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薔薇とあまおうのマティーニを週一で飲む生活でありたい
時間は待ってくれない事を悟る
当たり前だけど時間は過ぎる。一分一秒、文字を綴る瞬間でさえ全てが過去になる。未来には生きられない。いつだって世界は不確定だ。
それでも思い返す記憶があるのなら、懐かしみ共有した一瞬があるのなら、それはこれまで頑張って生きてきたからこそ訪れた今だと思う。
ホテルのバーで大学時代好きだったカクテルを久し振りに飲んだ。機会が無くなり飲まなくなって久しいそれを口にした時、あの頃を思い出した。
友人と様々なバーに渡り歩いた時間は確かに私にとっての財産となった。テキーラサンライズに使われるグレナデンシロップが、マックのバーベキューソース味にそっくりだと言い出した日から実に5年の時が経った。
久し振りに飲んだテキーラサンライズはやっぱり奥底にバーベキューソースがいた。それを、共有できる友人は今も変わらず隣にいる。住む場所が離れ環境も仕事も何もかも変わっても、やっぱり同じ時間を共有している。
当たり前に思える瞬間が、奇跡の連続で生み出されている事に最近よく気づく。
高校時代、毎朝一緒に通い三年間同じクラスで後ろの席の女の子がいた。彼女は真面目でしっかり者、融通が利かないタイプでもあってそれに何度か苛ついた事もあった。逆に彼女も私の適当さに苛ついた事もあっただろう。
それでも一番時間を共有した女の子だった。けれど今、彼女とは会っていない。卒業後、一度も会っていないのだ。あれだけ一緒にいたのに私は連絡を取ろうとはせず、向こうも同じだった。
専門学校に行ったから忙しいとか、大学生活を楽しんでいたからとか、そんなのはただの言い訳に過ぎない。あれほど時間を共有していながらも、それまでだったのだと思う。嫌いじゃない、むしろ好き。でも離れたって連絡を取り合い会うまでの熱量はお互いに無かった。
そう考えると、私は今、自分の周りに残っている片手で数えられる友人たちが奇跡の連続で生み出されたものだと思うのだ。
お世辞にも良い性格とは言い難い。適当だし仲良くなったら普通に遅刻するし(MAX20分以内)、相手に対し優しくするような人間でもない。むしろ思っている事を言ってしまうから、正論をぶちかます事も多々ある。ゲラゲラ笑ってるだけだし、私は私みたいな友人欲しくない。
余談だけど友達と出かける時は遅刻する事あるのにデートとかだと絶対遅刻しないのは何でだろうね。関係値の問題だね。つまり相手が許してくれるって分かった上で甘えてやってるんだろうね。良くないね。
話を戻そう。そんな自分に今でも一緒にいてくれる友人が存在するのが本当にありがたいと思ったのだ。今でも出会った頃を思い出して笑える人がいる事、他愛もない二人にしか分からない言葉がいつまで経っても面白い事。
それってとても幸せな事じゃないのかと、大人になって気づく。
四つ葉のクローバーの話をした。雨の日にスーパーに行って、傘を差しながら帰ってたら道端に四つ葉のクローバーが落ちてたんだ。ついそれを拾って持って帰って辞典の下に寝かせ押し花にしたんだ。
これだけ聞くと私の事をよく知らない人間は、何やってんだこいつと思うだろう。いい歳こいて四つ葉のクローバー見つけた!いぇい!押し花にしちゃおう!いくつだお前と感じるはずだ。誰かにとって四つ葉のクローバーはただの雑草になる。
けれどそこは私の友人、驚き笑い喜んだ。ラッキーだと笑みを浮かべダイソーにラミネートフィルムが売っていたはずだと調べ始めた。彼女はいつまでも私が子供みたいにくだらない事で喜ぶ事を知っていて、それを見て自分も同じように喜ぶ人間になった。
数年前、憧れのアイドルがいた。芸能界から引退しどこかで幸せに暮らしているであろう彼女は最後に、「人は必要な時、必要な人と出会う」と残した。
私はよく分からなかった。必要な時この声がどこにも届かず必要な人には会えなかったから。でも彼女と同じ歳になって気づく。
人は必要な時、必要な人に出会い、そしてその関係は続いていく。
これまで離れていった人たちが悪いわけでもない、残ったのが等身大の自分でいても何の気にも留めない人たちだっただけ。演じる必要もなく、誤魔化す必要もなく、ただありのままの四つ葉のクローバーを回しながらゲラゲラ笑いカクテルを飲みまくって人の大切さに気づく作家の私でいいと思ってくれる人が残った。
子供の頃、自分には何もないと思っていた。私の人生はこの先真っ暗でずっと深海の中を灯りさえない状態でふらつき浮上なんて出来るわけがないと、本気でそう思っていた。そう、思うように言葉がのしかかっていた。
何者にもなれないと思っていたし何かを残す事さえ出来ないと、幸福の全ては兄の手にあり指の隙間から零れた欠片でさえ私は掴めないのだと、ずっとずっと呪いみたいに思っていた。
でも生きていると気づく。何もなかったと思っていた人生は時間をかけて小さくても一つ、また一つと増えていくのだと。何者にもなれなくて当然だ、だって私は私にしかなれないのだと。指の隙間から零れた欠片ではなく、幸福は自分で取りに行くのだと。
長い長い時間をかけてかけられた呪いが少しずつ解けていく度気づかされる。
結局その日私は兄の話をした。姪が生まれたんだって、私が人生に絶望し何も出来ないと顔を覆っている中、すぐ傍で生命が誕生するの最高に面白いよなと言った。私の人生と生命の誕生は何ら関係ないが、ザ・テンプレート型幸福人生の兄についに子供が出来たのか。私、何もしてないなと思った。
彼女も同じように言った。他人と比べるのが間違いだけど、それでもすぐ傍で自分と全く違う有り触れた幸福を体現している人間を見ると正直死にたくなると。その通り、私はずっとその状態で生きている。
誰が悪いわけでもない。それでも配られたカードは残酷だ。同じ腹から生まれてきたのに初期ステータスが全く違った彼に、私は何百回も苦しくなり死にたくなった。どこに行っても何をしても、家族も友人も先生も誰だってそう、いつだって彼の出涸らしとして見られていた。冗談抜きに、私の人生は15歳まで死んだも同然だった。
彼が両親に評価される度、どうして貴方は出来ないのと言われ心臓に棘が刺さっていった。お兄ちゃんは格好いいのに妹は……、しっかりしたお兄ちゃんで良かったね、兄のおかげで成り立ってるね。ずっとその言葉の繰り返しだ。
勉強が出来てモテて運動も出来て人から頼られる、私とは正反対の彼が周囲の人間と同じように私を馬鹿だと扱ってくれたならまだ良かったと思った事もある。そしたら私も、うっせぇばーか!知るかボケ!と言って全てを切り捨てられたはずだ。
でも、彼だけはそれをしなかった。家族が私を馬鹿だと言い続けても、友人や教師、狭い世界で多くの人が私を私として見なかったのに彼だけはいつも私の事を名前で呼び、彼だけは一人の人間として扱ってきた。
それが、どうしようもなく苦しくて堪らなかった。嫌な人間であれば良かったのにと思った。でも私の兄は私と違って優しいのでそんな事はしなかった。
高校生になってようやく彼のいない世界に行き、初めて私は自分の価値を知った。良く出来た兄の駄目な妹じゃなく、ただの一人として見られるようになり自分の優れた部分を何度も教えられた。
私はそこで、ようやく一人になれた。
おかげで捻じ曲がりまくった私の精神も少々ましになり自分の出来る事をしようと考えられるようになった。
しかし、一つ上にテンプレート型優秀人生を送る人間がいると、他の誰かが比べなくても自分自身が比べてしまうのが悲しき現状だ。
私が到底出来ない有り触れた幸福を掴んだ彼に、ああ、やっぱりそうだよなお前はそうなる人間だよなと思いながらも、私はこの人が有り触れた幸福を手に入れている時間で何をしていたのだろうかと思ってしまう。
四つ葉のクローバー見つけた!やったー!じゃないんじゃないか。もうそんなものに喜ぶ時間は終わってしまったのだろうか。いくつになっても、私は私のままだ。
でも思う。普通を良しとするのは世間体であって私自身の考えではないのだと。彼が普通の幸福を手にするのも、私がその道を選べないのも生まれた瞬間から決まっていたようなものである。
だから比べたって仕方のない事を比べるくらいなら、私は好きな酒を飲んで四つ葉のクローバーレアだ!っていつまでも笑っていよう。そもそも有り触れた幸福を手にした所で自分の望みが何一つ叶わないと分かったから今ここにいるのだ。
人はないものねだりだから、隣の芝生は青く見える現象と同じで自分が手に入れられなかった物ばかりを追って勝手に苦しむ。でも私の今は誰かから見て喉から手が出るほど欲しかった今なのかもしれない。
いつだって自分を一番傷つけるのは自分で、一番幸せにするのは自分なのだともう知ってるから。過去も他人も振り向かず歩くだけでいい。
そしたらいつか、待ってくれなかった時間の全てが未来の私を作り出しハッピーエンドの鐘を鳴らすだろうから。
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