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「初めての人生の歩き方――毎晩彼女にラブレターを」(有原ときみとぼくの日記) 第91話:だれが鬼に食われたのか。

 もしも自分の身体がすべて別の物と入れ替わってしまったら、それでも自分は自分だと呼べるのだろうか。

 久しぶりに早起きした彼は窓を開け放って春の朝に漂っている新鮮な空気を目一杯吸い込んだ。
 ありがたいことにまた今日がやってきた。
 その今日という日を自分が自分でいるうちに迎えられたことが彼は嬉しかった。

 朝の空気は彼の身体の隅から隅までいきわたり、新鮮な酸素で目を覚ました細胞が希望を求めてあくびする。

 いつもの日常。

 春。

 春は今ここにある。

 彼はいつも不思議に思っていた。
 夏になれば春は一瞬で終わったと思ういつも思うこと。
 そんなことはない。
 春はここにあるじゃないか。
 彼はもう一度深呼吸した。

 悪夢の夜中に待ち望んでいた朝だ!

 お昼までいつものように部屋で過ごし、それから彼はコーヒーフィルターを買いに近所のスーパーやカルディが入っている総合施設へ出かけた。
 しかし、ほとんどの店舗が閉まっていた。
 コロナウイルスが流行してから初めて来た彼はこの光景に驚いてしまった。カルディはおろか百円ショップまで閉まっている。
  これでは普段愛用している除菌シートが切れたら困るな、などと考えながら、閉まっているカルディの前で考え事をする。

 カルディのコーヒーがなくなったらどうしよう。
 スーパーに売っているもので我慢しようか。
 それかほかの店舗に買いに行こうか。
 いや、それだと自粛の意味がない。

 と、思いながら、多分このように考えて実際に他の店舗に買いに行く人もいるんだろうなぁと彼は思った。
 そうなると全く店を閉めたことが逆効果になる。

 ちょうどそんなニュースを思い出した。
 都内のパチンコ屋が閉まっているので、近隣他県のパチンコ屋へ行く人が増えているという。
 まるでへたくそなショートショートだな、と彼は思いながら、スーパーでコーヒーフィルターと赤味噌とココナッツ効果を買っていそいそと家へ戻った。

 彼は疎外感を感じていた。
 それはまるで春のなかにいて、夏が来たことにちっとも気がつないないような、そんな幸せな疎外感だった。

 彼は家に戻ると、休憩がてらに昨日から読み始めた本の中に載っていた童話を再び読み直した。

「詩の誕生」大岡信 谷川俊太郎 著 より
 〈誰が鬼に食われたのか〉

 ある旅人が道に行き暮れて、原のなかの寂しい空き家で一夜を明かしました。
 夜半すぎに誰だか外からその空き家へはいひつてくるものがあります。見ると、それは一匹の鬼で、肩には人間の死骸を担いでをります。はひつて来ると、どしんとその死骸を床の上へおろしました。すると、その後からすぐまた一匹の鬼が追つ駈けて来ました。
 「その死骸はおれのだ。なんだつてお前が持つて来たんだ」
 「ばかをいへ。これはおれのだ」
 たつまち二匹の鬼は取つ組みあつて大喧嘩を始めましたが、ふと先に来た鬼が、
 「待て待て、かうして二人で喧嘩をしたつて始まらない。それより、この人に聞いた方がよいぢやないか」
 といつて、そして旅人の方を向きながら、
  「この死骸を担いで来たのはどつちだ。おれか、それともこいつか」
と聞きました。
 旅人は弱つてしまひました。前の鬼だといへば、後から来た鬼が怒つて旅人を殺すだらうし、後の鬼だといへば、また前の鬼が起こつて殺すに相違ない。どつちにしても殺されるぐらいなら、正直にいつた方が好いと思ひまして、
 「それはこの前に来た鬼が担いで来たんです」
と、いひました。
 すると、果して後から来た鬼が大いに怒つて、旅人の手を摑まえてからだから引き抜いて床の上に投げつけました。それを見た前の鬼は、すぐに死骸の手を持つて来て、代わりに旅人の体にくつつけてくれました。後の鬼はますます怒つて、すぐ旅人のほかの腕を引き抜きました。すると、また前の鬼がすぐに死骸の腕をくつつけてくれました。さういふふうにして、後の鬼が旅人の脚から頭から胴から残らず引き抜きますと、すぐ前の鬼が一々死骸の脚や銅や頭を持つて来てつぎ足してくれました。さうして旅人の体と死骸がすつかり入れ代わつてしまひますと、二匹の鬼ももう争ふのを止めて、半分ずつその死骸を食つて口を拭いて行つてしまひました。
 驚いたのは旅人です。自分の体は残らず鬼に食はれてしまつたのです。今の自分の体は実はどこの誰ともわからない人の死骸なのです。今こうして生きてゐる自分がいつたいほんとうの自分であるやらないやら更にわけがわかりません。やつと夜が明けて来ましたので、狂気のやうに走つて行くと、向こうに一軒のお寺が見えました。さつそくその中に飛び込んで、息せき切つて、そこの坊さんに聞きました。
 「私の体はいつたいあるのかないのか、どうか早く教へて下さい」
 坊さんの方がかへつて驚いてをりましたが、やつと昨日の話を聞いて合点が行きました。そこで坊さんが申しました。
 「あなたの体がなくなつたのは、何も今に始まつたことではないのです。いつたい、人間のこの『われ』といふものは、いろいろなの要素が集まつて仮にこの世に出来上がつただけのもので、愚な人達はその『われ』に捉へられていろいろの苦しみをしますが、一度この『われ』といふものが、ほんとうはどういふものかといふことがわかつてみてば、さういふ苦しみは一度になくなつてしまふのです」
(アルス刊・印度童話集)

 あー、書くの疲れた!笑
 そして白状させていただけるのなら、今日アップした「ほぼ100字小説」はここからほぼ丸パクリしました。
 ごめんなさい!
 普段はそんなことしないので許してね!
※ほぼ100字小説はツイッターかインスタグラムで毎日投稿しています!
 よかったらぜひ遊びに来てください。

 彼はこの話を読んで久しぶりに衝撃を受けた。

 自分がすべて入れ替わったとしても、果たしてそれは自分と呼べるのだろうか。

 テセウスの船しかり。

 人間の体の細胞は、なんと遅い細胞で約一年ぐらいで入れ替わるそうだ。

 その間に食べたもの、過ごした環境、とった行動、発した言葉、思った感情ですべては作られている。

 彼は本当に自分が自分であるのか疑問を抱いた。


 もし彼が彼でなくなったとしたら、それでも彼は彼女を愛せるのだろうか。

 春。

 来年の春には、いったい彼は彼のままで彼として生きているのだろうか。

 逆に考えたらどんな自分になりたいのか。
 その理想の自分にもなれるということだ。

 春が待ち遠しい。
 もしかしたら、その感覚こそが、春としての春らしさなのかもしれない。

 きみはきみのままで、

 ぼくはぼくのままで、

 このまま愛し続けられるだろうか。

 来年の春、

 二人はどうなているのだろうか。

 本当にそのことを考えるだけで、

 ぼくはもう嬉しくてたまらなくなる。

 来年の春が待ち遠しい。

 そのときのぼくたちが待ち遠しい。

 走って迎えに来てほしいけど、慌てないよ。

 ゆっくり歩いて行こう。

 今年の春を充分に楽しみながら。

 愛してるよ。

 早くきみに会いたい。

 恋しいんだ。

 ゆっくりやすんでね。

 今日も一日お疲れさま。

 初めての人生で、ぼくたちは何回生まれ変わっているのだろうか。

 こうしている間にも細胞は死に続け、生まれ続けている。

 そのときそのときが、

 未来のぼくたちなんだ。

 今日はなにを食べよう。

 今日はなにを考えよう。

 今日はなにを楽しもう。

 初めての人生で一番びっくりしているのは、

 もしかしたらぼくたちの細胞なのかもしれない。

 ありがとう、と感謝を込めて。

 また明日ね。

 明日も一日あなたは信じられないぐらい、ありえない幸福をたくさん受け取る自分を受け入れ、認め、許し、愛しました。

 おめでとう。

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