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足を滑らせて転んでも、歩き出せるような人でいられますように
街路の銀杏が散り草木に積もりアスファルトを彩らせた
花が散る様に値段を付けた人間って何なのだろうと思う時がある。まるで死に値をつけているみたいだった。散り際こそ美しいならば、咲く前の姿は美しくはないのか。
未熟な子供が歩く様に目を向けて自己投影するくせに、成熟し年老いた人間の死にざまからは目を逸らすのか。花は逆だというのに。
そんな事を、外を歩いている時に思った。
街路にずっと植わっていたのは銀杏だったらしい。薄い、カスタードクリームのような黄色がハートみたいな葉を落としていた。銀杏の葉は油分が多いから濡れると滑りやすくなるらしい。車がスリップする事もあるようだ。
君はドジなので転ばないように。母が言った言葉に「てめぇ!強い言葉が出るぞ!!てめぇ!!」と返したのは記憶に新しい。いつまでもばぶちゃん扱いするな。
10年以上前、紅葉は10月、11月の風物詩だった憶えがあった。しかし温暖化の影響か、年々見ごろがずれ込んでる気がする。子供の頃、貴方の生まれた季節は紅葉が綺麗なの。そう言われた時間はとうに過ぎ去った。
指先から、髪のひと房から、靴の隙間に冬の匂いがした。鼻から透明な液体が出た。足先がずっと冷たいままだ。ただでさえ太い左手の小指が肥大化した。
この土地に、オリオン座は輝かない。
それでいいと思うのは、私が見た景色を忘れたくないためか。それとも見たら足を止めてしまうからだろうか。どちらにせよ、月と星は私の足を止めさせるには充分過ぎる魅力を持っていた。
特に、真昼の月が。
いつの間にか、引っ越してきて半年が経過した。あっという間に過ぎ去った時間の中、私は何かを残せただろうかと考える。別に何も残してない。ただ生活スキルが上がって、自分が存外綺麗好きだった事に気づいたくらいである。
この土地に真昼の月は見つからない。きっとどこかにいるのだろうけれど、建物が道路が人が、月を隠していた。それに気づく度、15の頃思い描いた空想とは随分変わったなと思う日々である。
十代の頃、東京で一人暮らしをしたかった。
早く家を出て、独り立ちして、東京という街で一人自由に生きたかった。仕事をして、友達と遊んで、飲みに行ったり、出かけたり。キラキラした生活を送れると思っていた。
しかし、現実はどうだ。
キラキラとはかけ離れた性格だと気づいていたくせに誰かにいい意味で指を差されたかった自信の無い、幼く愛に飢えていた小さな獣は消えた。がおとも鳴けないままどこかで縮こまり、獣でいる事を止めた。けだものになれたら多分、あの頃の願いは叶えられただろう。
今はただ、子供の頃から変わらず沢山寝て、窓の外から見た世界が縮んだ事に溜息を吐きながら、落ちる葉に空想を抱き真昼の月を探すため職場の階段、踊り場の大きな窓を一瞥する度に足を止めかけている。
幸せは、キラキラから得られるわけではないと知った。
キラキラした生活から得られる幸福は一瞬だと知った。それなりに歩いてきて、経験して、見てきて、少ないながらも思考した結果だった。
インスタグラムの煌びやかな生活は日常の一部を切り取っただけに過ぎない。
お洒落な人間が日々お洒落な生活をしているわけではない。あれはウインドウショッピングと同じようなものである。ところで今言葉が出てこなくて、ウォッチショッピングと書きかけた。時間をはかってどうする。
毎日お弁当の画像を誰かがあげていたとして。綺麗で丁寧なそれが本当に毎日作っているのかは本人しか分からない。お洒落な私服を上げていたとして。中に着ているインナーが、もしかすると昨日と同じかもしれない。
余談だけどインナーはちゃんと変えた方がいい。肌荒れるから。
綺麗な一部分だけを切り取ったそれを見て、妬み嫉み、自分への自信がどんどん消えていく。誰かはこんなにも幸せそうな生活をしているのに自分はどうしてこんなにもみすぼらしいのだろうと。一部分だけ綺麗に見せるなら誰でも出来るはずだ。
だから嫌になったら見なければいいし、他人の幸せと自分の幸せは違う。ブランド物に囲まれて幸せを感じる人もいれば、自然に囲まれた生活を幸せと思う人もいるし、小さな部屋でゲームしているのが幸せだと思う人もいる。
結局、人間なんてそんなものだと何度だって思う。
高頻度で自信を喪失する病にかかっているのだが、ある時読んだ文章にこう書かれていた。
作家は売れる事で幸せになるというのを諦めないと、心が折れてしまう。
それを見た時、ハッとした。確かにな、だからゴッホはイカれてしまったんだ。
書くというのは生きる事に繋がる。生きるというのは必然的にお金がかかる。一銭もかからず一日を生き抜く人間なんてどこにもいない。例えホームレスでも、何かしらの形で金銭のやり取りにかかるだろう。
そうすると、書くための時間を生み出すためにお金を稼がなければならない。お金を稼ぐには時間と労力が必要である。金銭を得た時、時間はいつの間にか消えている。だから書く事でお金を生み出すのが一番いい答えと辿り着く。けれどそこに本当の意味で辿り着ける人は少ない。
出しても出しても脚光を浴びない深海に、それでも止められない苦しさ、一縷の希望を握り締める事、金銭を得るため時間と労力をまた売って心を殺していく。
そうして生まれた負のサイクルが一つの最適解を叶えられない時、我々作り手側の心が死ぬのだと気づいた。
何でこんな単純な事に気づかなかったのだろう。私は目から鱗が落ちる気分だった。そしたら、もう何だか全部が笑えてきて。じゃあもういいじゃんって。好きに書いちゃおうって。遠慮も自信喪失もごめんなさいと思う心も、もう全部捨てちゃおうぜと思ったのだ。
これ以上何を考えても、世界が変わるわけじゃないから。
悔しさはきっと生涯消えないだろう。苦しみも晴れる事はない。でもどんなに自分を責めてごめんなさいと口にし、自信を喪失して首を絞めた所で世界は変わらない。地球は相変わらず回り続ける。死は一歩ずつ歩みを進める。時間は待ってはくれない。
この地獄みたいな現実にクモの糸は垂れてこない。
待っていても救いなんてやって来ないと知っていたくせに、折れては甘えて誰かに縋る事を望んだ。パンクしそうになった時、叫んでちょっと暴れて、涙しても大丈夫だと思わせてくれる人がいてくれればと、いないくせにそう思った。毎回思うけど、私は多分、一人だったらすぐに死ぬんだろう。色んな意味で。
だからいつか、そう遠くない未来で、誰かがいてくれる事を願っている。多分、一人が好きなくせに一人では生きられないタイプだから。希望を捨ててしまうから。現実に息をしないよう目を背けるから。そうさせないように、依存でも執着でもなく、たまに肩を預けられる人がすぐ近くにいてくれる事を願う。友人でも、何でも。
話を戻そう。
縋っても何も、誰もいないのであれば。
自分で立つしかないのだ。
信じても報われないのであれば。
奮い立たせて歩くしかないのだ。
クモの糸が垂れてこないのであれば。
自分が垂らして自分を救うしかないのだ。
強い人間なんてこの世界のどこにもいないと個人的に思っている。君は強いから一人でも大丈夫だねと笑えるのは、言えるのは、相手の事を何も知らず尊敬すらしていない自分本位の言葉だ。
皆何かしらで躓いて、苦しんで生きているだけだ。その中で強いフリが上手な人が一握りいるだけだ。理解出来ず馬鹿みたいな発言をする馬鹿がいるだけだ。ごめんちょっと口悪かった。
きっと、君は気づかない間に誰かに愛されて大事にされているのだろう。
それに気づくのに、長い時間をかけて、時には手遅れになってから気づくのだろう。
僕らはそういう生き物だから、どれだけ息が出来る人が隣に居たとしても当たり前を享受して気づかないまま、離れて初めて気づくのだ。
何となく。昔の事を思い出した。
短い短い時間の思い出だ。脚色され随分前の話になり、脆くて儚い物語に成り下がった記憶の話。
いつかこの物語が多くの人の手に届く時、私はきっと他の誰かと生きていく選択をしているだろう。今を、この先を生きるにあたり、降り注ぐ幸せを共有するための相手が、かけがえのない人が出来たその時。
初めて私はそれを形にして、ありがとうと感謝の言葉を口に出来るのだろう。
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