり頭脳です。人間の感情のメカニズムは、コンピューターに似ています。このコンピューターは、人間の頭脳がプログラミングしなければなりません。そのプログラムは、人間の頭脳が選んだ価値で成り立っています。
しかし人間の頭脳は、自動的には働きません。ですから人間にとっての価値は、人間にとってのあらゆる前提がそうであるように、人間の思考か逃避、いずれかの産物です。人間は、自分にとっての価値を意識的な思考によって選びます。意識的な思考によって選ばない場合、自分にとっての価値を、批判的な検討抜きに受け入れることになります。つまり、無意識的な連想で、あるいは信仰に基づいて、あるいは誰かの権威に基づいて、あるいは何らかの社会的影響で、あるいは盲目的な模倣によって、受け入れることになります。人間は意識的に、あるいは無意識のうちに、さまざまな前提を抱きます。感情は、このように人間が意識的・無意識的に抱いたさまざまな前提の産物なのです。
何かを自分にとって善いと感じたり、悪いと感じたりする能力そのものに関して、人間に選択の余地はありません。しかし、「何を善いと見なし、何を悪いと見なすか」「何を楽しく感じ、何を辛く感じるか」「何を愛し、何を嫌うか」「何を望み、何を恐れるか」は、自分の価値基準で決まります。不合理な価値を選べば、自分の感情のメカニズムが、自分の守護者から自分の破壊者になります。不合理なものは、不可能なものです。つまり不合理なものは、現実の事実と矛盾するものです。願望は事実を変えられませんが、事実は願望する者を破壊できます。矛盾を望んで追求すれば、つまり「ケーキを食べてしまいながら、残してもおきたい」と望めば、自分の意識が統一性を失っていきます。自分の精神生活が、愚かで支離滅裂で無軌道で無意味な闘争に明け暮れる、盲目の勢力どうしの内戦になります(今日たいていの人の内面が、まさにこの状態です)。
破壊を価値とするサディスト、自虐を価値とするマゾヒスト、死後のいのちを価値とする神秘家、スリルを価値とする走り屋などの言うところの幸福は、自滅に向けた成功の度合そのものです。さらに付け加えるべきなのは、こういう不合理な人たちの感情状態を幸福や喜びなどと呼ぶことはできないということです。それは慢性的な恐怖からの一時的な気晴らしに過ぎません。
幸福といのちの関係を正しくとらえる
人間は、不合理な気まぐれを追求している限り、自分自身の人生を成就することも、幸福を実現することもできません。人間には、寄生者やたかり屋や略奪者のように行き当たりばったりの手段で生きることを試みる自由があります。しかし、そのような自由が長く成功することはありません。同じように、不合理なペテンや、気まぐれや、妄想や、頭を使わない現実逃避に幸福を求める自由があります。しかし、そのような幸福追求が長く成功することはありません。そのような試みの結果からのがれる自由もありません。
ジョン・ゴールトの演説から引用します。
いのちを維持することと、幸福を追求することは、別々の問題ではありません。自分のいのちを自分にとって最高の価値にすることと、自分の幸福を自分にとって最高の目的にすることは、同じことを二つの側面から言い表しています。実存的には、合理的な目的を追求する行為は、自分のいのちを維持する行為です。心理的には、そのような行為の結果、報酬、付随物が、幸福という感情状態です。人間は一時間のスパンで見ても、一年のスパンで見ても、人生全体のスパンで見ても、幸福を経験することによって自分自身の人生を生きます。そして人間は、それ自体が目的であるような純粋な幸福を経験するとき、つまり「このためになら生きる甲斐がある」と思えるような幸福を経験するとき、自分自身の人生それ自体が目的であるという形而上学的な事実を、感情の次元で歓迎し肯定しているのです。
しかし、原因と結果の関係をひっくり返すことはできません。人間の生命を究極目的とし、生きるために必要な合理的価値を追求することによってのみ幸福が実現できるのであり、幸福そのものを定義も分解もできない究極目的とした上でそれを指針に生きようとしても幸福は実現できないのです。もし合理的な価値基準に基づいて善を実現したら、間違いなく幸福を実現します。しかし定義もない感情的基準で幸福な気分になったとしても、それは必ずしも善ではありません。「とにかく自分を幸福にするもの」を行動指針としたら感情的気まぐれによって左右されることになります。感情は認知の道具ではありません。意味も性格も出所も不明な気まぐれな欲望に身をゆだねるのは、ぼんやりと現実逃避することで正体不明の悪魔に操作される盲目のロボットになるのと同じです。見ることを拒否した現実の壁に、自分の鈍い頭を叩きつけているようなものです。
これが快楽主義に内在する誤りです。個人主義的か社会主義(集団主義)的かを問わず、あらゆるバリエーションの倫理的快楽主義に内在する誤りです。「幸福」は倫理上適切な目的になり得ますが、倫理の基準にはなり得ません。倫理学の任務は、人間にふさわしい価値体系を定義し、人間に幸福達成の手段を提供することです。快楽主義者が言うように「適切な価値とは、何でもいいから自分に快楽を与えるものだ」と宣言してしまえば「適切な価値は、自分が価値あると思うものなら何でもいい」と知的・哲学的な責任放棄になり、つまり倫理など不毛だから誰でも好きなようにやったらいいと放り出してしまうことになります。
快楽主義と利他主義の共通性
合理的と自称する倫理体系を構築しようとした哲学者たちは、つまるところ気まぐれの選択を提示しただけです。自分自身の気まぐれを「利己的」に追求するか(ニーチェ)、あるいは他者の気まぐれのために「無私」の奉仕をするか(ベンサム、ミル、コントなどあらゆる社会的快楽主義者がそれで、自分の気まぐれを何百万もの他者の気まぐれに含めるか、それとも完全に自分を犠牲にして他者に食われる「シュムー」[訳注 アメリカの漫画家アル・キャップ(一九〇九-一九七九)の漫画に登場する空想の動物。人間が食べて美味しく、人間に食べられることを喜ぶ。餌が必要なく、空気だけで育ち、無性生殖し、ネズミよりも速く繁殖する]になるかの選択です。
「欲望」をその性質も理由も問わず倫理上の第一義に位置づけて、あらゆる「欲望」の充足を(「最大多数の最大幸福」のように)倫理上の目的に位置づけたら、人間どうしが憎み合い、恐れ合い、闘い合うしかなくなります。なぜなら人々の欲望と欲望が、利益と利益が、必然的に衝突するからです。「欲望」が倫理の基準になれば、生産したいと言っても、他人から奪いたいと言っても、どちらも倫理的にまったく変わりがないということになります。自由でいたいと言っても、他人を奴隷にしたいと言っても、どちらも倫理的にまったく変わりがないということになります。自分の美徳によって敬愛されたいと言っても、自分にふさわしくない愛や尊敬が欲しいと言っても、どちらも倫理的にまったく変わりがないということになります。どんな欲求不満も犠牲と見なされるなら、自分の自動車を盗まれた人物と、この人物の自動車をタダで譲ってほしいと熱望して断られた別の人物のどちらも犠牲者で、この二つの「犠牲」は倫理的に同等ということになります。もしそうなら、人間には「盗むか、盗まれるか」「破壊するか、破壊されるか」「自分のあらゆる欲望のために他人を犠牲にするか、他人のあらゆる欲望のために自分を犠牲にするか」以外の選択がないことになります。倫理的な選択肢が、「サディストになるか、マゾヒストになるか」しかないことになります。
あらゆる快楽主義者と利他主義者に共通するこうした倫理的カニバリズムには、ある人物の幸福には、別の人物の損害が必要であるという前提があります。
この前提は、今日たいていの人にとって疑う余地のない絶対的真理になっています。人間には、自分のために生きる権利があると主張する人物がいると、たいていの人は、この人物が自分のために他人を犠牲にする権利を主張していると自動的に思い込みます。このような思い込みは、彼ら自身が「他人を傷つけたり、奴隷にしたり、その財を奪ったり、殺したりすることは、人間の自己利益にかなう。自己利益は、私心なく放棄されなければならない」と信じていることの告白なのです。「人類みな兄弟」を実現したいと公言し、無私の教えを伝道する博愛主義者たちは、犠牲を伴わない人間関係だけが自己利益にかなうという考えなど決して思い浮かびません。価値・欲求・自己利益・倫理という文脈から「合理的」という概念を外してしまったら、このことは誰にも思い浮かばないことでしょう。
商人は犠牲を求めない
オブジェクティビズム倫理学が誇り高く提唱し、支持するのは合理的なセルフィッシュネス、つまり人が人として生きるのに必要な価値、すなわち人間的生存に要する価値です。原始的な生贄の風習から抜け出せず、工業社会など見たこともなく、自己利益と言えば目の前の欲しいものを奪い取ることしか思い浮かばない、非合理的な獣の欲望・感情・熱望・フィーリング・気まぐれ・ニーズを満たす価値ではありません。
オブジェクティビズム倫理学が提唱する考えは、人間にとっての善は、誰の犠牲も要求せず、誰のためのどんな犠牲によっても実現できない、というものです。自分が正当に獲得したもの以外を望まず、自分を犠牲にせず、他人を犠牲にせず、お互いの取引によって価値を交換する限り、利害の衝突は起こらない、つまり合理的な人間の利害は衝突しないというものです。
取引〔trade〕の原則は、個人的関係か社会的関係か、私的関係か公的関係か、精神的関係か物質的関係かを問わず、あらゆる人間関係において、ただ一つの合理的な倫理原則です。それは正義の原則です。
取引によって生きる人たち、つまり商人〔traders〕とは、自分が得るものを稼ぎ出し、値しないものは与えもせず、受け取りもしない人間です。商人は、他人を主人としても奴隷としても扱わず、独立した対等の相手として扱います。自由で自発的な取引、強制も強要もされない取引、つまり互いの利益になると互いが判断する取引を手段として、他人と関係を結びます。商人は、自分が履行しなかったことに支払ってもらおうとは期待しません。自分が達成したことだけに支払ってもらおうと期待します。商人は、自分の失敗の責任を他人に肩代わりさせません。他人の失敗の責任を保証するために、自分の人生を担保に差し出したりしません。
精神面においても、通貨つまり交換手段が異なるだけで、原則は同じです(「精神」という言葉を、私は「人間の意識に関わる」という意味で使っています)。愛や友情や敬意や憧れは、相手の美徳に対する感情的な反応です。相手の人格の美徳から自分が得る、個人的で利己的な喜びに、対価として支払う精神的な報酬です。「相手の美徳の素晴らしさを認めるのは、無私の行為だ」「天才と付き合おうが愚か者と付き合おうが、英雄と会おうがチンピラと会おうが、理想の女性と結婚しようが下劣な女と結婚しようが、自分の利己的な興味や喜びに何の違いもない」などと主張する人がいたら、それは獣か利他主義者です。精神的な人間関係においては、商人とは自分の弱さや欠点ゆえに愛されようとはせず、自分の美徳ゆえにのみ愛されようとする人間です。相手の弱さや欠点を愛さず、相手の美徳のみを愛する人間です。
愛するとは、価値あると認めることです。合理的にセルフィッシュな人だけが、自尊心を持つ人だけが、愛する能力を持つのです。なぜなら自尊心を持つ人だけが、一貫して、妥協なく、裏切ることなく価値を守れるからです。自分自身を価値あると認められない人に、何かを、あるいは誰かを価値あると認めることはできません。
社会は個人に有益か? それはどのような条件で?
人は合理的なセルフィッシュネスを基盤にしてのみ、つまり正義を基盤にしてのみ、自由で平和で豊かで思いやりにあふれた合理的な社会で共生できるようになるのです。
人間社会に生きることで、人は個人的な利益を得るでしょうか。得ます。ただしそれは、その社会が人間らしい社会なら、です。社会的生存は、二つの素晴らしい価値を可能にします。知識と取引です。人間は、知識の蓄えを世代から世代に伝えて広げていく唯一の生きものです。人間に利用できる知識の量は、一人が一生かけても獲得できないほど膨大です。すべての人が、他人に発見された知識から計り知れない利益を得ています。二つ目の素晴らしい利益は分業です。分業は、各人が特定の分野の仕事に努力を集中し、他の分野に特化した人たちと取引することを可能にします。こうした協業に参加することによって、無人島や自給自足農場で各自が必要とするものをすべて生産しなくてはならないよりも、ずっと多くの知識・スキル・収穫を得ることができます。
しかし、まさにこれらの利益が明らかにしていることがあります。それは、互いに価値ある存在になれるのはどのような人たちか、どのような社会でそうなれるかということです。つまり、合理的で、生産的で、独立した人たちだけが、合理的で、生産的で、自由な社会でのみ、互いに価値ある存在になれるということです。寄生者、泥棒、たかり屋、獣、暴漢といった者たちは、人にとって価値ある存在になれません。そういう連中を守るようにつくられた社会では、人はどんな利益も得られません。人を生贄として扱い、そういう連中の悪徳に報いるために人の美徳にペナルティを課す社会、つまり利他主義の倫理を基盤とする社会では、人はどんな利益も得られません。自分のいのちに対する権利の放棄を義務づける社会が、人間のいのちにとって価値を持つことはあり得ません。
オブジェクティビズム倫理学における基本的な政治原則は、他人に対して絶対に先に物理的強制力を行使してはならないというものです。犯罪者になる権利、つまり他人への物理的強制力を先に行使する権利は、誰にもありません。どんな集団にも、社会にも、政府にも、です。物理的強制力は、先に物理的強制力を行使してきた者に対する報復としてのみ、行使する権利が認められます。この点に関する倫理原則は単純明快です。これは殺人と正当防衛の違いです。強盗は、被害者を殺すことで価値を、つまり富を得ようとします。これに対して強盗の被害者は、強盗を殺すことでより豊かにはなりません。物理的強制力によって、他人からどんな価値も得てはならないというのがこの原則です。
政府のただ一つの道徳的な目的は、個人の権利の保護です。つまり人々が持つ生命権・自由権・財産権・幸福追求権を、物理的な暴力から保護することです。財産権なしには、他のどんな権利も成り立ちません。
この短い講演で、オブジェクティビズムの政治理論まで論じるのは差し控えます。関心のある方は、『肩をすくめるアトラス』をお読みください。ここでは次のことだけ述べておきます。すべての政治体制は、何らかの倫理学を基盤にしています。そしてオブジェクティビズム倫理学は、今日世界中で破壊が進むある政治経済体制の、道徳的な基盤なのです。この政治経済体制は、まさに道徳的・哲学的な擁護が欠けているために、正当性の証明が欠けているために、破壊が進められています。その政治経済体制とは、アメリカ建国時の体制、つまり資本主義です。もし資本主義が滅びるとすれば、それは発見も認識もされないまま、闘わずして滅びることになるでしょう。資本主義ほど多くの歪曲や誤認や虚偽で隠蔽されてきたものはありません。今日、資本主義とは何か、それはどのように機能するのか、実際にどのような歴史をたどってきたのかを知る人はほとんどいません。
私が言う「資本主義」は、完全な、純粋な、統制も規制もされない、自由放任の資本主義です。国家と教会が分離されたのと同じ理由で、同じように、国家と経済が分離された体制です。純粋な資本主義の体制は、これまで存在したことがありません。アメリカでさえそうです。資本主義は、最初から多かれ少なかれ政府の統制で損なわれ、歪められてきました。資本主義は、過去の体制ではありません。未来の体制です。人類に未来があるならば、ですが。
哲学者たちが資本主義に反逆してきた歴史と、その心理的な原因については、私の著書『新しい知識人たちへ(For the New Intellectual)』(未邦訳)に収録した同じタイトルのエッセイで論じました。興味がある方はお読みください。
神秘主義・社会主義・主観主義はどう違うのか
ここでは、倫理の問題に限って論じなければなりません。ここまで私の倫理体系の骨子に絞ってお話ししてきましたが、世界を現在の状態にしてきた三大主流倫理学、つまり神秘主義、社会主義、主観主義が死の道徳であるのに対して、オブジェクティビズム倫理学が生の道徳であることは示せたはずです。
これら三つの倫理学の違いは、アプローチのしかたにしかありません。内容に違いはありません。これら三つの倫理学は、利他主義のバリエーションに過ぎません。利他主義とは、人間を生贄と見なす倫理学です。「人間には、自分のために生きる権利がない」「人は他人に奉仕することでしか、生きていることが正当化されない」「自己犠牲は、人間にとって最高の道徳的義務であり、美徳であり、価値である」と考える倫理学です。神秘主義と社会主義と主観主義の違いは、誰を誰の犠牲にするべきかの違いにしかありません。利他主義では死が究極目的であり、価値基準です。利他主義では放棄、断念、自己否定、自己破壊を含むあらゆる苦難が美徳とされますが、これは論理的必然なのです。そして利他主義の実践者たちがこれまで達成したことも、現在達成しつつあることも、論理的必然として、これらのことだけです。
観察していただければわかりますが、これら三つの倫理学は内容において反-生命であるだけでなく、アプローチ方法においても反-生命です。
神秘主義の倫理学は、次の前提を明白な基盤にしています。「人間の倫理の価値基準は、現世を越えた超自然的な異次元世界の法や要請が決める」「倫理は、人間には実践不可能である」「倫理は、この地球上における人間の生に適合せず、敵対する」「人間はその責めを負わなければならず、『実践不可能なことを実践できない罪』を償うため、現世で生きるあいだ苦しみ抜かなければならない」。この倫理学を現実化してみせたのが、中世の暗黒時代です。
社会主義の倫理学は、神を「社会」に替えます。この理論は、現世での生を最大の関心とする理論とされています。しかし、この理論の関心対象は人間の生ではありません。この理論の関心対象は個人の生ではなく、集団という実体のない存在の生なのです。そして一人ひとりの個人の立場からは、集団とは自分以外の全員です。この倫理学において個人にとっての義務は、他人が主張する必要や権利や要求の、私心なき、声なき、権利なき奴隷になることです。資本主義のモットーとされる「犬が犬を食うがごとき」という慣用句は、資本主義にも犬にも当てはまりませんが、社会主義の倫理学には間違いなく当てはまります。この理論を現実化してみせたのがナチスドイツやソ連です。
主観主義の倫理学は、厳密には理論ではありません。それは倫理の否認です。さらにこの倫理学は、現実の否認でもあります。単に人間存在の否認であるだけでなく、あらゆる存在の否認です。「人間は客観的な行動原則を必要としない」「現実は価値についての白地小切手を人間に与える」「善悪は各人が好きに選べばよい」「個人の気まぐれは正当な道徳基準だ」「問題はいかにやり過ごすかだけだ」。こんなことを本気で考えたり人に説いたりする人たちは、ぐにゃぐにゃと定まらないヘラクレイトス的宇宙観にでも毒されているのでしょう。この理論を現実化してみせているのが、今の私たちの文化のありさまです。
今人々を救えるのは哲学だけ
文明世界が衰退を続け、今や滅亡の危機に瀕しているのは、人々の不道徳のせいではありません。人々が実践するように求められてきた道徳のせいです。責任は利他主義の哲学者たちにあります。利他主義の哲学が成功したからこそ、現在の惨状に至っているのであって、彼らに人間の本性を呪う権利などありません。人類は利他主義の哲学に従った結果として、その理想を現実化したのですから。
人々の目的を定め、人々の生きかたを決めるのは哲学です。今人々を救えるのは哲学だけです。今日世界は一つの選択に直面しています。文明を滅びさせたくないなら、利他主義の道徳こそ、人々は拒絶しなければなりません。
最後に、この言葉で私の話を締めます。利他主義の道徳を説く過去の、そして現在のすべての者たちに向けた、ジョン・ゴールトの言葉です。