オムニバス短編集「しえん」

 舟浮かぶ 死怨に喘ぐ あなたの背
 六文片手に どうか良き死後を

 死怨

 拝啓
 冬入りの寒さが頬を刺し、木々から季節の彩りが失われつつある今日この頃。貴方さまにおかれましては、夢枕に化けて出てくるといったことも無く、順調な船旅が出来ている事と存じます。

 あなたは常に激しい「怒り」に苛まれていましたね。それは貴方が生まれ持った人格と理想の乖離から生まれた切望のようでもあったし、焦燥感のようでもあったし、また世界のどれとも交わることの出来ない孤独感から来る何かでもあったようだし、はたまた単なる独り善がりなプライドから来るものでもあったように思います。
 私はその気持ちを唯一理解出来る相手だった。それは私にとっての貴方もそうでした。いつか幼少の頃、貴方は言いましたね。「僕は世間の有象無象とは違うんだ」と。あの時の貴方はいわゆる俗世に住まう者たち全員を阿呆のように感じていたのでしょうが、実のところ、貴方も私も、世間の者たちも、大して変わりはしなかったのですよ。私はそのことに気付くまで随分かかってしまいました。

 かつての図書館での話を蒸し返しましょう。始まりは私が貴方にオススメの本を聞いた事だったでしょうか。それとも、貴方の方から勧めてきたのでしたっけ。まぁどちらでもいい事でしょう。とにかく私は貴方の勧めた本を読んで、とても満たされる感覚があったのですよ。「面白い」という感情は本来こういうものだったのだと、ようやく理解できた気がしたのです。私はそれまで本を読んでも、登場人物の気持ちや関係性を記号的にしか理解出来ず、真の意味で気持ちを読み取るという事が出来ずにいました。それでも私は理解したかった。彼らの言う「恋」や「愛」などと言ったものを。いや、私は理解したかった訳ではなかったのかも知れません。正確には、理解する事で否定したかったのだと思います。そんな俗物的なもの、私は要らないと。
 その理解する事への憧れを、私は時折、貴方に吐露していましたね。貴方は決まって、「恋なんてものは無い」と豪語していましたが、結局貴方も私と同じ、否定したくてたまらなかったのでしょう? 毎週図書館で会って、読んだ本についてコーヒー片手に語り合う。そんな清らかで特別そうな関係に、「恋」や「愛」といった俗物を持ち込みたくなかった。その一方で貴方は自覚なしにそれを望んでもいた。私との運命に名前がつくなら、それもいいと思っていたのでしょうね。
 でも私は嫌だった。そんなありきたりな関係性に貴方を巻き込みたくなかった。私たちの関係はあくまで特別なものであって欲しかった。だから泣いてしまったのです。

 私の世界は本が幾冊分と、貴方一人分の広さしかありませんでした。その事がとてもうれしかったし、それで私は良かったのに、世界はそうはいかないと、より広げることを求めてきました。でも私は知りたくなかった。これ以上に広い世界なんて。だからお義父さんと出会った時から、私は「うわべ」で生きることにしました。「うわべ」だけで世界を分かった気になって、それで誤魔化しながら生きてきたのです。そんな折に、貴方と再会したのです。
 まず初めに、あの時の誤解を解かねばと思いました。私は決して貴方を拒絶した訳でないのだと。むしろ貴方に特別を感じていたが故に、流してしまった涙だったということ。貴方はすぐに受け入れてくれた。そうして私たちは今までの時間を取り戻すように、貴方の家でかつてと同じ事を繰り返しましたね。本を紹介しあって、貴方の作品を私が読む。私が貴方の家から帰る時、いつも口づけをしていましたが、あの時私はいつも、実は帰りたくないと思っていたのですよ。私自身が認めたがらなかっただけで。

 私は貴方の作品を面白いと思ったことはありません。いつもよく分かりませんでした。私はその事を包み隠さず貴方に伝え、貴方はいつも満足そうな顔を浮かべていました。でも私はこの頃には既に気づいていました。このままではいけないのだと、このまま、世界と外れたまま二人でいることは確かに素敵かもしれないけれど、でも私たちは、いつかは世界を受け入れなくてはいけないのだと、そんな風に考えていました。
 だから、貴方のやろうとしていることを聞いた時、なんて馬鹿なことを、と思ってしまった。貴方は世界を受け入れるつもりなんかなくて、怒りのままに頭がおかしくなったように私には見えたのです。そんなことはいけないと、私はあえて言葉を強くしました。貴方に目を覚まして欲しかった。でも貴方はそんな私でさえも拒絶してしまった。それ程までに貴方の傷は深かったのでしょう。その一端は私にある。だから私は貴方を最後まで拒絶する事は出来なかった。そういう意味では、私は貴方をずっと愛していたのです。慈しみを以て貴方と共に歩みたいと、考えていたのです。
 しかし貴方の心が変わることはなかった。あの日、チケットを差し出す貴方に少し期待してしまったけれど、やっぱり貴方は死ぬつもりで、それが当たり前の運命のように考えていたみたいですね。むしろそうすべきなんだと。だから私も諦めて、せめて貴方が心地よく死ねる手伝いをしたいと思いました。
 そして私たちはセックスをしましたね。あれは貴方が死ぬ前の清算の儀式。私たちがずっと俗物であった事を認め、肩の荷を下ろすために必要な事でした。ブラジャーを外すのに四苦八苦していた貴方の姿はまさに普通の人のようで、それで良かったのです。嗚呼、私たちは何も特別ではないのだと、そうして私たちは世界を理解し、認め、受け入れる事が出来ました。あの時私たちは一度死んだように思います。世界を受け入れる事で、一度世界にのまれて存在が溶け合い、また生まれ変わったのです。まるで蛹が脱皮するように、表面を殺して剥がして、生まれ変わったのです。そして後はアーティストとしての貴方の死に様を見届けるだけでした。

 ライブが始まり、淀みなく進む中で、私は貴方の最期しか考える事が出来ませんでした。時折咳き込む貴方を思い、想う事しか出来ませんでした。ライブは滞りなく進み、最後まで貴方は普通の人気アーティストとして振舞っていた。そう、普通。私たちが普通である事を、私はこの時噛み締めていたのです。
 建物を出ると、人だかりの中心で騒ぎが起こっていました。見ると、貴方が血まみれで人々に襲いかかっているように見えたのです。しかし実際には、手についた血を方々に振り撒いている様でした。貴方はしばらく暴れ回った後、建物の入口前でとうとう倒れてしまいました。
 私が駆け寄ると、貴方は掠れた声で何かを言っていましたが、本当によく聞こえなかったので、私にはうんと頷く事しか出来ませんでした。そして私は最期になるであろうこの時に、貴方の答えを聞きたかった。即ち、世界とは何か。貴方は一体、どんな答えを得たのか。

 私の得た答えをここに記しておきます。私にとって世界とは、世界でしかありません。その他のどんな言葉でも、世界を表現する事は叶わなかったのです。でも、それで良いのです。世界とはその時々で、水のようにぐにゃぐにゃと形を変えていくものなのです。その変化に適応していく事を、人は生きると呼び、営みと呼ぶのです。
 貴方が結局どんな答えを得たのか。私は聞くことが出来ませんでした。すんでのところで救急隊が到着して、私は引き剥がされてしまったから。貴方は何か言っているようでしたが、その掠れた声を聞きとることは叶いませんでした。

 貴方は今どうしているでしょうか。舟の上で未だ怒りや怨みに喘いで居るのでしょうか。それとも何か悟りのようなものを開いて、極めて平静に波に揺られているのでしょうか。最期の答えを聞けなかった私には想像することしか出来ません。しかし唯一言えることは、貴方が自身の死に、私を置いていく事に、おそらく何の後悔も抱いてはいないことでしょうね。それだけが残念です。私は私として、もう暫く生きてみようと思います。
 それでは、どうか良き死後を。 敬具






 憧憬に 歪む世界と 蟲の音
 されど眼前 煙残りて


 残煙


 プロローグ
 瞼を開くやいなや、顔をべたべたと触り口の中に手をつっこむ。つい先程まで顔中にへばりつき喉から溢れ出していた「蟲」がいつも通り昨夜の夢である事を確かめ、深く息を吐く。

 ──あるいは、君は眠ってなどいないのかもしれない。夜通し幻覚を見ていたのかも。

 手をどかし天井を見れば、ひときわ大きな「蟲」と目が合う。長い触角が獲物を探すように左右に振られるさまを見ないように布団から起き上がれば、今度は床いっぱいに敷き詰められた小さな「蟲」たちが視界を埋めている。理性を上回るおぞましさが本能に絡みつき、それでも自分は部屋から出て大学に行かなければいけない。

 ──あるいは、行かなくてもいいのかもしれない。少なくとも強制されるものではない。もっとも、君自身がそうしなければ、と考えてやまないのなら、それはある意味強制していると言ってもいいのかも。

 あるはずのない踏み潰す感覚に顔をしかめ、溢れんばかりの胃液を飲み込みながら外廊下に出れば、秋入りの薄ら寒さが頬を叩き、正常が戻ってくる。振り返ると、薄暗い自室には布団が一枚敷かれているのみで、しかしそこに「蟲」の存在は欠片もなかった。

 ──あるいは、「蟲」はまだいるのかもしれない。見えないはずの「蟲」が見えるという事は、見えるはずの「蟲」が見えないという事もまた起こり得るのかも。

 起きてすぐ部屋を抜け出せば、視界に「蟲」は一匹程度まで収まる。なら原因は部屋なのではと野宿やネットカフェを試しても無意味だった。おぞましいナニカが自分にへばりつき、ともに移動しているのか。

 ──あるいは、君自身がおぞましいナニカで、この世界にへばりついているのかもしれない。人とはみな、世界にへばりつくおぞましいナニカである事を、君だけが自覚したのかも。

 頭が痛い。

 ──あるいは、痛くていいのかも。

 今日は朝から幻聴が酷い。

 ──あるいは、これが正常で以前が酷かったのかも。

 嗚呼、うるさい。

 ──あるいは、

 耳元に迫る『あるいは』をかき消すため、頭を扉に打ち付け鈍く大きな音を立てる。痛みとともに幻聴は萎縮したように鳴りを潜めた。


 ──1──
 事の始まりは一ヶ月ほど前だったように思う。断定は出来ない。それより前に自分が健常であったと証明する事は出来ないし、現状の自分は特に記憶や感覚において最も信用に値しないからだ。
 はじめは小さな違和感だった。違和感と称する事すら憚られるほど些細なもの。視界の端に黒い影が走る。ふと見た白い壁の一部に蠢く何かを確かめる。布団に寝転び瞼を閉じた直後の、煩わしい羽音。日常を過ごす上で、気に留めてはすぐに忘れる不快感。それが少しずつ日常を侵食している事に気づいたのが、おそらく約一ヶ月前。医者は頼りにならなかった。幻覚症状の原因はいくつかあるが、その中のどれであるとも今は断定できないらしい。自分は医者を全知である──とまではいかずとも、そう形容できるくらいには信頼を寄せていた──ように考えていたが、その翌週から通院をやめた。
 玄関にあらかじめ用意しておいた荷物を持ち、学生アパートから大学への片道数分を歩き出す。部屋を出れば「蟲」は収まるが、症状はむしろより深刻になると言っていい。道行く通行人が果たして常人か、幻覚の産物か。もはや自分には判別が出来ないのだ。ベビーカーを押す主婦らしき女性、会社に向かうであろうスーツ姿の男、歌いながらスキップをする小学生の集団。和やかに見える日常が、実際は怪物の群れであったとしても、何らおかしくは無いのだ。
 かと思えば、住宅街の塀の上に犬か猫か判別のつかない、とにかく四足歩行の動物らしき真っ黒な影が寝そべり、一つ目をぎょろりとさせている。電柱にもたれかかったヒト型のナニカは、頭が少し大きいのか、それとも首から下が少し小さいのか、とにかくアンバランスで奇妙な印象を与える。空を仰げば、頭上を覆わんとする巨大なカラスらしき何かが、六枚の翼を広げ獲物を見極めている。壁や地面には変わらず「蟲」が蠢く。
 これまで当たり前としていた現実と受け入れがたい非現実が視界内に同居している。そんな状態が一ヶ月続くと、脳の認識というものは簡単に崩れ去るのだ。すなわち、自分が認識する現実が分からなくなる。
 胡蝶の夢、という説話がある。夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、分からなくなるのだ。同じことが起こる。自分は一ヶ月程前から幻覚を見始めたのか、それとも生まれてより二十年もの間見続けていた幻覚から最近覚めただけで、世界とは最初からこうだったのか。今まで何の疑いもなく現実としていた世界が曖昧に歪む感覚は、言いようのない気色の悪さを自分に押し付けてくる。

 ──あるいは、気色悪さを感じる必要はないのかもしれない。現実とはそもそもが曖昧であり、曖昧でいいのかも。


 ──2──
 大学生と呼ばれる生き物に生まれ変わってから二年目になる。いい加減大抵の出来事に慣れ、大学生としての生き方に板がついてきて然るべきだが、それが出来ていない自分は劣等種にあたる。
 勉学に励む訳でもなく、講義より大事なものにのめり込む訳でもなく、朝まで飲み明かし遊び明かす訳でもなく、バイトに勤しみ金を稼ぐ訳でもない。おおよそ大学生という生きものの生態から外れ、もはや社会に出たくないがために大学に通うことのみが目的となっていた。
 そんな現状に引け目を感じながら、かといって具体的な行動を起こすこともなく、今日も機械的に、極めて無感情的に講義に臨む。当然、講義室も場合によっては鬼やら悪魔やら、果ては形容も出来ないナニカの巣窟に見えてしまうので、真の意味で講義に臨めたと言える日はしばらくない。今日は前に立って喋っているヒトの頭上でよだれを垂らす蜘蛛らしきものを眺めて過ごした。禿げ頭にドロドロと粘液が滴り落ちているというのに、そのヒトは何事もないかのようにスクリーンを指差し、何かのたまっている。自分にしか認識できないのか、それとも反対に、今まで自分だけが認識出来ていなかったのか。今日も分からなかった。
 四限目にはゼミ形式の少人数クラスが入っていた。ランダムにペアを組まされ、協力して文献の要約に挑むという内容である。割り振られた相手に小さく会釈し、配られたプリントを机に広げる。
「あなたは前半部分をお願いします。私はこの、六ページから後ろを」
 相手がプリントをめくり、こちらに話しかけている。羽音に紛れて、ほんの微かに気配だけが聞こえる。多分、自分を見つめているのだろう。そして首を傾げているに違いない。怪しまれてはいけないと、まだ整列していない言葉の塊をどうにか吐き出す。
「お先にどうぞ、残った時間で、自分は出来るので。ゆっくりで、大丈夫です」
 排気音にも似た重たい風の音を、背中で感じる。この人は呆れているだろうか。確かめたかったが、今も耳元に近づく「蟲」の蠢く気配が、振り向く事を許さなかった。
 講義を消化し終わり、あとは帰宅するのみ。大学近くの喫煙所でベンチに座り、もう三十分ほど紫煙を燻らせている。部活やサークルには入っていない。この期に及んで部活動やサークル活動に勤しむ輩を嘲るほどひねくれてはいないが、単純に入る理由がない。運動部なんてもってのほかだし、いわゆる「飲みサー」でやっていくようなコミュニケーション能力はないし、文化部に入れるような感性は持ち合わせていない。だがあの「蟲」の群れがいつ現れないとも限らない自室に長くいるのは耐え難い。故に放課後はここで時間をつぶしていた。十八時を回り空が薄暗くなってくると、喫煙所から人が消える。何故かこの時は幻覚もおとなしくなり、一日の中で唯一の安らぎを享受できる。
 煙を吸ってしばらく、頭に染み渡る靄と高鳴る鼓動。肺につっかかる妙な苦しさを、それこそを求めている。自分は今、息苦しいのだと思えば、何かがそれをどうにかしてくれる筈だと不明瞭な希望を持てる気がした。数瞬後、吐き出した希望が眼前に霧散する。今の自分にとっては、この煙だけがまぎれもない現実だ。絶やさぬよう煙を吐き続けた。

 ──あるいは、この煙こそが幻覚のヌシかもしれない。振り払わない限り、現状から抜け出すことは出来ないのかも。


 ──3──
「うまいですか」
 左、正確には左後ろから聞こえた声に、しばらく反応できなかった。この時間に自分以外の何者かがここに来ることは今までなかったし、そもそも日常会話的な問いかけが自分に向けられるという状況自体がここ一年においては稀であったからだ。結果、数秒遅れて低い呻き声のような音を出すのが精いっぱいだった。
「すみません。驚かせてしまいましたか。何しろ随分と噛み締めるように吸っておられたので、よほど好きなんだなと。隣、失礼しますね」
 あわや獣の寝息と間違えそうな低音を返事と認識できたのか、はたまた返事の有無を気にしていないのか、とにかく声の主は構わず話を続け、横長いベンチの逆側に座った。スーツの上にコートを羽織り、自分と同じくらいの男性にしては長い頭髪を後ろに束ね、右手のビジネスバッグから煙草の箱を取り出す。年齢は五十代も半ばだろうか。もともと公共の場所なのでなんら問題はないが、それにしても他にもベンチはあるのにわざわざ自分のいるベンチに座ってくるとは、年上特有の距離の近さを感じる。それでも不思議と嫌な感じがしないのは、男の周囲に漂う柔らかみのある雰囲気のおかげだろうか。
「それで、うまいですか」
 取り出した煙草を咥えながら、再度質問を繰り出してくる。さっきと比べいくらか落ち着いたおかげで、今度は受け答えが出来た。
「実は、あまりうまいとは思っていません」
 奇妙に思われるだろうか。うまいと思っていないなら、なぜ吸っているのか。それも、傍から見ればうまそうに吸っていたそうじゃないか。
「そうですか」
 心配とは裏腹に男はそれ以上言及せず、煙草に火をつけた。最初に一際多く煙を吐き、煙草を咥え、また吐き出す。やっていることは自分と同じはずなのに、男のそれは自分よりよっぽど様になっていた。俗にいう「煙草が似合う男」とは、この男のことを言うのだろう。姿勢か、表情か、仕草か。はたまた目には見えないこれまでの生き様がそうさせているのか。とにかく男には煙草が似合っていた。
「ところで、貴方は何か悩んでいるのではないですか」
 これまた突拍子のない男の質問に面食らい、返答が一拍遅れる。それを感じ取ったのか、男が言葉を続けた。
「いや、うまいとも思ってないのにあんな吸いかたをしていたものですから、つまり煙草が染み渡らざるをえないような事があったのではないかと、勘ぐったまでです」
 自分はそんなに分かりやすい吸いかたをしていたのか。だが実際精神には激しいストレスがかかっているのだろう。自覚なしに浮き出ていたということだろうか。
「差支えなければ、悩みの種を打ち明けてみてはくれませんか」
「……どうして、そこまで気にかけるんですか」
 無論、親切心というものは基本的にありがたいもの。だがそれは理由がはっきりしているからだ。この男の親切を正しく受け取るために、必要な質問だった。男はしばし空を見つめたあと、少し大げさに手を振りながら答えた。
「なんてことはないんです。この歳になると仕事も軌道に乗って、生活も安定してくる。それは嬉しいことなんですが、すると今度は日々に張り合いがなくなる。後は定年を迎えるまで、粛々と会社に貢献するだけ。要するに暇つぶしです。いつもと違うことをしてみたかったんです」
 まだ社会に出たこともない自分には想像がつかない世界のことだが、理解は出来る。ただ納得する前に不満ともいえる疑問が浮かんだ。つまり自分が今抱えている問題は彼にとって単なる暇つぶしに過ぎないのか。それは言ってしまえば当たり前で特段気にするようなことではないのかもしれないが、現状に苦しむ自分を軽んじられたように思えて仕方なかった。
「誤解がないよう言っておくと、誰でも良かった訳では無いんです。見るに貴方は学生でしょう。月並みな言い方ですが、未来ある若者だ。どうせつまらない日々を送るなら、そういった悩める若者に長く生きた分の経験なんかを活かしてあげられないか、と思ったのです」
 男は直ぐに言葉を付け加えた。不満が消え去った訳では無いが、ひとまず納得は出来る。どのみち自分ではどうしようもなく、医者も頼りにはならなかった。ここらで藁に縋ってみるのも悪くはないかもしれないと、一ヶ月前から続く症状について、分かっていることを男に打ち明けた。

 ──あるいは、納得してはいけなかったかもしれない。今、君の中にある不満こそが、何より重要なのかも。


 ──4──
 男はしばらく考え込んだ後、人差し指を一本立ててこう言った。
「例えば、今貴方の横に座っている私が、幻覚でないと証明する事は出来ない。同じように、私が幻覚であると証明する事もまた出来ない。でしょう? ただ、そもそも証明する必要が果たしてあるのか。私には些か疑問に思えます」
 紫煙に包まれた男の言葉は、まるで学びはじめの異国の言葉のように、極めて表面的に自分の耳を掠めた。文章の構成や、それが持つ意味までは理解出来ても、そこに込められた彼の考えを捉えることがどうしても出来なかったのだ。
「どういう事ですか? 現実と非現実を分けるのが客観的な事実証明でないなら、一体なんだと言うんですか」
 自分の疑問に対し、今度は少しも考え込む素振りを見せず、
「なんでしょうねぇ、分かりません。せっかくです、もう少し深く考えてみますか」
 とあけすけに言い張ってみせた。つまり彼は、明確な解答を有さないまま純粋に疑念を呈し、その事に何の憂いも引け目も感じていないのか。それは日頃から誤りを指摘される事を何より恐れ、長いものに巻かれる事に慣れた自分にとっては、いたく勇猛に見えた。
「そういえば、お名前を聞いていませんでした」
 日暮れの喫煙所に普段は居ないはずの男が現れ、悩みを打ち明けることで暇つぶしに協力している。改めてみても非常に奇天烈な状況ゆえに、コミュニケーションにおける一歩目を抜かしてしまっていた。ただこれは、男が紛れもなく実在する人間でなければ意味を為さない質問であり、彼もそれを理解していた。
「質問に答える前に、まずは名前、つまり〝名称〟について考えてみましょうか。名前というのは、個人を象徴する最小単位だと言えるでしょう。つまり、その者がれっきとした実在する個人であると証明する鍵になりうるかもしれない」
 男の瞳が輝いて見える。もはや順当なコミュニケーションは必要としていないらしい。なるほど、彼がしているのは確かに親切などではなく、自らの知的好奇心を満たすための暇つぶしだ。その歳で──実際には年齢すら聞いていないので、推察にすぎない──未だ衰えぬ探求心が確かにあることは素直に感心する。男が続けて話す。
「しかし名称というものは基準がなく、他者が一方的に与えることが可能だ。貴方が私の事を《うさんくさいおじさんの幻覚》だと名付けたなら、貴方の中では私は幻覚と認識されてしまう。名前はキャラクター性という確実な存在感を与えることが出来るが、それは個人の認識によって簡単に捻じ曲がる。私が実在するという証明にはなりえないでしょうね」
 男の理屈は驚くほど腑に落ちた。すとん、といった具合に。彼の話し方にはそんな不気味ともいえる説得力があるように思えて仕方なかった。優しく包み込むクッションに飛び込んだように、または底のない沼に沈められたように、一切の反発を許さず自分を納得させた。もしかしたらこの男ならこの幻覚症状の原因を、自身すら気づいていない心の内側を解き明かせるかもしれないと期待してしまうような、根拠のない頼りがいがあるように感じられた。
「では、何であれば証明に足るのでしょうか」
 とにかく必死だった。一か月前から始まったこの苦痛を解き明かす答えを持っているかもしれない男に聞いてみたい事は山ほどあったが、まず何よりも現状を打開しなければいけない。日は完全に沈み、普段であれば三本目を灰皿に捨て、いい加減に帰る時間だ。四本目を咥え、期待と共に火をつける。
「先ほど言ったはずですが、私はそもそも証明する必要性を疑っています。貴方が証明したいと考えるならば、まず貴方自身が考えなければなりませんよ。私は力添えしかできません」
 だが思考自体を楽しんでいるこの男にとって、自分のあまりに直接的な質問は気に食わないものだったらしく、変わらず柔和な表情にわずかに影が落とされる。対して自分はというと、眼前で消えていく煙を眺めながら頭に少し血が上っていく感覚を覚えていた。教えてくれてもいいじゃないか。この男は答えを知っているに違いないのに、教育熱心な教師のように自主性を求めてくるのか。だが実際、その言い分が至極真っ当である事も理解している。答えはこの男の中ではなく、やはり自分の中にあるのだろう。
「では質問を変えます。名前がだめなら、社会における立場や所属はどうでしょうか? 個人の認識に歪められない、客観的な事実になりうるのでは?」
 自分はこの時、高校時代を思い出していた。大学より教え子と教師の距離が近く、分からないことは片っ端から質問していた。あの頃の自分は、この男のように知的好奇心に満ちていたように思う。そして今、再び呼び起こされようとしているあの頃の自分は、男の的確で納得感のある解答を求めていた。
 だが、男の解答は悪い意味で想像を上回るものだった。
「私はその客観的な事実とやらの存在すら疑っています。これは持論ですが、客観とはつまり大多数の主観をうまいことまとめただけの代物で、結局のところ材料は他者の主観にすぎない」
 ここでようやく、この男は解決に繋がるようなことを一つも話してくれていないことに気づいた。先ほど感じた強い説得力と信頼性は、しかしそれだけのものであり、自分の役には立っていないのだ。やはりこの男にとって、この会話は暇つぶし以上の意味はないのだろう。そう思うと、再び頭が煮えたぎってきた。

──あるいは、この男は暇潰しのように君を救おうとしてくれているのかもしれない。君が拒絶する彼の屁理屈こそ、垂らされた糸なのかも。


 ──5──
 煮えたぎる頭が忘れていた懸念を呼び戻す。この男は単なる幻覚、幻聴にすぎないのではないか? 今までと比べていやに鮮明で明確なのは、それだけ症状がひどくなっているだけなのではないか。淡い期待が霧散していく匂いはたった今喫んでいる銘柄のそれに酷似していた。
 だとするなら、なおさら自分はこの男の正体を確かめなければならない。この男を皮切りに非現実を認識できれば、明確な突破口になり得る。
「客観が存在しないとは、随分思い切りましたね。何か、それを裏付けるような出来事でもあったんですか?」
 とはいえ、今の自分には質問することしか出来ない。とにかくこの男のパーソナルな部分を引き出し、自分の認識外の客観的事実があるか確かめなければならない。
「強いて言えるようなものは無いかもしれません。しかし貴方はよく分かるはずですがね。何しろ今の貴方は客観なんて認識できないでしょうから」
 何度も言うが、やはりこの男の言葉には確かな説得力を感じてしまう。するりと心に入り込み、初めから存在したかのように踏ん反りかえって居座る。それはおそらく男が醸し出す強い自信から生まれるものであり、頭にガンガンと響く不快な〝あるいは〟とは明らかに違う感触であった。
「確かに、今の自分には客観を認識出来ません。だがそれは主観的な幻覚による日常の浸食が引き起こしたものであって、つまりは今の自分が異常であるせいでは?」
 男はふむ、と小さく漏らした後、深く考え込み始めた。空を仰いだかと思えば、今度は地面を見つめ、頭を掻いた。それは言葉を探しているというよりも、既に決まっている台詞を言うべきか悩んでいるようにも見えた。
 日が沈み切ってもうしばらく経つ。もはや周囲に人の気配は感じられず、世界は二人の周囲を残し闇に消えた。月明かりと五本目の煙草の先端の火、立ち上る煙だけが、自己の存在を担保している。男はまだ悩んでいる。自分は男について考えていた。
 突然に現れたこの男は、暇つぶしと称して問題解決の道筋を真っ向から否定してきた。煙草が似合い、そつなくこなせる仕事に飽き刺激を求め、何歳になっても知的好奇心を失わず思考に没頭する。確固たる価値観を持ち、確かな自信と共に効果的に相手に伝えることが出来る。それが奇妙で強力な説得力を生んでいるのだ。
 何故だろうか。今になって気づいたのだが、よく似た人間を自分は知っている気がするのだ。道で見かけたとか、知り合いであるだとか、そのような類ではない。例えば、よく行く喫茶店の店員とか、はたまたそこでよく会うお客の一人だとか、スーパーの店員であるとか。親の知り合い、大学の教授、果ては近所のおじさんに至るまで。そういった実在性をもった情報は何もないのだが、この男を自分はよく知っているはずなのだ。もう少しで分かる気がする。分からなければいけない気がしてならないのだ。

 ――あるいは、君はもう分かっているんじゃないか?


 ──6──  
 五本目が根元まで燃え尽きた頃、男がようやく口を開いた。
「驚くかもしれませんが、貴方は何も異常ではないんですよ」
 一瞬眩暈がしたのは、普段は吸わない四、五本目のせいか、目の前の荒唐無稽を全身で体現した男のせいか。
 何を言っているのか分からない。さっきまでの奇妙で抗いがたい説得力もこればかりは誤魔化しきれない。今の自分が異常でなくてなんだというのか。馬鹿にしているのだろうか。それとももしや、これまでの二十年こそが偽りで、世界は最初からこのように狂っていた、という事だろうか。自分はずっと、蝶の夢を見ていたのか。
「さらに言うなら、貴方が異常なのかどうかは、さして重要ではないのです。そんなものは、世界の見方によっていくらでも塗り替わる。それでいいのです」
 続いた言葉は、理解も出来なければ納得も出来なかったが、不思議と受け入れることが出来た。何故かは分からない。この男の言葉は、外側からではなく、内側から響いている気がしてならない。何故かは分からない。

 ――あるいは、分かっているのかも。

 今朝ぶりの痛みが頭を駆け抜ける。今、自分の世界には主観しか存在しない。では、目の前の彼は何だ? 自分と全く違う価値観を持つ彼は、この場において唯一客観と呼べる存在ではないのか?

 ――あるいは、君がいくつも持つ主観の一つに過ぎないのかも。

 彼は誰だ。自分は知っているのだ。それさえ思い出せば、全てが分かるのだ。そうに違いない。

 ――あるいは、彼こそが全てなのかも。

 ポケットに煙草の箱が入っている。六本目を取り出し、火をつけた。横に座る男に煙が重なる。やはりこの男は煙がよく似合う。
「……ああ、そうだ。思いだした」
「そうですか。それは良かった」
 気づかぬうちに漏れ出ていたため息交じりの声に、男はいたく嬉しそうに微笑んだ。
「あなたになりたかったんだ。あなたを目指すべきと思っていた。でも出来なかった。別人にはなれなかった」

 ――あるいは、君は自分の事を彼のようであると思い込みたかった。でも出来なかった。どうしても別人だった。

「それが耐えられなかった。あなたを僕の形に歪めたくなかった。だから、代わりに世界が歪んだんだ」

 ――あるいは、彼が歪んでしまった事を認めたくなかった。だから、世界が歪んだ『ことにした』んだ。

 月が雲に隠れ、六本目が短くなっていく。灰が伸び、煙が二人を宵闇に象る。足元に「蟲」が見える。一匹一匹の触覚まで鮮明に見える。
「でもそのままで良かったんだ。あなたを歪める必要なんてなかった。あなたは僕とは違う人間なんだと、よく分かった。あなたが歪まなくていいなら、世界もそうなんだな」
 六本目を力強く吸い、今日一番の大きく濃い煙を吐き出す。月も引っ込んだ夜に白い紫煙が映えた。再び足元を見ると、「蟲」は跡形もなく消えていた。灰皿に吸殻を押し付け、ベンチから立ち上がる。
「もう良いんですか」
 男が尋ねる。
「はい。結局分からないままだけど、分からなくても良かったんだと分かったので。そちらこそ、もう暇つぶしはいいんですか?」
 この時、僕がどんな顔をしていたかは分からない。正直言えば、男の顔も良く見えなかった。ただ少なくとも僕は、限りなく晴れやかな顔をしていたんだろう。そう思っておく事にする。
「はい。それはもう、楽しく暇をつぶせました」
 彼もまた、楽し気に笑っていたんだろう。そう思っておこう。
「それでは、さようなら」
「えぇ、さようなら」
 僕は学生アパートへ歩き出した。喫煙所を出た直後にベンチを見やると、そこはさっきまでの人の気配が消え去った静寂の闇があるのみで。

 けれど何故か、最期に吐いた大きく濃い煙が、いつまでも残り続けていた。





 捐(す)てた季節と 流れぬ時に
 浮かぶ心は 月も見ず


 季捐

 僕の中から「季節」が消えた事に気づいたのは、仕事を終え、最寄り駅を出た時の事だった。今は肌寒さが頬を撫で始める秋入り、のはず。でも僕の体は、スーツの上に引っ付いた頭はちっとも肌寒くなんてなかった。もっと正確に言うなら、肌寒さというものが僕には分からなくなったのだ。今のこの感覚が果たして肌寒さと呼べるものだったのか、今の僕にはどうしても分からない。もっともっと正確に言うなら、肌寒さという言葉の意味を記号的に理解する事は出来ても、実際にそれを感じる事が上手くできないのだ。
 上を見上げると、そこには紅葉が何とも綺麗な赤みを帯びて揺れている、筈だった。しかしそこには紅葉なんてなかった。もっと正確にいうなら、葉に彩りがないのだ。赤くも、黄色くも、青くも、緑でも、紫でもない。そこには色という色が抜け落ちた空っぽの葉があった。もっともっと正確に言うなら、「季節の彩り」という言葉の定義を記号的に理解する事は出来ても、それを実際に見て感じ取る事が出来ないのだ。壁を見れば色自体を認識することは出来るのに、葉っぱの色だけが知覚できない。僕は奇妙な感覚によろけて転びそうになってしまった。
 たまらず下を見ると、落ち葉がいくつかあった。しかしこれを見ても僕は再び奇妙な感覚に襲われる。地面に落ちているそれらが、秋特有のものであったのか、それともいつでもあったようなものなのか。僕には一切分からなくなってしまったのだ。もっと正確に言うなら、落ち葉という物の定義が、僕には分からなくなっていた。自然に落ちたものをそういう風に言うのか、それとも人の手によって落とされたものも落ち葉に入るのか。もっともっと正確に言うなら、落ち葉というものが示す定義を記号的に理解出来ても、実際にそれを見て感じるという事がどうしても出来なかった。
 やはり「季節」を認知出来なくなった。言葉の意味を記号的に理解する事は出来ても、言葉以外でその存在を認知することが、僕には出来なくなってしまったのだ。まるで異国の言葉を学んだ時のように、「季節」という言葉が持つ意味さえも、僕は分からなくなっていった。まるで十年来の親友がある日突然いなくなってしまったように、僕の中から「季節」が消えた。

 「季節」は別に、絶対になくてはならないものという訳ではない。遠く海の向こうでは二季しかない国もあるし、なんなら季節の変化が存在しないという国だってあるだろう。
 だが「季節」そのものが無いというのは僕にとって大問題だった。つまり、そこには変化がない。時の流れを報せてくれるのはいつでも「季節」の変化だった。
 僕はカレンダーを持っていない。そういう人間が決めた時間の流れに縛られるのが嫌なのだ。僕はいつだって世界そのものの変化を肌で、呼吸で感じることで、時間というものを実感していた。
 だから僕の中から「季節」が消えたという事は、とにかく大変なことなんだ。生きられなくなるとか、そこまで重大ではないのかもしれないけれど、やっぱりそれでも、僕の心には大きな喪失感があった。
 僕の情緒は季節によって形作られていたのに、それが無いとなったら、僕の心は一体どうなってしまうんだ?

 僕はとにかく季節を象徴するものを探した。コンビニでスイートポテトを買って食べてみるが、味がしない。正確には味はする筈なのだが、至って普通の味だ。本来、秋にこういうものを食べれば、多少なりとも心が動く筈だ。「あぁ、秋が来たなあ」って。そんな風にしみじみと感じる筈だ。でもスイートポテトには何も無かった。せいぜい芋の味を感じる程度で、その芋の味にすらなんの感慨も湧かなかった。まるで特にお腹が減ってない時にご飯を食べる時のように、食べることに対して心が動かない。それはただのスイートポテトで、それ以上でも以下でもなかったんだ。
 次に僕は美術館ヘ足を運んでみた。今が秋であれば美術品に対する何らかの感動がある筈だ。なんたって「芸術の秋」なんだから。実際には芸術に季節なんて関係ありはしないが、僕はこの言葉が好きだった。その言葉が、芸術品をより美しく、より鮮明に映してくれる気がしたからだ。それがたとえ言葉の魔力による気のせいだったとしても、僕はその言葉が好きだった。だから今が秋であるならば僕は美術品を見ていつもと違う何かを感じるはずなんだ。でもそこには何も無かった。美術品を見ても、僕は「美術品があるな」としか思えなかった。まるで疲れている時に小説を読んだ時のように、僕の目をサーフィンやスケートみたいに滑った。ついでに言うと、サーフィンやスケートなどの言葉にも季節を感じることは出来なかった。サーフィンが夏の海で行うスポーツである事を理解は出来ても、実感を伴ったイメージが湧かない。スケートも同様だった。
 次に僕は人に直接聞いてみる事にした。ねぇ、今は何月何日ですか? 季節は? 春? 夏? 冬? それとも秋? 何か、それが分かるような言葉以外の何かをあなたは知っていますか? すると誰に聞いても決まって、怪訝な顔でこういうのだ。
「季節がなんだって、それがどうしたと言うのですか。季節が分からなくたって、困る事などないでしょう」
 それは誰に聞いてみても同じことだった。二人組の女子高生。三人で井戸端会議をしていたであろうマダムたち。僕と同じく会社帰りのサラリーマンの男まで、皆揃って同じ事を言った。
 僕は家に帰って、妻にも聞いてみた。ねぇ、今は何月? 季節は? 秋だろう。ならなんで今は秋なんだろう? 妻はいつもと同じような抑揚の声で、いつもと同じように言った。そんな事よりあなた、今日のご飯はどうしましょ。昨日の残りでもいい? 今日は何だか作る気が起きないわ。
 僕は呆れてものも言えなかった。妻も外の者たちと同じく、季節が分からなくなる事に何も怯えてはいないのだ。
 それから僕は、妻と一緒に晩御飯を食べた。昨日に食べた秋刀魚の塩焼きの残り、しかしこれを食べても僕は秋を感じる事が出来なかった。「秋刀魚は秋の食べ物である」と記号的な情報を思い浮かべる事は出来ても、実感の上でそれを確かめる事が出来ないのだ。秋刀魚を食べても、僕の心には何の感慨も感傷も浮かばなかった。それで、最後の試しに妻に聞いてみたんだ。ねぇ、秋刀魚は秋の魚だよね。妻はそうね、と答えた。しかし、ねぇ、なんで秋刀魚は秋の魚なんだろう。と聞くと、さぁ、何故だったかしらね。と言われてしまった。
 僕はとうとう暴れだしたくなった。誰もこの苦悩を分かってくれないのだ。皆は季節が分からなくても平気で道を歩いているのに、僕の心は何処にも行けやしない。季節を感じられない事がどうしようもなく寂しいのだ。そこには生きる事に支障は無いかもしれないが、その生には趣が無い。抑揚というものが一切なくなってしまうのだ。それはまるで部活の後に均されたグラウンドのように水平になって、その上を歩いている感覚と同じだ。歩きやすいかもしれないが、その歩みに変化がない。そして僕は均された地面に寝そべって地面と一体になり、やがてそこには何もなくなってしまうのだ。

 僕は決心した。これはもう季節の専門家に聞いてみるしかないと。僕はテレビ局へ向かった。
 入口から中へ入り、スタッフの制止を振り切ってスタジオに乗り込む。そして気象予報士さんを問い詰めた。今の季節は? 気象予報士さんは秋ですが、と答えたが、僕が欲しいのはそれじゃない。なぜ今は秋なんですか? それが言葉以外で分かるような何かはありますか? 気象予報士さんはきょとんとした顔で、やはりこう言った。

 何か、それが重要な事なんですか?

 もうダメだ。僕はその場にへたり混んで、スタッフたちにスタジオを追い出され、説教された。
 彼らはこう言った。いい加減にしたらどうだ。季節が分からないからなんだって言うんだ。必要でないなら、なくてもいいじゃないか。お前のくだらない喪失感は、我らになんの影響も与えない。
でも、季節が無いんだ。そこに何も無いんだ。僕の心を浮かべるための水面がそこに無いんだ。
 僕はそこから動けなくなった。誰もこの悲しみを共有してはくれないのだ。みんなは季節が分からなくても、何事もないように世界を生きていく。僕だけが取り残されていく。この世界に一人動けずに。遂に誰も僕を見なくなった。僕は何も言えなくなり、その場にうずくまった。

 そこで僕は考えてみた。どうして僕の中から「季節」が消えてしまったのか。考えてみてもやはり分からない。僕は季節を大事にしていた筈だ。しかし僕は、知らない内に季節というものを確かめなくなっていったように思える。そういえば最近仕事が忙しかったし、今日が何日だとか何月だとかに気を使う余裕がなかった気もする。僕は家に帰ってまた妻に聞いてみる。ねぇ、僕は最近忙しそうだったかな? すると妻はこう答えた。えぇ、そうね。あなたはここ最近ずっと忙しそうだったわ。一緒に晩御飯を食べられるのも今日が久しぶりだったわね。
 なんて事だ。無くなったと思っていた季節は、僕自身が勝手に棄てたものだったんだ。僕はやっぱりその場から動けなくなった。「季節」がなければ、僕は行くべき場所が分からなくなるんだ。今が何日で、何月なのかはどうでもいい。とにかく時間が流れているという実感が、僕の情緒を大事に育てていたんだ。それを僕は僕自身の忙しさによって棄ててしまった。僕自身が捨ててしまったのだから、もう後には何も残らない。僕は一人になって、どんどん、どんどん小さくなって、どんどん、どんどん、どんどん小さくなって、やがて口がすぼんでいって無くなってしまって。どんどん、どんどん何も言えなくなってしまって。どんどん、どんどん、どんどん、どんどんガチガチに固まっていってしまって。遂には今まで何について考えていたのかすらさえ忘れてしまった。
 僕は一体何を失くしたんだ。何を棄ててしまったんだ。まぁそんなこと別にどうでもいいか。とにかく明日のプレゼンの為の資料を確認しなくちゃいけない。失くした何かについて考えるのは、その後でも問題はない。問題は無いはずだ。






 恨み言 呻く縁も 終ぞなく
 ただ徒に 爆ぜ演べるかな


 爆演

 ────いつか失った雨樋。その経緯について。

 佐々木結翔《ささきゆうと》は生きながらにして怒れる男だった。目に映るもの全て、親も、友も、教師もご近所さんも、果ては鏡に映る己自身すらも憎み続けていた。だがそのうえで己が憎しみを拒み、その心の奥底に穏やかな幸福を求めて吠え続ける獣を飼っていた。獣の名はユイトという。CD屋の片隅でディスクを凍えさせ、拗らせたサブカル好きの自尊心の肥やしとなっている、売れないシンガーソングライターの名である。彼は怯えていた。いつか自らの怒りに呑まれ、どうしようもない破滅の道を歩まざるを得ないのだろうか。あるいは、既に自分はその道を歩んでいるのだろうか。あるいは、最初から自分の足元にはその道しかなかったのだろうか。
 彼を蝕む怒りの発端は小学生まで遡る。もしくは生まれたその時だ。佐々木は小学生にして純文学を嗜み、文学に対してある一定の哲学を既に持ち合わせていた。また本で蓄えた知識を元手に博識に振舞っており、それを自らの唯一の誇りとしていた。それが彼の自尊心という土壌に蒔ける何よりの種であったのだ。
 だが利口な男児は気づいていた。この種が尽きてしまったとき、足元の不安定な地面が一体どうなるのか。故に彼は常に怯え、一日に数冊の本を読むことを自らへの課題としていた。まるでサメに追いつかれないように波の中を必死に泳ぐように、あるいは崩れる塔の中を上へ上へと登り続けるように、実に職務的に文学を嗜んでいた。そして彼はやがて切望したのだ。この知識、感性の使いどころを。文学を嗜んでいる明確なメリット、意味を求めた。それは想像よりもずっと近い所にあったのだ。佐々木は小学六年生の時に物書きになった。
 物書きになってすぐに、彼の立つ舞台は中学校へと変わる。不安定な思春期の到来に揺れる教室でひとり本を読み耽り、話すことと言えば数々の意味のない雑学に中学生には理解が難しい哲学的説話やパラドックスの話。極めつけには二言目に「君にはまだ難しかったか」と鼻につく嘲りを残し去っていく。そんな男の領地といえばたまにある読書の時間以外、人っ子ひとりいない図書室くらいなものであった。だが佐々木はそんな事気にも留めていなかった。彼は物書きとなってから他人の存在なんて頭の隅っこからさらに遠いところに追いやっていたし、それで何も問題なかったから。
 彼の創作活動は実に独り善がりであった。自分さえ価値を見いだせればそれでいい。人の評価を必要とせず、むしろ拒んでいる節さえあった彼の物語も、また独善的であった。ある点から俯瞰してみれば、彼は創作活動なぞ出来てはいなかったのかもしれない。彼の描く世界には「世間」が無かった。彼は中学生にして、世界を本一冊分程の大きさでしか捉えられていなかったのだ。
 彼が怒れる男となった具体的なきっかけであるかの事件は、週に一度の読書の時間、佐々木にとって最も不快な時間に突然起こった。
 彼はその時怒っていた。これは単なる怒りだ。怒りに対して単なる、なぞ過小な評価をするのもむず痒いが、とにかく単なる怒りだ。これ自体はなんの問題もない。彼の怒りは追いやっていたはずの他人に浴びせた雨水であった。自らが主を務めるこの図書室に、不埒な輩が侵入してくる。本棚を雑に漁り、その卑しい目で背表紙を品定めし「よく分かんねぇのばっかり」「つまんねぇ。適当に終わらそ」だの、汚い口から唾を垂らしのたまっている。挙句の果てには官能的な表紙を誰が見つけるか、などと世界で──先ほども言ったが、この時彼の世界は本一冊分ほどのごく小さいものであった──何よりくだらなく低俗なゲームを始めるくらいだ。結局彼らは「マンガで分かる!」シリーズをこれまた煩く読んでいた。
 その一挙手一投足に不快感を隠さず、むすっとした顔で大きな本を広げていると、一人の女の子が佐々木に話しかけてきた。
 「佐々木くん。おすすめの本とかある? 教えて欲しいな」
 女の子はイチゴの形をしたキャラクターをあしらったヘアピンを右の前髪に付けていた。左右に下ろした襟足を三つ編みに仕立て、わずかにコーヒーの香りを纏っている。胸に付けた名札には「小鳥遊」と書かれており、その大きな赤縁メガネの奥から期待に満ちた眼差しを向けて来た。それは今まで佐々木の世界には見えない存在だったので、彼は最初、受け答えすることが出来なかった。彼女の言葉は習いたての英語の授業中のように極めて表面的に佐々木の耳を掠め、彼がその言葉の羅列の中身を咀嚼する前に、小鳥遊は再び言葉を投げかけてきた。
「佐々木くん、ずっと本読んでるみたいだから。図書室にもよく来るんでしょ? 私もたまに家の近くの図書館とか行くんだけど、佐々木くんなら面白い本、たくさん知ってそうだなって」
 さらに長い時間をかけて、具体的には彼女が諦め残念そうにその場を去ろうとしたその瞬間に、ようやく言葉を全て呑み込めた佐々木はどうにかして声を出した。
「み、宮村忠の、て、テセウスの検証、と、とか?」
 言ってから、後悔が押し寄せる。彼が挙げた小説は名前だけなら誰もが知っているミステリー小説だが、あまりにも分厚いうえに上下巻に分かれた、超長編小説であったからだ。普段から読書を嗜まないものに、いや、よしんば嗜んでいたとしても、気合を入れねばならぬ作品だ。読書の時間に読み終わるはずがない。
「あー、あれだよね。確か去年あたりに映画になってたやつ。まだ観たことなかったんだよね。借りてみる!」
 彼女はそう言って本棚の方へ行ってしまった。佐々木は、どうせ読めはしないだろう。途中で音を上げるに違いない、とほくそ笑み、わずかな罪悪感を押しつぶした。そうしてまた本の世界に入り込み、先程話しかけてきた少女の存在も頭から追いやった。
 追いやっていたから、また反応に遅れた。二週間ほどたった後、小鳥遊が重たそうに二冊の本を抱えて彼の机まで来たときに。
「これ、すっごい面白かった! 佐々木君すごいね。他にも教えて?」
 佐々木は面食らって、しばらく言葉の意味を理解出来なかった。読んだ? あの長ったらしい本を、二週間で? 自分でも一か月はかかったのに。佐々木は自分が速読に負けたことが信じられず、どうせまともに読んじゃいないだろ、とタカをくくって内容の感想を求めた。そうして再び面食らった。彼女はしっかり内容を読み込んでいた。普通に読むだけでは気づかないような小ネタにまで気づいていたのだ。彼女は最後まで熱心に楽しそうにやや興奮気味で、感想を語りつくしていた。あんまり近くに寄ってきたので、彼女が普段から飲んでいるのであろうコーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。彼女の楽しそうな顔が彼には新鮮に見えた。何しろ彼は自身のアイデンティティを守るために、実に職務的に、何かに追われるように本を読んでいたから。彼は足元の土が少し揺らぐ感覚に酩酊を覚えながら、また目の前の純粋に本を楽しんでいる少女から目が離せなかった。
 それから彼の世界は、本一冊分と、人ひとり分まで広がった。彼と小鳥遊は毎週放課後に図書室で会い、彼女が持ってくるコーヒーを飲みながら今週読んだ本を紹介し合った。実際には佐々木は常に図書室に籠っていたので、小鳥遊が不定期に会いに来る、といった状況であった。
 また佐々木は、自分の書いた小説を小鳥遊に読んでもらった。小鳥遊は決まって「よく分からない」とぼやいていたが、それでも「読みたくない」とは言わなかった。佐々木の事を目いっぱい理解しようとしていたのだ。佐々木はそれがなによりも嬉しかったのだと思う。何度辛口の評価をされても、物語を書いて持ってくることをやめなかった。それが二人の関係だった。二人はお互いを理解しあうことで、今よりもっと素敵な関係になれることを確信していたようだった。
 小鳥遊は恋愛小説を好んで読み、年相応に運命という言葉に飢えていた。彼女は毎週のように本の内容と共に「良いなあ。私もこの本みたいな運命があるのかなあ」とこぼしていたが、佐々木にはその気持ちが微塵も分からなかった。何度も言うが、彼は他人の存在──この時には、小鳥遊を除いて──なぞ頭の外に追いやっていたし、そのことに何の負い目も引け目も感じていなかった。彼は他人をどうしようもない阿呆だと──これまたこの時には、小鳥遊を除いて──信じて疑わなかった。
「そんな事は無いよ」
 彼女はいつも決まってそう言う。
「佐々木くんにはまだ、運命がやって来てないだけなんだよ。運命の相手に会ったら、きっと分かるはずだよ」
 彼はその言葉をいつも聞き流していた。そんなものは無いのだ、それこそ、本の中にしかない幻想だ。閉じてしまえばそこは現実。運命なんてものは言葉でしか存在しない。だがもし、本当に運命の相手が存在しうるというのなら。その相手はまさしく小鳥遊ではないのか。佐々木はそう思えて仕方がなかった。そんなことは万に一つもあり得なかった。

「琴音ちゃんってさぁ、佐々木と付き合ってんの?」
 ある日の教室。その中央で女子たちが話しているのを右隅で寝たふりをしながら盗み聞く佐々木は心底仰天した。ツキアッテイル。彼にはその言葉がひどく記号的に聞こえた。それは俗にいう、ケッコンを前提にしたお付き合いの事か? 彼の世界には本の中の誠実な愛しか記録されていなかった(彼はいわゆる爛れた愛の物語を知らなかった)。自分が小鳥遊と? そんな訳がない。僕たちの関係は極めてクリーンなものだったはずだ。だがもし、そんな可能性があるとしたら。佐々木の頭に「運命」の二文字がこだました。
 返答はしばらく聞こえなかった。佐々木はじれったくなってさりげなく近くまで移動し、会話を詳しく聞こうとして、固まった。
 泣いていた。小鳥遊が。すすり泣いていた。何かを嚙み殺すように、言葉の代わりに涙を流しているように。
「なんで」
 佐々木の口から、彼ではない誰かの言葉が滲み出る。小鳥遊をなだめていた女子たちがいっせいにこちらを向いた。
「お前、琴音ちゃんに何したの?」
 答えられなかった。本当に覚えがなかったから。僕らは昨日もいつも通り本を紹介しあって、いつも通り君は仏頂面の僕を前に笑っていたじゃないか。なんで。再び言葉が頭に溢れる。佐々木の沈黙は、彼女らには別の意味に受け取られたようで。
「琴音ちゃんにもう近づくな! 前から思ってた! キモいんだよお前!」
 それからどうやって家に戻ったか、佐々木は覚えていない。覚えていたのは搔きむしった頭の痛みと乱雑に書かれた「ふざけるな」で埋め尽くされたノート。そして書いてなお、頭を埋めつくす「ふざけるな」。
 彼は明確な怒りを覚えていた。単なる怒りではない。それは彼を大人になった今でも蝕み続ける、怒れる男の発端たる激情である。裏切られた事実への哀しみを孕んだ怒りと、誰にも理解されない事への、やはり独り善がりな怒り。そう、彼はどこまでいっても独り善がりだった。彼の世界は本一冊分と人ひとり分広がっているように見えて、実際はずっと約八十億人分狭まっていたのだ。彼はまだ世界を知らなかった。いくつもの本を読んで、あらゆる知識を蓄え、物語を書いてもなお、世界を知る事だけは叶わなかった。思えば彼は、ずっとその事への怒りを本人も知らないうちに抱え込んでいたのだ。
 そしてこの時、彼の中の感情を溜め込んでいた雨樋がついに壊れた。今までまともに動かしていなかった感情というものが、ギアを怒りに合わせて、唐突に全力でエンジンをかけ出した。佐々木は翌日教室で暴れ、クラスを別に移された。
 雨樋は、終ぞ修理される事はなく。佐々木は自らに眠っていた怒りを文章に書き映すことで、それに呑まれる事を恐れ筆を置いてしまった。だがこれにより、原稿用紙という逃げ場を失くした怒りに却って苛まれる事になる。己の生まれてよりの怒りを書くことで発散していた事実を、佐々木はこの時初めて知ることになった。それからの執筆生活は地獄と言って差し支えない。怒りを溜め込まぬよう文字に反映し続け、だがやがて言葉に姿を変えた自身の怒りに呑まれてしまうのが怖くて、筆を置いてしまう。彼は怒りと恐怖を生きたまま写す鏡であった。
 三年間は知らないうちに過ぎていた。多分、その間は彼ではない誰かが「佐々木結翔」として学校に行き、授業を受け、給食を食べ、図書室で本を読み、クラスメイトに白い目で見られた。とにかく彼にはその間の記憶が微塵もなかった。高校は誰もいない所を受験し、そこでも音楽という第二の逃げ場を得て、シンガーソングライターを志した事以外は何も覚えてない。
 怒りを溜め込み、文字と音にして発散する。佐々木はこのなんとも不毛な行いの為だけに生きていた。彼の世界は本一冊分と、アコースティックギター一つ分、いまだこれだけ。彼はいくつになっても自分に手いっぱいで世間を知れず、また知らなくてもいい大人になった。


 ────いつか手に入れた二つの爆弾。その火種について。

「それで、新曲はどうなんだ」
 華金だというのに、店内は閑散としている。そういう店を選んでいるのだから、それもそのはず。ここはアーティストたちが集う穴場の居酒屋である。佐々木はこの日、ロックバンド「フレキシブル」のボーカル、最上と席を共にしていた。
「上手くいってたら、ここでお前と呑んでねぇよ」
 最上の質問に、佐々木は分かりやすく顔を顰めて答える。右手の徳利を煽るが、空になっている事を確かめてまたさらに顔を歪めた。
 最上は長い前髪を顔の中心で分け、さらに長い襟足を後ろに束ねている。口周りには無精髭をたくわえ、大きな丸メガネから細長い目を佐々木に向けている。彼は世間に人気バンドともてはやされるグループのリーダーだ。本来佐々木とは世界が違う。佐々木はいわゆる「売れないシンガーソングライター」としてチケット代の大半を自費で払い、設営を手伝って生活費を賄っている。まだ二人が新人だった頃の縁のみが、彼らを今日までつなぎ止めていた。
「俺はお前の曲、いいと思うんだけどなあ」
 佐々木の知り合いはみな口をそろえてそう言う。しかし彼はこの言葉を受け入れることが出来なかった。彼の世界はシンガーソングライターになってから、本一冊分とギター一つ分、そして今まで世間に発表した作品分の広さまで広がっていたが、それでもなお狭すぎた。独り善がりな彼の作品はやはり独り善がりなものであり、彼の作品が世間に認められたことは今まで一度も無かった。彼は作品を通じて世界を知ろうとしていたが、それは未だ叶わずにいた。
 しかし佐々木はこの頃には、少し特殊な職業の大人として問題なく社会生活を営めていた。それは創作活動による怒りの発散がうまくハマった事が近因であり、他人の存在を再び陽炎だと定義し始めた事が遠因である。彼は世界における存在を自身以外に認めず、他人というものを全て自身が見ている蜃気楼の如きあやふやなものだと考える事で、再び頭の外に追いやって生きることが出来ていた。彼は成人後にようやく、他者との関わり方として「うわべ」というものを獲得していたのだ。かつて、うわべでなく確かに心から関わっていたある女の子の存在は、いつの間にか佐々木の記憶から薄れかかっていた。
「そもそもお前、何がやりたくて曲書いてんだ?」
 最上がいわゆる創作論のようなものを求めて質問してくる。佐々木はしばらくの間、黙って考え込んでいた。彼にとって創作とは発散と逃避のための最も効率的な手段でしかなく、それ自体に意味など無かった。つまり、彼はいわゆる創作論というものを持っていなかった(もしくは今あげたそれらを創作論と呼べるのか、佐々木には分からなかった)。しかし確かにやりたいこと、やってみたいことはある。それは彼の根底とも言える欲求。佐々木は酒精の勢いに身を委ね、最上にそれをぶちまけてみることにした。どうせ目の前のこいつも陽炎にすぎない、湖面に独り言を話しかけているようなものなのだから。
「ぶち壊したいんだよ、全部。人生の一番頂とも呼べる所までいって、そこですべてをぶち壊して終わらせたい」
 それが果たして創作というものを壊すと言う事なのか、台無しにするという意味でのぶち壊しなのか、はたまた物理的な破壊行為なのか。彼はそのことを自分でも分かっていなかった。ただそれはまさしく彼を蝕む怒りを解き放つ創作という行為の完成系であり、彼の生きる唯一の目的、希望ともいえる行為である。佐々木はそれだけの為に今日まで生きてきたが、いまだ人生の絶頂とやらは現れず、現れたところで何を以てぶち壊せばいいのかも分からないまま、うだつの上がらないアーティスト人生に嫌気が差し始めていた。
「ぶち壊すねえ。武道館ライブで爆破でもするか」
「……今、何て言った?」
 佐々木の口から日本酒が零れ落ち、机の上へ垂れた。最上は訝しむような視線を佐々木に向け、彼の疑問に答える。
「いや、アーティストの頂点と言えば、武道館ライブだろ? そこで会場を爆破すんだよ。ライブ中に。まさに、絶頂でのぶち壊しだろう?」
 それは彼なりの小粋な冗談だった。彼は酒に酔うと、よくそういう類の心臓に悪い冗談を言う。現に彼の顔は酒精に溶けて真っ赤に染まっていたし、佐々木の本性を知らないが故に、そんな大犯罪行為を真面目に受け取るはずがないとタカをくくってもいた。佐々木は最上の冗談を聞いて、稲妻に打たれる自身の体を知覚していた。それは彼にとっては冗談以上の意味を持つことになった。それは創作を壊すという意味においても、台無しにするという意味においても、物理的な破壊行為という意味においても実に理にかなった方策であるように佐々木には思えたのだ。その言葉は彼にとって福音であった。彼はこの時ようやく、自分の生きる意味を見つけたのだ。怒りの発散などという曖昧で終わりがなく、また給水地点もないようなマラソン行為。そこに明確なゴールが定まった事で、佐々木は興奮を隠せずにいた。彼が人間的な感情を作品以外で表に出す事は実に稀であった。それほどまでに最上の提案は鮮烈だった。
「お前、まさか本気でやる訳じゃないだろうな」
 最上が訝しげな顔で佐々木を見る。なぜなら、佐々木の表情が真に迫るそれだったからだ。だが彼はすぐにふふっと笑い、首を横に振った。
「まさか。そんな訳ないだろ」
 真っ赤な嘘である。佐々木は完全にその気だった。最上の放った冗談を、具体的な計画として頭の中に構築していた。彼は大人になり獲得した「うわべ」によって、誤魔化す事が上手くなっていた。最上は安心したようにため息を吐き、店員におあいそ、と告げる。
 二人は店の前で別れた。佐々木は駅前の喫煙所の方へ向かう。その足取りは軽快と呼ぶにも足りないほど軽快だった。冬入りの寒さも、彩りを失った紅葉たちも、地面に積み上がる落ち葉さえもが、今夜の彼には強く魅力的に映っている。煙草も美味くなるというもの。佐々木は普段、一本吸えばすぐに喫煙所を出るが、その日は五本目に突入していた。
「兄ちゃん、カッコええな。バンドでもやっとるんか」
 隣で紫煙に包まれていた老人が佐々木に話しかけてくる。
「いえ、音楽はやってますが、一人です」
「なんや、友達おらんのか。はっはっは」
「そうなんですよ。寂しいもんです」
 不躾な老人に佐々木は極めて穏やかに答える。幼少の頃では考えられない程、佐々木は社会性を身につけていた。彼は根っからの異常者ではない。単に生き方が狭いだけである。老人の態度は気分が良いものでは無かったので、その後すぐに喫煙所を出た。
 自宅のベッドに寝転び、スマホを開いてショッピングサイトを眺める。どうやら爆発物を扱うには資格が必要なようだった。更に武道館ライブなぞ佐々木には程遠い場所。佐々木はそのどちらかを選ばなければいけなかった。どちらもに割くリソースは無い。最終的に、まずは頂にたどり着かねば意味がないという考えに落ち着き、爆発物は独学で製作する事にした。
 そこからの創作活動は意欲に満ち溢れていた。何しろ明確に目指すものが見えたのだ。モチベーションも段違いというものである。佐々木はよりいっそう作品作りに励み、また自宅の寝室に簡素な工房のようなものを作り上げた。楽曲制作と爆弾製作。佐々木の創作人生、その終わりへと向けた歩みが、ここから始まった。

 佐々木はこのところ、咳と淡に悩まされていた。喫煙習慣によるものだと特に気にもしていなかったのだが、その日ばかりは無視するわけにもいかなくなった。淡に赤色が混じっているのである。流石に違和感を覚えながら、佐々木は荷物を最小限に家を出た。
 改札を通り、ホームに出て、二番目の車両に乗る、ここが一番目的地に着いたとき階段に近い。今日行くところはいつも世話になっているライブハウスの設営スタッフのバイトだったので、行くルートは熟知していた。いつもと変わらぬ道。そこに差し込む一筋の違和感。重くなる頭痛。喉に絡みつく淡。ままならない足取り。佐々木は一際強く咳込んだのち、ゆっくりと歩道に倒れ込んだ。
「肺がんです」
 医者の言葉は狭い診察室を反響して佐々木に届きはしたが、その深い脳の奥まで染み渡る事は無かった。その事実は彼にとってある種どうでも良い事だったから。佐々木は自身の生き死にに対しては中立的な姿勢を見せている。何しろ彼の人生は発散と逃避に満ちた無為なものであった。唯一懸念すべき事柄があるとすれば、先日初めて手に入れた夢のような目標に、時限がついてしまったという事か。元々寿命という時限は存在はしたのだが、それがより具体的なものとして佐々木の目の前に現れてしまった。夢の実現を早まらせねばなるまい。佐々木はそう決意した。
「どうでしょう、早ければもう来週から入院しましょうか、この進行具合なら完治する可能性が十分にあります」
 故に医者から続いて放たれた言葉を佐々木は内心で拒絶した。元々、長生きする気など無いのだ。我が身可愛さにただ平穏に過ごす時間などもはや存在してはいけない。佐々木はそう考えはしたが、流石にこの場でそのまま言葉にすることは憚られ、「一旦持ち帰る事にします」とやはり「うわべ」の言葉で誤魔化した。医者は「そうですか。では薬だけ出しておくので、決まったらまたお越しください。お大事に」とだけ言って後ろの看護師と会話を始めた。佐々木は診察室を出ていく。もう二度と来ることもないだろう。そんなことを考えながら。
 待合室で会計に呼ばれるのを待つ。上を見れば、排気口がプロペラを回し空気を吐き出している。あれが健康的な肺とするなら、自分のはプロペラがねじ曲がったのか、それとも外枠が捻じ曲がったのか。佐々木はそんな事を考えていた。佐々木にとって自身の肺の状態なぞは、空想の種にする程度の他愛ないものなのだった。
 佐々木は気づかなかった。すぐ隣に座っている女性の存在に。それは上を向いて空想していた故か、そもそも忘れていたか、それとも忘れたかったからか。
「佐々木、くん? 佐々木くんだよね?」
 横から聞こえた声に、佐々木は少し遅れて反応した。そして強く狼狽した。そこにいたのは白衣に身を包んだ女性。右側に下ろした襟足を三つ編みにし、名札には「滝沢」と書かれており、その大きな黒縁メガネから変わらぬ双眸を覗かせている。
 小鳥遊琴音。かつて佐々木が「うわべ」でなく心から接し、そして裏切られ、やがて忘れた女の子。佐々木と同じく成長した彼女が、そこに立っていた。


 ────いつか関わり合った少女。その誤解について。

 静かな店内には珈琲豆の香りが漂い、カウンターの中で店長であろう老人が豆を挽く音のみが響いている。窓に面した席に座る二人の間に会話は無い。お互い、切り出し方を迷っているようで、そのうち右側に座る女性が口を開いた。
「苗字ね、高校の時に両親が離婚して変わったの」
 それは質問しにくかったであろう佐々木への彼女なりの配慮だった。そのまま滝沢が話を続ける。
「親権は母親の方になって、つまり、父親が変わったんだけど、その人が私とはうまくそりが合わなくて。でも、せっかく新しい人と一緒になったお母さんの邪魔をしたくはなかったから、頑張って仲良くするようにしたの」
 佐々木はこの話の趣旨が分からずにいた。お互いのこれまでの経緯を分かち合おうという事だろうか。もしそうなら佐々木はそんな事はごめんだと思っていた。彼にとっての経緯とは即ち彼女とのいざこざから始まった逃避の日々であり、もはや薄れかかっている痛みの記憶に他ならないからだ。掘り返したくはないと、佐々木がそのまま黙っていると、彼女は更に続ける。
「でもやっぱり本当の意味で仲良くなることは出来なくて、そのうちお義父さんとは嘘の顔で接するようになった。そんなことずっと続けてると、なんか、どんどん普段の自分まで歪んでいっちゃうんだよね」
 佐々木は彼女の話に強い共感を覚えていた。彼女もまた「うわべ」を使わねば生きられぬ存在であり、そういう意味で二人は同類であるように佐々木には思えた。彼の頭に薄れかかっていた(実際には意識的に塞いでいただけで、彼の中にずっとあった)記憶が蘇ってくる。
 店員が二人の間のテーブルにカップを二杯置いた。中の黒い液体に波紋が広がり、そこに映る滝沢の顔が波につられて歪む。佐々木はコーヒーの香りが苦手である。味は好きなのだが、あの匂いは彼の神経を逆撫でる。それもあの頃の図書館に通ずる痛みの一つであった。
「中学の頃、こうやって二人でコーヒーを飲んで、図書室で話してたよね。覚えてる?」
 佐々木はなおも喋らない。二人にとってその記憶は痛みに満ちていたはずだと、何故今更蒸し返すのかと、言葉にするには考えることが多すぎた。
「多分あなたは誤解してる。私ね、あの時が人生で一番幸せだったの」
 再び、カップの中身に波紋が広がる。今度はさきほどより幾分か大きい、佐々木の狼狽によって揺れた机が原因の波紋である。
「じゃ、じゃあ」
 佐々木がようやく言葉を発した。その言葉に続く疑問を知っている滝沢は答える。
「あの時泣いてしまったのはね、哀しかったからなの」
 佐々木には言葉の意味がよく分からなかった。それを表情から察したのか滝沢が言葉を続ける。
「私たちの関係は、恋人でしかありえないのかなって。毎週図書館で話すあの暖かい関係が、恋人以外ではありえないのが普通なのかなって。そう思うと、哀しくてしょうがなかったの」
 言いながら、滝沢の目に雫が浮かぶ。もう日が暮れ始めていた。夕日が、彼女の涙を照らす。
「私たちの関係は、そんな二文字で表せるようなものじゃなかったはずなのに。もっともっと、親密で、特別なものだったはずなのに。恋人なんて言葉で、縛れるようなものじゃなかったのに。それが哀しくて泣いてしまったの。決して、貴方を拒絶していた訳ではないの」
 佐々木は心が震える感覚を覚えていた。長年の痛みの記憶が溶かされ、彼を長年苦しめてきた怒りの、その最も大きな欠片が崩れていく。彼女はやはり自分の理解者だったんだ。俺たちは恋なんて半端なもの以上に「運命」という糸で通じ合っていたんだ。
「たかな……滝沢さん。うちに来ないか?」

 佐々木の自宅は散らかっていた。リビングの床には楽譜が散乱し、壁にも楽譜が画鋲で固定されている。ギター、ベース、いくつもの楽器がそこらに安置され、とても人が住んでいるとは思えない有様だった。そこは人の家ではなく「アーティスト」という生き物の住処のようであった。
「狭いから気を付けて」
 佐々木は片付けようともせず、客人を招き入れた。滝沢は入ってすぐに驚いていたが、散乱するそれらが努力の証である事を理解した。
「今は音楽、頑張ってるんだね。あなたは小説家とかになると思ってた」
「高校で音楽と出会ったんだ」
 佐々木はそれだけしか答えられなかった。それ以外の高校での記憶がさっぱり無かったから。
 そうして二人はソファに座って、どちらが合図するでもなく口づけを交わした。二人は自分たちの関係が、恋や愛などという俗物でない。クリーンで尊いものである事を証明したかった。それ故に接吻をして、その先の行為を始める気になれない事を確かめたかった。それは彼らが俗物でない事を証明するための俗物的行動だった。
 案の定、しばらくして唇は離れ、そこから愛を確かめ合う行為に走る事もなく二人はソファから立ち上がった。これで二人は満足だった。
 それから二人は毎週、佐々木の家で会うようになった。読んだ本を紹介し合い、佐々木の曲を滝沢が聞いて、あの日のように「よく分からない」「これが知人の間である程度評価されているのはもっと分からない」という。佐々木は久しぶりに小説も書いてみた。滝沢に読ませると、やはり「よく分からない」。でも佐々木はそれで良かった。それは二人の失くしてしまった時間を取り戻すために必要なことだったから。あの誤解によって分かたれた二人の運命を再び繋ぎ合わせるための儀式だった。そして滝沢が帰る時にはいつも、口づけをしてから帰る。「キスをした後、帰りたくないって思ってしまったら、その時が私たちの関係の終わりよ」
 滝沢はいつもそう言っていた。

 ある日、佐々木は意気揚々として、自身の壮大な計画を話し始めた。
「最終的に目指しているのは武道館ライブだ。でもただのライブじゃない。ライブ中に仕掛けた爆弾が爆発するんだ。ドカーンッて! そして僕は人生の絶頂ともいえるだろう場所で、自分の作品と心中する」
 話し終えた後に続いたのは長い沈黙と咳込む声。佐々木が手についた血を洗面所に向かい洗い流して、そして部屋に戻って来てから、ようやく滝沢は口を開いた。
「ば、爆発? 心中? 何を言っているの?」
 滝沢の疑問に佐々木は自慢気な顔で部屋の隅にある扉を指差した。中に入ると、そこは寝室であるようだった。普通の寝室と違うのは、何やら大掛かりな作業机がある事だった。
「も、もしかして、これが爆弾?」
 作業机の上を指差して、滝沢が問う。
「まだ完成してないけどね。いずれは十個ほど作るつもりさ」
 長い、本当に長い沈黙が訪れる。部屋に立てかけられた時計の秒針がもう三百回ほど音を立てて刻まれ、いい加減、感想を聞きたい佐々木が声を出そうとしたその時。
「あなた、おかしいわよ。こんなのは爆弾じゃない。い、イカれてる」
 佐々木は、滝沢の言葉を理解するのに先程の沈黙よりも長い時間を要した。
 秒針が百回ほど音を立てて刻まれた頃には、寝室のベッドが布団を剥がされ丸裸にされていた。秒針が二百回ほど刻まれた頃、散らかっていたリビングが更に荒らされていた。秒針が三百回ほど刻まれた頃、佐々木の両腕は傷だらけになっていた。秒針が四百回ほど刻まれた頃に、ようやく佐々木に冷静な思考力が戻っていた。滝沢は居なくなっていた。
 惨状を演じるリビングの中央で男が佇んでいる。佐々木は再会した小鳥遊によって思い起こされた暖かい記憶によって溶けかけていた、暴れまわる獣の如き激情が内心に再び形を成していることを自覚していた。

 イカれてるだと?イカれてるのは世間の方だ! 俺を拒み、蔑ろにしたのはお前らの方だろうが! よしんば俺がイカれてるのだとしたら、そうさせたのはお前らじゃないか! 「うわべ」を以てしてお前らに合わせなければ、俺のような奴は生きられないんだ。小鳥遊、お前もそうだったんじゃないのか? お前だけは俺を分かってくれるんじゃなかったのか? お前まで俺を拒絶するのか。あの時のように!

 彼は再び、明確な怒りを覚えていた。ただの怒りではない。それは中学の頃から彼を蝕み続けていた。独り善がりな怒りである。佐々木は大人になって「うわべ」の社交性を得てなおそれでも、真の意味で世界を知り、他者を受け入れる事だけは叶わなかった。唯一受け入れられたはずの少女はたった今、彼を拒み出ていった。
 佐々木はこの怒りのやり場を心得ていた。今までずっとやってきたことだ。引き出しからルーズリーフを取り出し、心の全てを書き殴る。書き殴って、書き殴って、やがて歌詞が完成する。息つく間もなくギターを取り出し、感情のままに弦を弾く。弾いて、弾いて、やがてコード進行が完成する。続いてベースを取り出し、コードに沿って弦を弾く。ベースラインが完成する。あとはパソコンを起動し、ドラムをつけて全体の調整を行う。あっという間に、一曲が完成した。佐々木は完成した曲にフリー素材の画像をつけて動画にし、サイトに投稿した。そこまでやってようやく一息つき、激情が収まって来る。束の間の穏やかな内心が戻ってきて、佐々木はそのまま眠りについてしまった。

 翌朝、佐々木は画面を眺め絶句していた。昨日激情のままに書き殴ったあの曲が、一夜にしてミリオンヒットを目前に控えていた。再生数は一秒後には倍に増え、SNSでの反響も高評価が増え続けている。佐々木はこの曲のヒットを皮切りに、一気に人気アーティストへの道を歩み出した。


 ────いつか抱えた爆弾。その爆ぜ方について。

「人生、何があるか分かったもんじゃねぇな」
 華金だというのに、店内は閑散としている。そういう店を選んでいるのだから、それもそのはず。ここはアーティストたちが集う穴場の居酒屋である。佐々木はこの日も、最上と席を共にしていた。
 あの奇跡の一曲から数か月。佐々木はもはや最上をも越える勢いで人気を博し始めていた。武道館ライブを再来週に控え、夢が叶うまで、あと半歩の所まで来ている。
「そういやぁ、覚えてるか? いつかこの店で話した冗談。武道館ライブの最中に会場爆破してやる! って」
 佐々木は頷かない。そんな冗談は覚えていないのが当たり前だろう。覚えている事がバレたら、あまつさえ実際に計画に移そうとしている事がバレたら、それはそれは面倒な事になりそうだ。と佐々木は考えていた。
「馬鹿だよなぁ。そんなことしたって俺たちは報われやしないのに」
 強く咳込んだ佐々木の口から赤みを帯びた日本酒が零れ落ち、机に垂れて、ズボンにシミを作る。
「なんで、報われないんだ?」
 佐々木は怪しまれることを覚悟の上で最上に問う。しかし運のいい事に最上はいつも通り酒精に脳をやられていた。
「だってよ、会場爆破しちまったらそこにいる奴らみんな死んじゃうじゃん。自分の曲を聞かせた奴らと一緒に死んじまったら、その曲は誰にも聞かれなかった事とおんなじになる」
 最上が二杯目を店員に注文する。佐々木にも注文があるか聞いたが、佐々木は固まったまま動けずにいた。最上の言葉は全くの盲点だった。曲というものは聞かせなければ意味がない。特に佐々木には聞かせたい人がいた。彼女に今度こそ、自分というものを理解して受け入れて欲しいのだ。しかしならばどうすればいい。いつも通り曲を書くだけでは、いつも通り評価されて、それでお終いだろう。佐々木は確かにこの時人気アーティストとして楽曲を評価されていたが、世間の評価はいつもありていに言えば的外れなものだった。真に佐々木の怒りを、苦しみを理解したものはまだ居ないだろう。人々の記憶に強く残るような何かを生み出さねば、自分は真の意味で世界と繋がれない。彼はこの時やっと、自分の世界が狭すぎる事に気づいた。こんな狭い世界で創ったものが、広い世界で真に受け入れられる訳がないのだ。何かないのか。そのヒントをくれたのは、やはり目の前の男だった。
「俺なら、やりたいだけ曲聞かせまくって、その後急に死んでやるね」
 それは彼にとっていつも通りの小粋な冗談だった。そして佐々木にとってはかつてと同じ啓示だった。
「最上、いつもありがとう。お前は常に俺のやるべき事を言語化してくれる。俺の理解者とは、もしやお前だったのかもしれない」
 佐々木は最上に精いっぱいの感謝を送るが、既に潰れた最上には届かなかった。二人はいつも通り店の前で分かれ、佐々木は喫煙所に向かった。
 最近は有名になった影響で、喫煙所で話しかけられる事が増えた。今日も二人の女性が、佐々木を見つけるやいなや話しかけてきた。
「うわ、ほんとにいた! あの、大ファンです! アナタの歌にマジ救われてます! ブドウカンライブも絶対行きます!」
 佐々木はいかにも人気アーティストぶった態度で接する。それが彼女たちに適した関わり方だ。ここで「俺の歌のことなんてまともに理解しちゃいないくせに!」なんて怒鳴った日には、SNSですぐに話が広がって大炎上し、佐々木の人気は地に堕ちるだろう。夢の成就まであと二週間。そんなヘマはおかせないと佐々木は努めて冷静に「うわべ」を駆使する。
 話し終えて喫煙所を立ち去り、辺りに人がいない路地を歩いていると突然、喉が焼ける感覚に見舞われる。しばらく咳込んだ後に見ると、シャツの襟口が血まみれに汚れていた。もう少し話し込んでいたら危なかった。佐々木は血まみれの胸を撫で下ろす。あれから医者にかかってないので分からないが、佐々木が患っている肺がんは、おそらく既に取り返しのつかない所まで来ているのだろう。それでもマネージャーなど周囲の人間にこのことを奇跡的に隠せているのは、神が自分を見守っていてくれているからに違いない。佐々木は夢の成就を神に祈り感謝しながら家路を辿った。
 自宅の工房にて、佐々木は考えていた。目の前には爆弾が六つ並べられている。突然有名になる転機が訪れたものだから、当初の予定通り十個も用意する事が出来なかった。
 佐々木の脳裏に、最上の言葉が蘇る。会場を爆破する事はやめ、自分のみを終わらせる。それが本当に正しいのかを考えていた。
 やがて答えを出した佐々木は、ある最後の心残りについて考え床についた。

 静かな店内には珈琲豆の香りが漂い、カウンターの中で店長であろう老人が豆を挽く音のみが響いている。窓に面した席に座る一人の男は、人を待っていた。やがて向かいの席に女性が座る。右側に垂らした襟足を三つ編みに結い、大きな黒縁メガネの奥から男を見つめる。
「──滝沢さん」
 佐々木は彼女の名を呼んだ。かつて拒まれ、それが誤解だと知るも、やがて本当に拒まれた相手。滝沢は病院まで来た佐々木の呼び出しに、複雑な表情で承諾した。それは来週に控えた武道館ライブで佐々木が行う事を知っていて、尚且つ彼の心変わりを望んでいたが故だ。
「悪かったよ、もうあんなことをする気はない」
 彼女の望みは真っ先に叶えられたようだった。彼女の表情が少しだけ和らぐ。
「そう。目が覚めたのね」
 店員がコーヒーを二杯運んでくる。佐々木は相変わらずこの香りが好かないらしく顔を歪め、上を眺めた。排気口のプロペラが回っている。彼女と再会したのはあれについて考えていた時だったかな、と思い返す。数か月前の思い出に浸りそうになったが、すぐに目的を思い出し、目の前にチケットを差し出す。自身の武道館ライブのチケットである。
「見に来て欲しい。やっぱり僕には君が必要なんだ。この気持ちが恋なんていう俗っぽいものだったとしても、そんなことはもうどうでも良いんだ。とにかく僕は君に僕の曲を聞いて欲しいし、それに対する評価を受け入れたい」
 滝沢は少しの間逡巡しているようだった。しかしそのうち手を前に出してチケットを受け取り、そして佐々木に口づけをした。いつかの儀式。これで彼女は試そうとしているのだろう。そう考え、佐々木は身を委ねた。
 しばらくして、唇が離れる。
「おかしいわね。まだ帰りたくないと思ってしまったのに。私とあなたの関係があの図書室から変わったというのに、今はそれで良い気がしてる」
 そして二人は佐々木の家に向かい、寝室のベッドに横たわり、再び口づけをした。今度は舌を絡める、恋人同士が「そういうこと」を始める前にする口づけだ。佐々木は唇を合わせ本能的に舌を絡めながら、滝沢の服を脱がし始める。しかしブラジャーを外すところでもたついてしまう。彼は言わずもがな女性の服を脱がすのは初めての経験だった。しばらくまごついていると、やがて滝沢が諦めたように唇を離し、自分でブラジャーを外し、スカートを脱ぎ始める。その間に佐々木も上下を脱ぎ、やがて二人は全裸体で向かい合って、再び口づけをしながらお互いの秘部を撫で始めた。
 それは彼らにとって、様々な事からの卒業を意味していた。いわゆる童貞、そして処女からの卒業はもちろんのこと、かつての図書館における二人のクリーンで尊い関係性からの卒業。自らを俗物として認め、背伸びを辞める為の卒業の儀式だった。
 佐々木は精液が尽きるまで彼女を求めたし、滝沢は最後まで彼を受け入れた。滝沢が痛みを堪えていると、佐々木がその頭を撫でた。二人の関係が、その「運命」の糸が少しだけ変わった音が、二人の荒い呼吸に紛れて部屋に響き渡った。
 全てが終わった後、佐々木は新曲を滝沢に聞かせた。
「すごく、いいと思う」
 滝沢は至極、表面的にその言葉を放った。それが嘘である事が誰の目にも分かるような、ひどく演技がかった言葉を吐いた。これが世間だ、たとえ自分には受け入れられなかったとしても、他人が良いと思っているものをとりあえず良いものだと言う。世間なんてこんなものだ。二人はようやくそれを受け入れ、世界を知った。


 ────いつか爆ぜなかった方の爆弾と、確かに爆ぜた方の爆弾。その結末について。

 佐々木結翔は生きながらにして怒れる男だった。目に映るもの全て、親も、友も、教師もご近所さんも、果ては鏡に映る己自身すらも憎み続けていた。だがそのうえで己が憎しみを拒み、その心の奥底に穏やかな幸福を求めて吠え続ける獣を飼っていた。獣の名はユイトという。とある偶然から世間の評価を得て、幼少からの卒業によってその評価を素直に受け入れられるようになった、とあるシンガーソングライターの名である。
 その日は彼の武道館ライブ当日だった。彼にとって最期の日。彼はこのライブの最後に爆死するつもりである。衣装には密かに小さな爆弾を一つ、忍ばせていた。スタッフに呼ばれるまま、ステージに向かう。会場には既に何千人の観客が押し寄せており、これから彼の音楽に沸き、その死に様を見届ける。そこに滝沢の姿もある事を考えて、「ユイト」は心の底から笑顔を浮かべた。
 ステージに上がる。どよめく歓声。ユイトの声一つ一つに、一挙手一投足に、歓声が上がる。ユイトは初めての感覚を覚えていた。自分が世間に評価されている! 皆が自分を認めている! そして自分はその仮初であろうくだらない評価に、実に素直に応えられている! 彼は初めて自分が、世間のものどもと同じ場所に立てていた気がした。実際にはステージと観客席、全く違う場所にいるというのに。彼はこれまでにない一体感を感じていた。まさに人生の絶頂。さあ、今だ。終わるなら今しかない。ユイトは振付に合わせて胸ポケットに忍ばせたスイッチを押した。突如として飛び散るトップアーティスト! どよめく歓声が悲鳴に変わり、かの男の最期の作品は、その衝撃の死に様と共に世に語り継がれ────────。

 ────────約三時間ものステージを終え、「ユイト」は楽屋に一人佇む。衣装を脱いで取り付けた爆弾を確認すると、そこにはぬいぐるみが付いてあった。資格も持たぬ素人が一から爆弾製作なんて、出来るわけがない。佐々木は爆弾なんて作っちゃいなかった。全て彼の願望が生み出した幻だった。
「なんだよ……」
 ユイトは深く、落胆の色を見せる。もう絶頂は過ぎ去ってしまった。ならば、これからはどうすればいい。また怒りの発露を待って、怯えながら発散する日々か? だが、もう自分は世界というものを知って、受け入れてしまった。もはや怒りも湧いてこない。ユイトは遂に、人生の指針を失ってしまった。
 突然、喉が焼ける感覚。床一面が血に染まる。佐々木はずっと本能で理解していた。自分の死に場所はここしかありえない。身体がその願いに応えてくれたのか、はたまた単に時限が来ただけか。
 何にせよ好都合。後は見せ場だけ。ユイトは吐いた血を手に塗りたくり、壁にめいっぱい塗りつけながら楽屋を出た。

 道ゆくスタッフ、AD、その他職員が驚き慌てて、ユイトを抑える。しかし彼は止まらない。火事場の馬鹿力とでも言うのか、意志のみでスタッフたちをはねのけ従業員入り口から外に出る。
 外にはライブを終え家路につく観客たちが群れを成していた。ユイトはそのうちの一人に血まみれの手をべったりと付ける。耳を劈く悲鳴。しかし彼は止まらない。
 また一人、自身の血を塗りたくる。口から吐血する。
 また一人、血を浴びせかける。口から〝インク〟を補充する。
 今度は、入り口のガラスに腕を振って塗り付ける。
 しかしここで限界が来た。ユイトは力なく武道館の入り口前に倒れる。そこに一人の女性が駆け寄った。
「やあ……たきざわさん……」
「……うん」
「俺は……ちゃんと爆ぜたよ……ちゃんと受け入れた上で……終わらせたんだ……」
「…………うん」
 ユイトの声はやがて呼気を多く含むようになる。彼の終わりが近づく。
「……佐々木くん。世界ってなんだと思う?」
 滝沢がユイトの身体を抱きかかえながら問う。しかしすぐに救急隊が到着し、滝沢は引き剝がされてしまう。故に佐々木の答えは届かなかった。

 あの時分かった気がするよ。
 世界とは己だ。
 俺はずっと、俺自身を認められずに怒ってたんだ。
 それが分かったとき、人は死ぬように出来てるんだと思う。

 佐々木はそこまで呟いて、
 ユイトは静かに目を閉じた。

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