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子どもの頃思い描いていた大人になるための一歩を踏み出すとき

自己紹介

はじめまして。
幼い頃に抱いていた自身の夢を実現するために、留学と留年を決意した大学3年生です。

私の中で大きな決断をしたので、この記事に文字で書き起こしてみようと思います。

私はどこにでもいるような平凡な大学生です。
といっても周りから見れば少し恵まれた環境に身を置いてきたということは自覚しています。

「自分を変えたい」

そのような思いを常に抱えてきた私が、挑戦の一歩を新たに踏み出した経緯をここ綴ります。

私の根幹にある小学生の頃の海外生活

私の故郷は太平洋沿いのとある田舎町にあります。
幼い頃は、自然に囲まれて育ちました。
両親が共働きということもあり、祖父母と一緒に暮らす3世帯住宅で、保育所にも1歳になる頃には預けられていました。

そして、小学生の頃に3年間だけ海外に在住していた経験があります。
父親が外国の日本人学校に派遣されるとのことで、家族全員でついて行きました。

場所はアラブ首長国連邦(UAE)です。
当時から「石油王」の国と言われていましたが、石油王だけでなく、日本屈指のビジネスパーソンや国のトップが集まっており、日々かっこいい大人たちに囲まれながら暮らしていました。
今考えると恐ろしいですが、クラスメイトの親は全員商社勤め、私の大親友の父親は三菱商事の課長、また別の友人は大使館職員であったりということが頻繁にありました。

今振り返ると、その頃から、漠然と将来は海外で働きたいと思うようになっていました。

しかし、小学6年生の頃日本に帰国した私に待っていたのは厳しい現実でした。

私が通っていた日本人学校は、1クラス5人から10人ほどの少人数学級であり、授業スタイルも先生や児童生徒たちの会話が飛び交うなど、海外の学校と似通うところがありました。

私はすっかり海外の授業スタイルや価値観が身についていて、そのまま日本に帰国することになります。

私の場合は、海外とは言うものの日本人学校ではあったので、多くの帰国子女の方々が感じているほどのショックはなかったと思います。

しかし、私にとって、日本の授業スタイルや友人関係は苦痛でした。

授業中に手を挙げたら後ろ指を指される、みたいなことが本当に理解し難かったです。
加えて、私の地元は周りは田んぼと畑しかなく最寄りのセブンイレブンまで歩いて40分かかるというまさに「ど田舎」ということもあり、どういったカルチャーは特に強かったと思います。

私はカルチャーショックから不登校気味になっていき、気づけばほとんど笑うことも口を聞くこともない内向的すぎる子どもに変わってしまったのです。

当時のことをいまだに母親から聞きますが、本当にいついかなる時も笑顔を見せなかったとのことです。

母親の勧めで県外の中学を受験し、地元から離れることができるようになりました。

そして、この学校で少しずつ、昔の私の夢を思い出すようになります。

ただ、海外で働くことに対するイメージは漠然としたままでした。

目の前の出来事に埋もれて見えなくなってしまった私の夢

個人的には密度の濃い中高校時代を送ったと思ってます。
部活は5年間音楽部という名のいわゆる吹奏楽部に所属し、最後の1年間は部長を務めました。

5年間、毎日ほぼ休みなく楽器に触れてきて、音楽の楽しさだけでなく苦しさや難しさにも直面してきました。
同時に、先輩後輩関係や挨拶や礼儀といった、社会の基本的なルールもこの部活を通して学んできました。

部活動以外にも、勉強や学校行事の運営にも力を入れており、最終的には国立の大学に合格できました。

高校卒業の時期が近づいてくると、大学の4年間で、将来の夢を見つけてやると意気込みが高まっていました。
当時私が書いた「合格体験記」には、18歳の私の夢と希望が垣間見えます。

そこには、高校時代に果たせなかった「留学」を必ず達成して、将来自分が就きたい職業を見つけ出したい、と書かれています。


しかし、待っていたのはコロナ禍による先行きの不透明な大学生活

想像以上に長い期間コロナの流行が続き、「海外」というワードも忘れるほどになっていました。

初っ端から諦めモードに突入し、将来について不安を抱くことをやめ、開き直って日々を楽しく過ごしていました。


受験が終わったら見ようと決めていたキングダムやエヴァンゲリオンなどのアニメを全話観ました。
積極的にzoomで同じ大学の人たちと繋がり、2人で旅行に行く仲の友だちもできました。
恋愛もしました。
サークルも入って3年生の頃には会長を務めました。
バイトも2つ掛け持ちしてお金を貯め、金沢や大阪、福島や米沢等、色んなところに旅行に行きました。
大学の勉強も怠らず、成績もGPA3.8前後を常にキープしました。
大学2年生の頃には夏休みにオンライン留学もしました。
持て余すほどの時間を使って大学の図書館で本を沢山読みました。

と、こんな感じで大学生活を送っていました。

本格的に将来のことを意識し始めたのは2年生の中頃です。

大学生活で力を入れたことが学業と塾講のバイトしかないと後悔をいだきながら、焦ってボランティアや長期インターンシップに手を出し始めます。

これと同時期にダメ元で交換留学にも申し込みました。

就活には苦戦しましたが、意外にもサマーインターンシップの選考を突破できてしまいました。
それも「難関」と巷で言われているような類のものです。

ただ、いざインターンシップに参加してみると、優秀な学生の方々に打ちのめされることが増え、自身の課題が明らかになりました。

コンサルを中心に受けていたこともあり、頭の使い方、パワポの使い方やプレゼン技術など、他の学生の方々の足元にも及びませんでした。

面接を受けるにあたって自己分析も少ししていましたが、相手が求める答えに自分の経験を重ねるくらいのことしかできていませんでした。

自分のことを理解しようとしてあげられなかったのです。

ちょうどその時期に、中国の大学への交換留学採用の通知が私に届きます。

目の前の利益か、それとも、、、

正直留学はダメもとでした。
なぜなら、留学希望先が中国で、申し込んだ時期はまだビザの発給が再開されていなかったからです。

なので、オンライン留学になるだろうなと諦め、就活をそのまま進めていました。
なんとか内定が年内に出て、気楽に学生生活を終えられそう、そう思っていました。

しかし、ほっとしているのもつかの間、
中国へのビザの発給が再開されます。

いよいよ現地への渡航が現実味を帯びることになります。

中国へ渡航するということは留年が確定します。


4年生で留学するというのは前例がないようで、卒業に必須の単位をどうしても取ることができなくなるからです。

散々悩みました。


なぜなら、私は中学高校大学と「普通に」進学したため、レールから外れたことがなかったからです。

そんな人間にとって、内定を辞退してまで留学すると言うのはかなりのハードルでした。

沢山の人とお話しました。

相談することが苦手な私が色んな人に悩みを打ち明けに足を運びました。

多くの書籍を読みあさりました。

毎日のように、留学を取り消して就職と教職をとるか、それとも1年遅らせて就活をもう一度やるか考える日が続きました。

私は「唯一無二の教師」になりたい

最終的に、私は中国への留学、そして生まれて初めての留年を決意しました。

この決断に至れたのは、とあるNPO法人でのボランティアとインターンの経験がとても大きいです。

私は就活にも力を入れていた一方で、3年生の1年間はNPO法人での活動にも力を入れていました。

この活動を通して、自分の得意なことや苦手なこと、やりたいことや実現したい未来像など、たくさんのことに気づくことができました。
また、夢に向かって前進するたくさんの素敵な人たちにも出会うことができました。

ここでの経験を通して、私の中である一つの目標が明確になります。

それは、社会から必要とされる唯一無二のかっこいい教師になることです。

「かっこいい」といのは、私の主観とはなってしまいますが、
子供の頃、私が憧れたような、あの「かっこいい」大人たちです。

「教師」という職業に至った経緯はまた別の記事でまとめたいと思っていて、加えて「教師」という表現が適切かどうか私にもわかりません。

しかし、

私のように苦しい思いをする子どもを救いたい

自分が好きなことを他の人にも好きになってもらいたい

意義のある仕事をしたい

自分が得意なことを仕事にしたい

そういう思いがあるため、
いまは「教師」という言葉を使ってみます。

決意を固めたなら、あとは行動するのみ

もう引き返せないところにきました。
ようやく、私は自分の道の一歩を踏み出せたのかと思います。

ここからは行動するのみです。
なので、目的を明確にしておきたいと思います。

1つ目は、生きた英語と中国語を身につけることです。

私は幸いにも、コロナ禍の大学1,2年生の頃に中国語を少し勉強していたため、基礎は身についています。
HSKはほぼ独学で4級を取りました。
英語も嫌いなわけではなく、TOEICは800点あります。

しかし、肝心の会話がほとんどできません。
これは私の昔からのコンプレックスでもあります。

オンライン留学や独学もやってみましたが、継続することができませんでした。

そのため、半年間で外国語を用いたコミュニケーション力を絶対に身につけたいと思います。
自分の武器にしていく予定です。

2つ目は、中国でボランティア活動をするということです。

私は、学習支援と居場所支援のボランティアをしたり、塾のアルバイトをしたりして、自分が生徒と一緒に学んでいくことが好きだということに気づくことができました。
中国ではアルバイトができないため、ボランティア活動を通して自分の「好き」を磨いたり新たな「好き」を発見したいです。

3つ目は、忍耐力をつけることです。

私は面倒なことが嫌いなようで、何もかもに効率の良さを求めて生きてきました。
うまくいかない事があると逃げ出し、そつなくこなしている感を出してきました。

なので、これと言って挫折したことがありません。

逃げ出すことは、人間に備わった一種の防衛本能であるため、しょうがないようにも思います。
また、私は無駄を嫌うため、「失敗」をものすごく恐れています。

しかし同時に、高校時代の部活動など、失敗から大きな教訓を得たという経験もあります。
失敗は、決して無駄なこととはないはずです。
ただ、「慣れてない」だけだと思います。

留学先は、沢山の外国人留学生が集まっています。
トライアンドエラーのチャンスはいくらでも転がってると思います。
コミュニケーションを積極的にとって、たくさん挫折して、忍耐力をつけたいです。

意気込み

この春、私は自分にとっての大きな挑戦をしようとしています。

一番の大敵は誘惑です。
おそらく、新入生や留学生向けのイベントやサークルがたくさんあるかと思います。

しかし、1年の留年は重いものです。

自分の軸からブレず、
しなやかかつまっすぐで強い芯を
内面に備えたいです。

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