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自分を労ることと自分の機嫌を取ること

自分で自分の機嫌をとる
という言葉を目にすることが増えた、そういう時期があった。私のアンテナが無意識のうちにそればかり拾っていたのか、世間や時代がそのような空気を求めていたのか。分からない。が、自分の機嫌くらい自分で取りな!と言われているようで、どうもそれは不得意だ、と認識していた私は情けなくただ落ち込むだけだった。自分で自分の機嫌をとる、とは。

今年の5月頭から、近くのジムのランニングマシンで走っている。週に1回、日曜日。日曜日に予定があったら土曜日に。今年は暑かった。暑い、けれど走りたい。じゃあ室内で走ればいいじゃない?そういえば職場の近くにタダで使えるジムがあるじゃない?ランニングマシンがあるのは知っていた。ありがとう法人契約。ありがとう石田さん。

走り始めて4ヶ月。走れる距離が少しづつ伸びていく。呼吸の方法が変わってゆく。それがわかる。走り方が変わる。先週は時速8.8で40分くらい。それプラス時速10でしばらく走れた。距離が伸びる。でも次の週は走れなかった。日によって変わる。体調によって変わる。変化に一喜一憂する。11:20くらいに必ず更衣室で出会う顔見知りができた。お互いのことは何も知らないがおつかれさまでしたと言い合う。すこしむず痒い。でもジムで知り合いかできたことが妙に嬉しいという新たな経験。

走っていると入ってくる情報が限定される。それが好き。走る、呼吸と自分の足音、時間と距離のカウントが進むモニター、目の前の大きな窓から見える美容院、スーパーから出てくる人、歯科のスタッフ、クリーニング店で暇そうにしている店員さん、駐輪場に入ってゆく自転車、出てゆく人、行き来する人々。それだけがある。限定されているけれど変化のある景色が心地よい。無ってこういうことなのか?もしや禅の世界ってこういうところにあるのか?ほど近いのか?あわよくば悟れるのか?そんなわけないけど。

走ることでスッキリするらしい。そしてさらに、走ることで私は私をニュートラルに戻せるらしい。機嫌を取るというのは正直よく分からないけれど、走ることはどうしたって浮き沈みある自分を真ん中に戻すらしい。まぁまぁ、となにかを仲裁するように真ん中に戻す。なくてはならない行為。それだけは確かである。一旦平坦になる。凪のようなもの。

と言いつつ、自己責任があちこちで叫ばれていて、自分のことは自分で何とかしろという圧力があって、それを身近なところまで降ろしてキャッチーにしたのが「自分で自分の機嫌を取る」だ、なんて思っている。そこまで1人で頑張らなきゃならないの?人の力を借りて機嫌を取り戻したっていいよね?と思うことに制限はかけなくたっていい。

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