氷漬けになったら時を越え溶けた先に幸福な愛が待ち受けるか
裸足のまま雪を踏んだなら、足元から凍り付けるだろうか
マンモスは凍った。
氷河期というものがその昔地球で起きたらしい。7万年前の出来事らしい。らしいと連呼しているのはこの目で見た事がないからだ。
次ぐ次ぐ思う。これは私が捻くれているからなのか、想像力が豊かなのかは分からないが、科学的に証明されたと言われても尚、当時を見たわけじゃないんだから絶対なんて無いと思うのだ。
絶対なんてこの世界のどこにもないと、何十回何百回だって思う。
とにかく氷河期というものがあって、生命の全ては凍り付き終わったらしい。ジャンプのDr.stoneか何かが似たような物語展開だったよね。
凍り付くのは一瞬だろうか。例えば裸足で降り積もる雪を踏みしめた時、足裏から突き刺すような痛みが走りそこから徐々に体温を奪われるのだろうか。それとも気づいた時には既に死していたとか。
どちらにせよ、寒くて死ぬ事だけは避けたいと思い続けている。寒いのは嫌いだ。暑すぎるのも辛いけど、寒さは人を孤独にさせると思う。
吐き出した白い息が霧散するように、鼻の頭や指先が痛くなるように、温もりを求め早足になる帰路の先、家に誰もいないのがより悲しくなってしまうからだ。人間はいつだって他人の温もりを求めている。温もり泥棒だ。
先日都心で雪が降った時、凍ったマンモスはどんな最期だったのだろうと思ったのだ。傘を差し雨に変わった様を見ながら、ブーツの先を濡らしかじかむ手をポケットに仕舞ったが轍になった道を恐れすぐに出す。
マンモスが、一瞬で死ねた事を願うしかないが多分それはないだろう。人間も遭難した時、寒いなと凍え眠くなり倒れて死ぬからだ。一瞬で吹き付けた風に殺されるような、平和な最期ではないだろう。いや、それが平和かどうかは別だが。
何にせよ、寒いのが嫌いだ。ここでは星が見えないし、月だってベランダから覗かない。私は次ぐ次ぐ、月明かりに照らされる幸福な部屋にいたのだと知る。ただもう、帰った所であそこは私の居場所とは言い難い。
マンモスは夢を見ただろうか。暖かい世界で満足な食事をとり幸福な眠りにつく夢を。それだったらいいのになあと思う。最期くらい幸福であれと願っているから。
路肩に寄せられた雪、踏みしめられ轍と化した地面、傘を持つ手が震えた。今日は湯船に入ろう。またキムチ鍋食べよう。週2は食べてるけどまぁいいや。寒いし。ああ、帰った所で何もないな。風呂場に洗濯物干しっぱなしだ。
どうでもいい事が脳内を埋め尽くし、白い息と共に霧散してはまた、マンモスの事を考えた。多分凍ったマンモスが世界中の孤独な人間と重なったからなのだろう。
孤独とは何を持っていうのか。私はよく言葉の意味を考える。辞書に載っている意味だけではなく、それはどういう状況で、どんな思考で、どれほどの感情が籠っているのか。言葉の意味を深く深く掘り下げ脳内は永遠に文字と映像で埋め尽くされている。
孤独は多分、同じ地球上に存在するのに時間と氷という壁で触れる事の出来ないマンモスとよく似ている。我々は時間を凌駕できないし氷を溶かしてもマンモスは死んでいて熱を分かち合う事はない。
同じ世界にいるのに、交わらない線はすれ違ってすれ違って、がんじがらめにすらなれずただ平行線だけ伸びている。
この世の全ての孤独な人間が交われば多分世界は平和になるのだろうなあと思ったり。まぁでも、不可能だから世界のどこかで爆撃は止まないのだ。嫉妬、羨望、憎悪。これは切っても切り離せないし伝染病のように蔓延る。もしかすると流行り病よりよっぽど感染力が強いかもしれない。
おまけに治療薬はない。
よく言っているが絶対という言葉はこの世界のどこにも存在しないと思っている。確かに時間は戻らないけれど、それは今だからだ。もしかするとある日突然、過去に戻れる日が来るかもしれない。
絶対無理だとか、絶対出来ないとか。
可能性の芽を潰す言葉を散々言われてきたからなのか、私は絶対なんてどこにも無いって思うのだろうな。というよりあってたまるものか。そんな訳の分からぬ一人の定規で図られた絶対なんて何の効力を持つのだとさえ思う。
ただ、その一人の定規が誰かにとっては苦しくて堪らない一言なのだけれど。
話を戻そう。絶対という言葉を使いたくなくなったのは作家になってからだ。作中で登場人物に言わせる事はあっても、自分自身が言わないのは可能性を潰す羽目になるのと単純に明日の私がどうなるか分からないからだ。
明日絶対生きてるなんて、この世界の誰にも確証がないのに我々は死なないと思っている。でも世界単位で見れば人間はバカスカ死んでくし、ボコボコ生まれていく。ごめんちょっと擬音が良くなかった。
誰にだって絶対と言える権利も確証もないのだ。
だから私が絶対と使う時はもう本当に有り得ない時で、可能性すらないと確信を得た上で言うのだ。たとえば、こいつとは絶対付き合わんとか。この先の人生で節分の豆がうめぇうめぇと言い主食となる日は絶対来ないとか。これはまじで来ない。
いつかの日、読者と付き合うってありですか?と言われた事がある。どうだろうなと思った。90%以上の確率でないんだけど、絶対とは言えなかったのはどこかで誰かが、等身大の私を見て好ましいと思うかもしれないと思ったからだ。
そもそも応援してくれる人たちの事は大好きだし、最高、感謝、BIGLOVEって感じなんだけど、結局私は皆の前に作家としての側面で現れているわけであって。その側面を好きだと言ってくれるのはとても嬉しいが、作品と作者が別物であるように私も優衣羽も、別に同じなわけじゃないのだ。
同じ人物だけれど、皆が見ていない側面で溢れているのだ。
だからこそ、作家としての側面を好きになってくれた人たちと付き合うのは難しいと返したはずだ。きっと違うってなるから。普段から綺麗な言葉を使っているわけじゃないし、ていうか口調に関しては悪い方。後は擬音で喋る。
等身大の自分はどこで温もりを得るのか。優衣羽として貰える称賛と愛に作家としての自分が持つ大きな瓶は少しずつ満たされていく。けれど等身大の私が持つ小さなコップはひっくり返しても何も落ちない。
雪でも踏めば分かるかなと思いながら、自分が欲しい物を夢想する。物から人、感情まで。けれど結局行きつく先は等身大の私としての幸福ではなく作家としての成功と幸福に繋がってしまうので、相変わらずのご様子ですと笑いながら。
遠き日に死んだ、氷漬けのマンモスを想うのだ。