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多分この言葉も、誰かのレプリカになるかもしれないが
レプリカみたいな
人生が言葉や立ち振る舞いに出ると言う。子供の頃、半信半疑でその言葉を聞いていた。大きくなるにつれ、テレビの中に映る人、周囲にいる大人の顔に少しずつ違いを知った。
いつも怒っている人は眉間に皺が寄っていて、よく笑う人は笑い皺がある。表情が豊かな人は上を向いている事が多く、無表情の人は前か下を向いている。博識の人の話すスピードは速く、無知の人の話は繋ぎ言葉ばかりだ。
自信がある人は背筋が伸び、後ろめたい事がある人はいつも周囲を気にしている。正義感だけで生きている人はまっすぐ前を向いているけれど自身の罪に気付かず、反対にあくどい人は笑みの中に何かを隠している。
人生が、姿形に現れるのは20代あたりからと誰かが言った。もっと言えば30代。面白い人の顔は面白くなる。悲観な人の顔はいつだって悲しみに溢れている。生き様は顔に出る。立ち振る舞い、言葉に出る。
それを、大人になってよく感じるようになった。
始まりは20代前半に出来てしまった笑い皺だ。右目の下、伸びた一線に何故そこに皺が?と首を傾げたものだ。目尻に伸びた複数の線に、ああ、私笑いまくってると気づいた。
確かに、大人になればなるほど悲観な自分より楽しい自分でいようと思った。過去は変えられないのなら、今楽しいって言える状態であろうと思った。幸いにも元が面白かったので、起こす行動一つ一つに笑いが起きた。狙ったやった事もあるが、狙わなかったのも多々。
実家では自分の行動に一人ツボって笑い泣きする事もあったし誰かの腹筋を吊らせた事も多々ある。
皺を触りながら思う。ああ、この皺で良かったと。思い悩み怒るような眉間の皺でなくて良かった。今は薄くなったが父の眉間に皺がよく寄っていたのを憶えている。母の額に怒りの二重線が浮かんでいたのも。
今は姿を見せなくなった二人の皺を、よく憶えている。その時の状況が今に至るまで続いていたら、きっと怖い人になったはずだ。
一番最初に濃く刻まれた皺が笑い皺で良かった。眉間の皺じゃなく、額の怒りでも下がった眉でもなく、幸福を誘発させるようなもので良かった。きっとこの先も笑い続けるから。何の変哲もない日に一人でツボっているから。
思考はこれまで出会ったもので形作られる。
好きで見続けた作品、出会ってきた人、幼少期に形作られた価値観、概念。そういうものの繰り返しで今は形成されている。
ある本の中に書かれていた。
幼少期、人格を構成するに辺り自分に一番近しい所にいた大人が君の人格を作り上げた。その人たちの価値観や思考が君は当たり前だと思うように作られた。
これはその通りで、何も知らない子供時代に吸収する生き方は自分の身の回りにいる大人たちだ。とりわけ両親の影響は強いだろう。例えば毎日チョコレートを食べるのが当たり前だと育てられたら、おやつの時間、突然出てきたきなこ棒に不快感を表すだろう。場合によってはおかしいと糾弾するかもしれない。
無意識下で行われる、ある種の洗脳に近いと思う。教える側に悪気はなかったとして、良い所も悪い所も吸収してしまうのが子供の利点だ。
近頃、一人で生きるようになりよく思う。何者からも思考を強要されない場所で向き合う時間は確実に私の人生に新たな光を見せた。そして、いかに過去に引っ張られているかを知った。
例えば啓発本。本人は憶えていないだろうが、子供の頃父が啓発本なんて読むのは馬鹿だろと言った。母も同じように、そんなものに影響されるなと。しかしここ最近、kindleで啓発本を読んでいる。食わず嫌いをするのはよくないと思ったのだ。
誰かの意見で見ずに価値を決めるのは間違っていると、他の誰の思考でもない私だけの思考が話した。知らずに判断する方が馬鹿なんじゃないかと。これは結構な極論だけど、無知は恥であれ。
そんなこんなで読み始めた啓発本のいくつかは、思ったよりも面白かった。なるほどこんな考えがあるのか。こんな見方をする人もいるのか。あ、同じ事思ってた。他人の思考に触れる度、共通点を見つけ違いを知った。啓発本は面白い。ただ、それに影響されのめり込む事はないけれど。
次の一歩が上手く踏み出せない時、他の人ならどうするか。これまでの人生でずっと、先人たちの一歩を見なかった。だってこれは私だけの道で、どれだけ他の人を見たとて決めるのは自分だから。と、知らぬ間に洗脳にあっていたのかもしれない。
よく憶えているのは自分を使って表現する仕事がしたいと言った日の話だ。勿論大反対にあった。というか、私の生きてきた世界ではまともな企業で働き安定した収入、パートナーと結婚、有り触れた家庭像を築くのが正解だった。
だからこそリスクを取る道に一度も背を押された事はない。今だってそう、これは私の人生だと言い切り文句も何もかもおいて歩き始めたから止められなくなっただけで、実際背を押された日はない。
その時言われたのが、反対されたから意気消沈して辞めるくらいなら本気じゃないんだから無理、だ。
大人になった今思う。果たしてそれは正解だろうか?いや、正解なんてどこにもないんだろうな。これもある種の正解かもしれない。ただ、私の世界の正解ではないだけで。
幼少期に受けた反対は多くの人々の心を呪いのように縛る。どれだけ自分は変わったと思っても、過去は変えられない。戻って救ってあげればいいなんて出来ない。過去は過去だ。今も、一秒ずつ過ぎ去っていく。
本当に好きなら続けるはずだ。どうだろう、本当に好きでも続けられないかもしれない。近しい人たちからの拒絶は、思ったよりも心に来るから。もしかしたらそこに可能性があったかもしれないのに、ただ一言で終わらせてしまうのはどうだろう。まだ土から芽を出してもないのに掘り返して種を捨てるのだろうか。
そんな世界で育ったから、好きを体現するのが怖かった。子供の頃、どうせが口癖だった。何を言っても何を望んでも、望まれる未来に私の望んだ世界はない。歳を重ねる度好きを表に出せなくなったのは、反対が怖くて否定に足を止めてしまいそうだったからだ。
でも思うのは、それじゃあただのレプリカだって事。
僕らの人生は自分を形作って来た人々のレプリカになるためにある物じゃない。コピーを大量生産してどうする。ここがノアの箱舟なら繁殖力の高い個体を集め、ほら、繁殖しろ!大量生産じゃ!!って言うかもしれない。でも違う。
世界はまだ終わってない。明日終わるかもしれないけど、箱舟には乗れない。もし乗れる権利を得たとしても、いらないって言うだろう。
同じような人間になりたいのであれば、言う事だけを聞いていればいい。だれかが言う当たり前が自分の幸せだと思い続ければいい。それも、ある種の正解だと思う。現に、言われた通りの幸せを得た人は安定した幸福を得ている。
でも、それでいいのか?少なくとも私は違う。多くの人間がそっちの方が良いって言っても、私は捻くれているのでいいとは思えない。捻くれているので、ええ。
何が幸せかは自分で決めるべきだ。過去が変えられないのなら、今を変えていけばいい。幸いにも思考は変わっていく。自分の気持ち次第で世界は変わる。見方も変わる。
桜が散ったら新緑が芽生えるのを気づかない人生より気づく人生でありたい。散るのが花弁じゃなく木の葉になっても、風情を感じていたい。
思い出には底があるかもしれないけれど、幸福な物で埋め尽くしていたい。引き出しを開ける度、静かな風と木漏れ日が現れるような瞬間でありたい。
多分僕らは、レプリカかもしれない。何一つ影響を受けていない人間なんていない。元を正せば皆、レプリカかもしれない。アダムとイヴでさえ、神様が作ったレプリカかも。語り始めるときりがない。
でもレプリカだと思っていた僕らは生まれた瞬間からオリジナルの個体であることを忘れてはならない。DNA配列、日々の積み重ねは同じ場所で同じように生きてきても変わっていく。
オリジナルだからこそ、オリジナルなりに欲しい物は何かと言われた時、誰の意見に左右される事もなく高らかにあれが欲しいと言える存在でありたい。
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