初恋は500mlのペットボトルに詰め込んだ蒼色の空気だ
思い出はいつも蒼色だ。
蒼と青の違いは色だと思う。青のイメージは海の色だ。足がつかなくなった深さの、晴れた午後四時過ぎの澄み渡った青。天の川に流れる水。青。
蒼は空に近いような色。薄い水色、けれど影が混じり儚さを抱いている。例えるなら、そう。
電気のついていない晴れた午後の教室。
忘れられない事が沢山あって。それが増える度歳を取ったと感じる。懐かしい友人と話をすると永遠に語れるような。そんな思い出が増えていく。その中に後悔と青春が同梱した。
ガラス瓶の中に詰め込んだ思い出と言えたなら美しかっただろうか。生憎綺麗な箱は持っていない。あの頃の自分が手にしていたのはもう廃盤になった炭酸飲料のペットボトル500mlだ。
500ml分の記憶は本来のピンク色の液体ではなく、蒼色に澄み切っている。
味はきっとグリーンダカラかな。当時の私が飲んでいた二代巨頭である。
グラウンドに続く前の渡り廊下に置かれていた自動販売機に売っていたピンク色のマッチはエナジードリンクの味が嫌いな私にとって革命的であった。
エナジードリンクの独特な匂いが好きじゃない。瓶のオロナミンCを差し入れで貰った時、何度友人に渡しただろうか。飲めないわけではないけれど、好んで飲みたいとは思わない。それは今も変わらない。
ピンク色のマッチは、ピンクグレープフルーツの味がした。微炭酸は初夏の火照った身体を冷まし、鼻から抜けていく匂いは世界を少し明るくさせた。
忘れられない思い出が詰まった世界で、きっと何年経っても、歳を取り、誰かと結ばれ、財を成し、夢を叶え、望んだ未来を手にしたとして。
それでも消えてくれない思い出があった。
恋とは何だろう。どんな味がするのだろう。どんな匂いでどんな風に心臓を動かすのだろう。きっと今、この文章を読んだ全員が全員、違うものを思い浮かべるだろう。
結論から言うと、恋に正解はないのだ。
どんな味がしようが、どんな匂いがしようが、どんな風に心臓が動こうが。
ファーストキスはレモンの味だと言った誰かは恐らく、自分の経験で物事を語ったのだろうな。自分か相手が、レモン味の飴でも舐めていたのだろう。
おかげさまでファーストキスレモンの味理論は深く認知される事となり、度々議題にあがるほどだ。
でも恋の味がメビウスの煙草の味である人もいるし、二人で食べていたニンニクマシマシラーメンの匂いでもあり、一瞬のときめきで終わった想いだってある。
本当に人それぞれなのだ。要は自分がその時何をしていたか。
別れる男に一つだけ花の名前を教えなさい。その花は毎年必ず咲くから。と説いた人に自分なりの考えを口にするのなら。
言葉より匂いの方がいい。
言葉は更新されていく。脳のリソースは決まっておりいらなくなった思い出から消し去っていく。知らぬ間に思い出せなくなって、いつか完全に消える。言葉は憶えているようで忘れやすいから。
もっと、感覚に働きかけるものがいい。指先に感じた熱や風、草木の匂い、香水の匂いで相手を思い出す効果は有効的である。どうしても忘れられない人になりたいなら、その人と会う度同じ香水をつけておくべきだ。
そしたら別れた後に相手が街中で自分じゃない誰かがつけた同じ香水の匂いを嗅ぎ、懐かしさに胸を締め付けてくれるはずだから。
なんて言ってるけど、新しい思い出が増えない限り一番強いのは季節だと思う。
一瞬で明けた梅雨、会社の階段を一段降りる毎に蒸し暑い空気がせりあがってきた。こもった日本の夏、暑いけれどまだ耐えられそうな温度。遠くになりかけの入道雲が浮いていた。
私は、あの一瞬を思い出した。
私にとって一番の恋は空気のようだった。蒼色の透き通った空気。隣にいて酷く胸を高鳴らせ、期待し自分を良く見せようとするような、着飾ったものでもなんでもなく。
当たり前に傍にいてくれて等身大のまま関わる事が出来たから、その大きさに気づけなかった。苦しい時間が積もる中、何故か、友人よりも誰よりも、隣にいると息が出来る恋だった。
同じ酸素を吸って違う二酸化炭素を吐いていた。それでも二酸化炭素が君に吸われ、再び同じ酸素を吸っていたような。
更新されない一番。
業務用エアコンが嫌いだった。これは未だに苦手なのだけれど、私は結構な寒がりだ。春先に近づいても厚めのカーディガンを羽織り、夏場は一枚羽織物がないと無理、秋冬に関しては人よりも早めに装備を固める。
高校の業務用エアコンはクラスごとに調整が出来なかった。大元の機械で温度と風量が決められ、ボタンを押すと設定のまま出てきた。
私は何故か、何度席替えをしてもエアコン直当たりの席だった。恐らく教室内で一番寒がりと言っても過言ではなかったのに、いつだって冷房は私の上から降り注いだ。おかげさまで夏場でも長袖のカーディガンが手放せない生活が続いていた。
エアコンで死にそうだから、熱い人間よ席を変わってくれ。何度願った事だろう。しかし、それは叶う事無く抵抗虚しく夏場の私はいつも震えていた。
最悪だったのが体育の後だ。
暑がりの男子生徒たちがエアコンをつけ冷房が頭のアホ毛が揺れるほど降り注ぐ。ぴいぃーと言葉にならぬ叫びを発しながら縮こまる私一人の意見を気に留める人間などいない。友人たちが哀れみを込めた目でこちらを見るくらいだ。
でも、三年生の私は言うほど叫んでいなかった。
それもこれも、全部君のせいだ。
始まりはどこだったのかは分からないが、最後の年関わった事のない男子生徒と仲良くなった。私にとって第一印象は顔がいいから近づきたくない人間ベストナンバー1だった。(当時から異性絡みのごたごたに巻き込まれやすかったので、自衛のため陽キャには近づかないようにしていた)
しかし一体何故そうなったのかは分からないが君と私は仲良くなった。そして夏場の体育後、寒いと言い出す私の前に現れ必ずこうするのだ。
「俺寒くないから」
ぶっきらぼうに机の上に投げられた紺色のカーディガンはご家族の趣味なのか、お高い柔軟剤の匂いがした。
「大丈夫だよ」
「大丈夫な人間の顔かよ」
鼻で笑いながら私の眉間を差した君に何も言い返せなかった。汗をどれだけ拭き取っていたとしても寒い物は寒いのだ。エネルギーを使いたくなくて眉根を寄せ寒さに耐えていた姿を、君はいつも笑っていた。
何度も繰り返された事だが、それでも受け取る時は躊躇うものだ。大体膝にかけるかダブルカーディガンをするか(上からさらにカーディガンを被る事)なのだが、いつも洗いもせず返すから。それでいいと言うけれど、申し訳ない事には変わりない。
「俺暑いから」
それだけ言って自分の席に戻った君の背中を眺めながら溜息が零れた。今日も負けた。施しを受けすぎていると思っていた当時の私。今思い返せば、いやそれ好きだったんだよとツッコめるが、あの頃の私は色んな事に余裕がなかった。自信もなくて誰でも気づける事が気づけなかった。
まあ貸してくれたんだし、自分のカーディガンの上からそれを被った。身長はたいして変わらなかったのに、君のカーディガンは何故か大きかった。それでも君が着ているとぴったりに見えたから、違いに気づかされた。
これはつい先日友人から教えられた話だが、カーディガンを借りるだけでは飽き足らず何故かカーディガンを交換していたそうだ。全く覚えがないが、友人は近づくといつもの私の家の匂いじゃないと気づき、視線の先で交換した相手が分かったそうだ。とりあえず友人の嗅覚が怖い。
そんな日々の中、ある初夏を思い出す。
午後の体育後の授業、珍しくエアコンがついていなかった。恐らくまだ解禁されていなかったのだろう。窓が開けられカーテンが靡き、誰かがふざけて持ってきた風鈴が風に吹かれ音を鳴らしていた。
ベランダの向こう側、まるで水平線のように何もない真っ青な空には入道雲になりきれなかった雲が浮かんでいる。
国語か歴史の授業だったのだろう、いつもとは違い快適な教室内の電気は消されていた。いつもより少しだけ暗い室内は疲れた身体を休ませるにはちょうどいい。半数以上が机に伏し睡魔に飲まれた世界で真っ白なチョークが緑の板を汚していく。
カーディガンを着ず、シャツを腕まくりし七分袖にした私は開いたノートをそのままに窓の外を眺めていた。
いい天気だ。
部活も引退し放課後の予定は何もない。この授業が終われば帰るだけ。外に出たら暑いと言うかもしれない。けれど、この小さな箱庭から見る外は酷く美しかったのだ。
電気が消された午後の室内が好きだった。蒼と灰が混じる世界が、私にとって一番美しい色彩だった。思い出はいつも、蒼と灰色だ。数年前に付き合っていた恋人の家に行った時の色彩もそうだった。あの日は天気が悪くて、もっと濃い灰色だったけれど。
でも、今日みたいな明るい灰色と蒼が混じり合う方が好き。何だか上機嫌な私は頬杖をつく。すると視線を感じた。
不意にそちらを見ると君がこっちを見ていた。
珍しくネクタイを緩めノートを扇ぎ風を得ている。そのノートは今書き込むものではないのか。もっとも、私も開いたままにしているだけなので人の事は言えない。
目が合った君は私と同じように頬杖をつきにんまりと口角を上げた。皆が伏せているから、いつもより君の表情が良く見えた。
君が口を開き声も出さず何かを伝えてきた。
『前見ろ』
多分合ってると思う。言い終わった後黒板を指差したから。
『そっちこそ』
私はわざとらしく口を大きく動かした。君は再び口を動かす。
『教科書見ろ』
『ノート取れ』
『それはお前もだろ』
『確かに』
面白くなって笑ってしまった私を、君は満足そうに見ていた。次に君が何かを伝えようとしたが文章が長く分からなかった。首を傾げるとまた、楽しそうに笑うから分からなくてもいいかななんて思い黒板を指差した。
その瞬間だった。
「ほら起きろー」
突然振り返った教師に私は思わず差していた指を反対の手で包み込んだ。幸い教師の視線は寝ていた生徒たちに集中したためこちらを見る事はなかったが、心臓は大きく音を鳴らしていた。
再び黒板を向いた教師に安堵の溜息が漏れた。君を見ると必死に声を抑え笑いを堪えていた。私がなに?と聞けば、さっきの顔が面白かったと口パクで返ってくる。
多分、やべぇ!と表情に出ていたのだろう。
ずっと笑っている君に私は頬を膨らませて睨みを利かせた。でも心は穏やかで、くすっと口のすき間から息が漏れた。
思い出はいつも蒼色で、あの日の私たちを閉じ込めている。
もう戻れない日々に、更新されない想いに、見る事すら出来ない姿に、恋焦がれる事はない。だって戻ってしまえば、私は選択を間違えない。どれだけ続くかは分からないが、君とのハッピーエンドを手にしたはずだ。
けれど、もしこの物語がハッピーエンドで終わっていたなら私は優衣羽にならなかった。文章を書く事も、表に出る事もないまま、有り触れた幸せを手にし当たり前の日常が当たり前のまま続くと信じていただろう。
でもハッピーエンドじゃなかったから私は優衣羽になって、文章を書き、表に出て、有り触れた幸せから離れ、当たり前の日常が一瞬で崩れ去る事を知った。
人生の分岐点、物語の始まりにはいつも君がいて弱虫で強がり、素直じゃない私に何も言わず隣で酸素を吸っている。不器用な口調で話し続けている私を眺めながら微笑んでいる。
隣り合わせで座り、片膝を立て伸ばした腕に頭を乗せて、足を伸ばした私を見ている。辛い事があって言葉すら出ない私に背を預け、ただ隣にいる。
それだけが、残り続けている。
階段を降り切り自動ドアから外に出た。陽はまだ暮れず茜色はマジックアワーになる手前だった。イヤホンをつけ夏によく聞く曲を流す。スーパーに入り冷やし中華を買った。
電車に乗り、最寄り駅につき空を眺めた時。
恋が、消えない事に気づいた。
ハローハロー、どこにいるか分からない君へ。
元気でいますか。別に連絡を取りたいとか、もう一度会いたいとかも思わないけど。
憶えているかは分からないけど、君を傷つけた手前、平然とした顔で目の前に現れてあの頃みたいに話すなんて事しないけれど。
それでも君が、どこかで息をして誰かの酸素になり、誰よりも幸せでいて欲しいと思うのです。
願わくば私が優衣羽だと知らぬまま、思い出す事さえなく幸せな状態で歳を取り死んでほしいのです。
でも一つだけ。本当に今更ですが。
初恋が子供の頃の憧れをカウントしないのであれば。
多分、私にとって君が、初恋でした。
ずっと恋に恋していた私だから。ビビりで自分の気持ちを伝える事が得意ではない私だから。余裕がなくて周りを見れなかった私だから。ずっと、気づけなかったけど。
いなくなって365を書き終えて。一年以上経ってようやく、君が好きだと言えました。
もう、届く事も、届けるつもりもありませんが。
蒼色の空気を詰め込んだ500ml分の透き通った恋心です。
開けたら霧散してしまうような、消える想いです。
世界が灰色になったとしても。
この封を開けない限り。
いつまでもきっと、蒼だけは残り続けます。
あれから何度か恋をして、ろくでもない人にも出会って、違う形で傷ついて二度と会いたくないとも思ったりしましたが。
それでも、君を更新する人がいません。
叶わなかったから美しいのか、叶っていたらここまでではなかったのかは分かりません。
でも私にとって君との一年にも満たない時間が、その先の人生を大きく変えたから。
感謝は違うし謝罪もまたすっきりしないけど。
思い出を抱いて生きていくので。いつか、更新してくれる人が現れても。君との時間を生きた私ごと、受け入れてくれる人と出会えるまで。
どうかもう少しだけ、思い出させてね。
いいなと思ったら応援しよう!
