今野ひなたにはなれなかった
なっちゃんが死んだ。
ひなも死んでなっちゃんも死んで何も書けなくなった。私はあの子たちの飼い主として名前を残したかった。その手っ取り早い方法が趣味と実益を兼ねた創作だった。というか、どうせ名前をつけるなら1番自分に価値のある名前をつけたかった。私の価値はあの子たちの飼い主という事実だけだったのに。
まず、美味しいがなくなった。
その次に楽しいがなくなって、誰かと笑ってる間、常にうっすら「どうでもいい」と思うようになった。眠る時間が増えた。1人で泣く時間が増えた。仏壇の花を変えられなくなった。
そして最後に、新しい物語が浮かばなくなった。
生きる理由がなくなった。
かと言って死ぬ理由も独断なかった。
まだふゆがいるし、しきもいる。
それに死んだら少なかれ周りに迷惑がかかる。
それでも、生きるために生きられない。
だから何もかもから逃げた。
Wordはしばらく開いてない。予定を詰めて目先のものに逃げた。1時間でも自分の時間を作れば、その時は心が死ぬと思った。
創作の賞の結果にも何も思わなくなった。
絶対に落としちゃいけない賞(ひなた賞)に落ちたのに何も思わない。終わったなと思った。
多分、心の軸が折れてしまったのだ。
創作人としての根本の部分が折れて、普通の人になってしまった。でも、もうそれでいいと思った。それまでの人間だったのだ。才能もない凡人。ひなとなっちゃんに顔向けできない。今野ひなたはもう名乗れないなと思った。度々死んだとか言うけど、今回はもう本当にだめだ。だってもう名乗る理由がないのだから。
なっちゃんが死んで1ヶ月が経っても心は何も変わらず、創作のアイディアは浮かばず、まだ逃げたままでいる。でも、その逃げた先も悪いものではない。27年生きてきたけれど、私は世界のことを何にも知らなかったことを学んだ。それなりに特殊な経験をしてきたが、まだまだ世の中は未知だ。
残念ながら脳を刺激しても一文も浮かばない。
なんとなく書きたいテーマはぼんやりとあるけれど書けない。でも、わかるのは今までとは違うものになるであろうこと。
世界に絶望して、人生を割り切った。
転職して商業目線で市場を見るようになった。
昔みたいに書きたい軸のテーマはない。
それは今野ひなたが死んだと同義なのだ。
家族がどれだけ美しいか、努力や夢がどれだけ価値があるか、生きることがどれだけ尊いことか、そんなものはどうでもいいことだった。売れれば正義。そこに自分の主張はいらない。
わかっているのに、自分の琴線に触れる作品に触ると揺らぎそうになる。
まだ、ぼんやりとしか分からないけれど。
もし、自分に新しい価値をつけることができるなら全部捨てて書き直せるなら。
その時はちゃんと諦められるような作品を作りたい。全部出し切って、もうこれ以上は無理だと、それで普通の人間として生きたい。
もう何も書けないのだから夢のまた夢だ。
私の書きたいものは売れるものではない。
趣味でやる気もない。私のやりたいことは売名と他人に自己主張を押し付けることだから。
だから受からない。デビューできない。
これ以上ひな達の名前に泥を塗りたくない。
だからこれでおしまい。
次自分の作品が作れるのは何年後かわからない。確実なのはその時は今野ひなたの名前は使っていないだろう。
人生の譲れないもの、夢、大事なもの、全部失って。これから先も未来は見えなくて。
それでも心のどこかで諦めることを諦めきれないのだから救えない。
次に文章を書けるのはいつだろう。
自殺未遂は失敗。死ねないことがわかってからはあと数十年どう消化しようか考えてる。
でもさ、その数十年で「世界はそんなに悪いことばっかじゃない」みたいな作品が書けたらなってなんとなく思う。
私はひなもなっちゃんも失ったけど、それでも、失ったのはしんどいけど、それでも出会えて良かった。
死にたいけど、まだ死ぬ時じゃない。
今野ひなたはもう使わないけど、私は生きるよ。だから、もしまた筆を持つことがあればその時は新しい価値を持った時に。