見出し画像

ターニングポイント

人生のターニングポイントっていつ訪れるのだろう。
価値観や人生の方向性が大きく変わった経験や出来事、分岐点のことを「人生のターニングポイント」といい、経験がどのように自分を変え成長させたのかが重要になるといわれているらしい。
私の今までの人生で何回かターニングポイントはあるが、小学生から中学生になるタイミングは、自分にとって大きなターニングポイントだと感じる。

中学生になるにあたって、下部組織のチームに入って本格的にサッカーをしたいという自分の意志が芽生えてきました。
大好きな家族は私の意見を尊重してくれて、小学校6年生のタイミングで沢山のチームのセレクションを受けさせてくれました。
そして、自分が一番入りたいと思っていた浦和レッズレディースの下部組織に仲間入りをすることが出来ました。
当時の合否の発表は電話で来るシステムだったので、あまり実感がなかったのが私の記憶です。

6年間一緒にサッカーやれてよかった

小学校は、小・中・高の12年一貫教育の私立の学校に受験して通っていました。
サッカーを始めてから、練習・試合が土日にあることも多く、土曜授業の際は下校してそのままサッカーに行き、試合の時は学校を休んでしまっていたこともありました。
めちゃくちゃ不器用な私は、中学生になってからも私立に通いながらサッカーをするという選択が出来ず、地元の公立中学校へ入学することにしました。
周りの小学校から集まってきた中学校の中、最初は蚊帳の外に置かれている気分でした。


サッカーの話に触れる前に、中学校生活の思い出について振り返ってみます。
中学校でも素敵な人達に出会えたなと思います。
3年間共に登下校してくれた友達含めて、中学校卒業しても会ってくれる沢山の人達に出会うことが出来ました。
普段の日常生活だけでなく沢山の行事も含めて、とても楽しく充実した日々を過ごすことが出来ました。
練習の時間に間に合わないからを理由に下校の約30分の道を小走りで帰っていた日々も、他の学校にはない特徴的な合唱コンクールも、毎日朝読書の時に提出していた1日1ページの勉強ノートも、一生の思い出となりました。
この学校に入学して、無事に卒業も出来て本当に良かったなと思います。

懐かしい中3

ここから中学3年間のサッカー生活について振り返りたいと思います。

刺激的な1年目

舐めていたわけでもないし、想定外かと言われたらそんなことはないけれど、とにかく試合時間が短かった。
試合に絡める選手と試合に絡めない選手の差が目に見えてわかるようになりました。
公式戦の出場時間も限られていて、練習試合があってもわずか数分のチャンス。
いかに、結果が残せるか。アピールできるのか。
練習でいかに存在感が出せるか。
日々が戦いの毎日でした。
自分が中学1年生の時は、中1と中2でジュニアユースという1つチームが作られていましたが、年代別代表選手も多くいるチームの日々の練習は、毎日圧倒されていました。
当時の監督には、勝負の世界の厳しさを教えてもらえたと思います。
チームの結果としては、全国大会準優勝することが出来たけれど、個人的にはとても苦しい1年目となりました。

監督が変わった2年目。

人生で初めて、女性の指導者に教えてもらうことになりました。
週に2日間決められた曜日で走りがあり、ペナルティー制度が設けられていて、練習前に毎日スライディング練習をして、色々なことがあったという言葉が最適で波乱な年でした。
でも、個人的にはポジションチェンジがあり、出場時間も与えられるようになったこともあり、1年目とは違う感情が出てきました。
U15の夏の全国大会ではセンターバックでスタメン出場。
人生で初めての全国大会でした。
チームの結果としては、2回戦でPK戦にて負けてしまいました。
しかし、全国大会に出場できたことやセンターバックとして出場できたことは、今後のサッカー人生においての自信につながったと思いますし、何より一つのポジションに固執していた今までの自分を変えてくださった当時の監督には感謝しかないです。

県大会優勝🥇

1日1000本パスを蹴る

少し余談ですが、人生で最初で最後だと思う経験を中学2年生の時に味わいました。
地元の大会で、相手に大差をつけている試合にて、いつものようにセンターバックをしていた私は大きな失態をしてしまいました。
ビルドアップミス。
センターバックでのパス交換を相手に取られてしまい失点。
大差で勝っている相手に得点を許してしまったのです。
試合が終わり監督から言われた一言が

「パスミスで失点しているようでは試合に出場できないから、パス1000本蹴ってきな」

と言われました。
その日の試合の後に、チームメイトに500本、家族に500本を付き合ってもらいボールが見えなくなるまで蹴り続けました。
もちろんその経験が形として直接的な結果に繋がっていないけれど、あのグラウンド・あの公園・あの風景は死ぬまで一生忘れられない経験になりました。

さらなる挫折と成果があった3年目。

この年から、レッズレディースの体制が変わり3年生の時もジュニアユースとして活動することになりました。
その中でも高校生とでも通用すると見込まれた選手は、途中から同期が何人もユースに登録されていきました。
そんな中、最後となる皇后杯での登録のタイミングまで私は、ユースに参加できることができませんでした。
もちろん、レベルの差、体格の差、基礎技術の差、自分の足りない部分や課題は目に見えてわかっていたけれど、とても悔しい思いをしました。
この年もジュニアユースの監督は変わることとなり、個人的に守備的ポジションから攻撃的ポジションに変わりました。
これまでのサッカー人生のほとんどはDFで過ごしてきたので、戸惑いしかなかったけれど、最後の全国大会の初戦で途中出場から得点をすることが出来た成果は忘れません。
この時の得点シーンや周りから沢山の祝福をされたことはとても嬉しかったです。
ユースの試合があったこともあり、2回戦からユース所属の同期も合流。
この年も2年連続で2回戦で負けてしまい、あっけなく大会が終わってしまいました。
この悔しさは、また同じピッチで戦えるように、自分の置かれた場所でサッカーを楽しもうと、ポジティブ思考に変えることが出来ました。

進路選択

どの下部組織のチームも同じだと思うが、ジュニアユースからユース(中学から高校)に残れるのは、数人のみ。
ユースへの参加が遅いこともあり、当時の立場から早めに高校サッカーの道も視野に入れ始めました。
改めて、チームとも面談をしたが、結果は想像通りとなり、高校サッカーにチャレンジすることになりました。
進路選択の時、全国大会優勝を狙えるチームで、かつ勉強も頑張りたいという思いから、十文字高校に進学することになりました。
十文字高校での経験はまた今後noteにさせてください。

十文字高校

中学3年間。

書き込みをしながらフラッシュバックしてくる出来事が多くて、“3”という数字にしてしまったらあっという間な年月に感じるけれど、濃くて長い3年間だったなと思います。
全国大会準優勝出来た瞬間も。
試合で得点した日も。
メンバー外になった日々も。
問題を起こしてしまい練習が出来なくなった日も。
レッズランドの土手を走った日々も。
練習中に嘔吐してしまったあの日も。
トップの選手の運営をしていたあの日々も。
駅まで自転車をぶん回していたあの日々も。
ここには書ききれないくらいの思い出があって、私にとってのサッカー人生の宝物です。
何より私がどんな立場でも試合を見に来てくれて、
どんなに遠くても車で来てくれて、
どんな時でも笑顔で家にいてくれて、
時にはうまくいかずに八つ当たりをしていたと思うけれど、
3年間レッズレディースのユニホームを着られたのは、家族のおかげです。
本当にありがとうございました。


今現在もサッカーをやっていて、サッカーが大好きで日々模索していて、
現在進行形で悔しく苦しいことも沢山あるけれど、中学生の時に乗り越えたなら、年を重ねたしもっと強くならなくてはと、覚悟を持てた気がします。
「誰かのために戦うパワーは、大きい」
最近、人から聞いて心に残った言葉です。
サッカーをやるのは自分自身だが、家族含めて沢山の人のおかげで成り立っているサッカー人生。
応援してくれている人たちのために。
犠牲になっている人たちのために。
ひたむきに進み続けることをここに宣言して、今回のnoteを終わりにしたいと思います。

まとまりのない文章になってしまいましたが、最後まで見てくださりありがとうございました🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♀️

いいなと思ったら応援しよう!