目標にしてる人
「母です」
「いません」
「尾崎豊です」
「ココシャネルです」
「デヴィ夫人です」
いろんな答えが人それぞれにあると思う。
就活しているときも面接で聞かれた。
でも、わたしは目標にしている特定の人はいない。結局誰かを目指そうってったってなれるわけではなく自分は自分でしかない。自分を偽れば偽るほど疲れる。
ただ出会った人のいいなと思ったところを好きになり、愛することはできる。その部分を大切にしようと心がけている。
「目標」というのが、生きていく中で目指していく場所であるなら、わたしにはそのような場所はない。
わたしの生き方はこの文章にも出ている。
前置きも目次もなくいきなり始まり段取りもせず思いつくままに書いて気づけば終わる。そこには秩序や決まりもない。
ただそのとき好きなことをして、風で揺れる草のように周りの流れに身を任せながら生きる。
その草は風によってあらゆる方向に振り回されるけど、根っこが深く地面から抜けることはない。もしも根っこが浅ければ強風で抜けてしまうし、大雨で土が緩みしっかり立てなくなる。
10年後は20年後はああしてこうなって、とかいう目標こそないけれど、わたしは根っこが深い人間でいたい。
それは言い換えれば、どんな状況でも生きていくということ。
わたしはよく思い浮かべる人がいる。
それは一年前に見たドラマ「まほろ駅前多田便利軒」の行天という男。
彼は同級生の多田の家で居候しながら多田の「なんでも屋」の手伝いをしている。
一言でいえば本当に「揺れてる草」だ。
イカれた男を煽り、追いかけられて刺されたり、タバコは多田から貰いっぱなし。心頭した多田から追い出されては外で黙って待っているような男。情にもろい多田はまた連れて帰るも行天は反省の色もなく「タバコちょうだい」と言えてしまう。
何も考えてないように見える行天でも、多田に女の気配があれば見守ってくれるし、子供の世話をしたり、どんなにへんてこな人の話もとりあえずちゃんと聞いたりと、人としての優しさがある。
行天には足りないものがたくさんあるけど、持っているべきものは持ってる。
わたしははじめて見たときとても安心した。ちゃんと生きている人がいるんだなと。ちゃんとというのは、人に期待したり惑わされたり嫉妬したりせずどんな状況でも生きようとすること。
こんな人間いるのか、と思ったら楽になった。
人間関係とかちっちゃいことぶちぶち気にしている自分が馬鹿らしくなったというか。
行天を思い出すと付随して大学時代お世話になったバイト先の店長を思い出す。
ちっちゃい子でも容赦なく注意してお母さんに睨まれてたなぁ。
万引きしようとした奴の首根っこ掴んで「待てやゴラ」って始まるし。
おもろい店長でした。