煙草一本で寿命が一年消えていれば、緩やかな死が存在しただろうか
それで寿命が縮むなら、死にたがりの僕らは口にするだろうか
煙草の匂いが嫌いだった。
鼻につく苦みも、紫煙も、嫌いだった。居酒屋に行けば近くの席に座っていた客の匂いが漂い服に染みつくのも嫌いで。焼き肉の帰り、自分の服が酷く臭く感じるのと同じで。
煙草が嫌いだった。
最初に吸ったのは20過ぎて少し経った頃。元々吸う気なんて毛頭なく、苦手意識の方が高かったため買いもしなかった。酒は飲むけど、この先煙草は吸わないんだろうなあと。
そもそも根本的に、依存性のあるものと相性が悪いので。ちょっと遺憾ですが。
その日は高校時代の友人のポートフォリオの被写体になる約束をしていた。大学でカメラを専攻していた彼女は被写体を探していて、課題で使うための写真を必要としていた。
私は、まあ別にいいかと思い、いいよと言った。大きな所に乗るわけでもないし、写真くらい良いだろうと。学生時代から仲良くしていて何度も助けてもらったから、そのお返しみたいな気持ちだった。
彼女の撮る写真は女性の等身大みたいな写真だった。大人にしか出せないアンニュイな雰囲気、彼女のまとう雰囲気そのものだった。よく、創作は自分を表す鏡だと言うけれど、彼女は正にそれで。特別容姿端麗でとか、分かりやすい基準に当てはまるような人ではないのに何故か妙な色気があった。
特別丁寧なわけでもないのに、食事をする時の箸の持ち方や口の運び、流れる髪一つ一つに彼女にしか出せない色気があって。人を魅了する何かを持っていた。
それが私はとても好きで。個性とはまさにこの事だと思っていた。彼女にしか出せない色気、彼女にしか出せない魅力。羨ましいと何度も思った。同じ動作をしても、私にはその魅力は現れない。
最も、高校時代はその魅力を男どもが理解出来るまで成熟していなかったため結ばれない事もあったけれど、大学では無双したらしい。ここで書くのも何だけど、まあ遊びまくったようだ。
誰かはみだらな生活に嫌悪するだろう。でも私はケラケラ笑っていた。生来のものであるが、他人がどんな生き方をしていようと笑えるのだ。嫌悪でも何でもなく。自分のテリトリー内で問題を起こさない限り、いいじゃんと笑ってしまう癖がある。
おかげさまで、彼女のその手の話は私にとって面白いネタ提供と化した。自分がそれをするかと言われたら全く別物であるが。
そんなこんなで彼女の作品は、まさに彼女だった。
これを言うと私の作品はまごう事無き私なのかと思う時がある。多分合っていて少し違う。私の母は私の作品を見て、お前だと言う。でもそれはあくまで私の根底の中に住む大きな部分だけで。残りの部分は映らない。
あほな事して笑いを取りに行ったり、そんな事しながら死にたがりを隠したり。そういう一面も正しく自分で、けれど文字に現れるかは別問題なのである。
私の空想的で、けれど酷く現実的で、美しい物が好きなくせに人生にとうに絶望していて、人に期待していなくて、それでも一縷の希望をどうにかして探し出そうとする、そういう根底が現れている。
話を戻そう。彼女の被写体になるためにその日、二人でホテルに行った。そうだね、ラブホ女子会。以前も二人で女子会をしたため慣れたものだった。用途さえ考えなければベッドはふかふかだし、お風呂は広いし、何故かトイレのプライバシーはない。高頻度でない。マジで意味わからん。
「吸える?」
その時彼女が懐から出したのは一本の煙草だった。今はもう止めたらしいけど、当時の彼女は煙草を吸っていた。銘柄も、詳しくないから分からない。ただそんなに強いものではないと言った。ニコチン量の事である。
「いいよー」
間延びした声で返事をした。個人的な考えだが、私は挑戦する事が好きである。大きな挑戦ではなく、初めての事に挑戦するのが。自分が一歩踏み出せば終わるだけの、それくらいの挑戦。
このまま一度も吸わず死ぬなら、一回くらいは吸っとくかと思ったのだ。人生経験を積んだ方が、終わる瞬間に後悔しないかなって。ちなみにこれの用量で、海外に行くと必ず苦手なナッツ類を口にするようにしている。土地が変われば美味しいと思えるかもしれないと考えているからだ。
残念ながら、全然意味はない。大概私が海外に行く時必ず隣にいる相棒に残りを食わせている。柿ピーは柿の種しか食べないし、そもそも無駄にしたくないのとピーの匂いが染みついた種を食いたくない。
食べた事のない物、した事のない事、見た事のない景色、触れた事のない何か。後から体調を崩そうが、必ず一度は挑戦するようにしている。
それが、たまたま今日、煙草だっただけで。
火を着けられて煙を吸い込んだ。喉にこびりついた煙に、ピリッとした感覚が走る。味は、別に美味しくもまずくもない。毎日吸い続けていたら必要とするのだろうか。いや、無理だろうな。依存性物質と私は酷く相性が悪いのだ。
アルコール、たばこ、南米に行った時飲んだコカ茶とか。
アルコールは許容量を越すと二日酔いとかではなく肩が痛くなるから量を飲まないようにしている。ていうかその前に腹を壊す。
コカ茶もそうだ。進められて飲んだ時、一ミリも美味しくなかった。とりあえず飲み切ったけど、すぐにトイレに行きたくなって。二杯目三杯目を飲む周りと違い、もういらんと言った。ちなみにある人は帰国ギリギリまではまって飲み続けていた。
同じ食べ物を食べ続ける時もあるけれど、好きだからを越して選ぶのが面倒だからとりあえずこれを食っとくっていうだけの話である。
煙草も、そうだった。
一本吸い切った時、あ、もういいやと思った。二本目はいらない。気管支弱いからむせやすいし、これを吸うために無駄な金を払いたくない。ただでさえ税金ばっかりなのに。
「美味しくない」
そこから数年後の23歳。
年末の恒例行事、友人のお店で飲み会だった。その日は彼女もいて、ヤニカスは二人いた。失礼、煙草を吸う人は彼女ともう一人いた。もう一人は未だに吸い続けている。どうでもいいけど、女性より男性の方が依存性物質にはまりやすいんだなあと見ていて思った。
その年の私は忙しくて。新入社員として働き始め、さらに原稿を数個やっていた。かなりキャパオーバーの状態で、プライベートでは心を落としてくる人がいた。fall in loveではなく、ダークサイドにだ。話すだけで、一緒にいるだけで、私の心はどんどん侵され嫌な気分にさせられた。
どこかで区切りをつけなきゃと思いながらずるずる、ずるずるやっていた。思い返せば口先だけで約束も守らず行動すら起こさない人間のために、どうして自分が何とかしてあげなきゃとか思ったのだろう。
過去も今も未来も、いつだって誰かのせいにして一人で立てない人間を支える必要なんてないのに。だからってこっちの話を聞かない自己中心的で、何より自分のどこが悪いのか、そもそも悪いすら理解できない人間のために長い時間を使ってしまった。
おかげさまでしばらく恋愛事はごめんだと思ったものである。あまりに見る目がなかった。今の私は当時を思い出して、自分が恥ずかしくて仕方ない。そんな人間に時間を費やした自分を、だ。
ずるずる引き連れていたその時、楽しく飲み会をしていた正にその瞬間、決定的な一言が私のスマートフォンの画面に光った。それは、さよならでも何でもなかった。私の今まで積み上げてきた作家としての考えやプライドをへし折るようなものだった。
あ、無理。
大量のアルコールを摂取していたにもかかわらず、私の脳は酷く冷静に一言だけを浮かび上がらせた。私の様子に気づいた友人たちは顔色を見てきた。けれど、私は手短に返事をした。
そうですか、どうもありがとう。
一言だけ送ってトーク履歴を全て削除した。ブロックすると後がだるそうだったので友達欄から削除した。ついでに写真も全部消した。僅か5分。私の犯行は一瞬で一人と積み上げてきた時間を消した。
後から言う事があるならば、そもそも何でお前ごときに言われなかあかんねん、だ。私は私と仕事をしてくれる担当さんたちや会社の方々、取引先の人、後は本当に心配してくれているファンの言葉にはちゃんと耳を傾ける。
時折、むっと思う時はあるがそれが正しければ従う。いい大人だし仕事は約束を守るものである。納期も考えも常識も、守りながら臨機応変に対応していくものである。そういうものなのである。
むっとしても一度目を細めて客観視する。改めて自分の悪かったところを見つめ直し解決策を練る。時には謝罪。素直に聞くものなのだ。いや、ていうか結構素直なのだ。普段から。
けれどその人が言ったのは、あの人がこう言ったからこうなんだ!良くないからやめろ!っていう発言だった。
まず、お前自分の意見は?だ。流されやすいとは分かっていたが、そこまで酷いとは知らなかったよ。
次に、私は私の考えがあって言ってるんだけど、何でお前に言われなあかん?
最後に、ファンの人と仲良く話すのは止めるべきだと言われたのだ。
これに私は、ああこの人はもう何を言っても無駄なのだと気づいた。自分の考えが全てで、それが正論で、他は認めないのだと。固定概念に縛られたら終わりなのに、縛られている事さえ分からずナイフを突きつけているのか。
色々、言いたい事はあった。
私は私を応援してくれる人を貴方と違って大事にしている。裏で騙されているとか笑ったりしないし、彼らが立ち止まりそうな時はどうやったら背中を押せるかなと本気で思っている。たった一文で、心は救えないだろうかと本気で考えている。
私が救われなかった分を、助けてと願った先に無かった手を、出せるような存在でありたいと、言葉で人を傷つけたから傷つけた以上に誰かを救おうと、私は本気で思ってるよ。
貴方は、散々馬鹿にしてたけどね。
これでも私ちゃんと考えてるんだよ。DM送ってくれたら必ず一言は返すとか、あんまり込み入った話はしないようにするとか、リプライは何かしら反応。暇な時はちゃんと返す。だって好きで送ったのに勇気を出して言葉を吐いたのに何も反応すら返ってこないなんて嫌じゃん。報われて欲しいじゃん。
アルコールを飲みまくった私はその後笑えるくらい暴露しまくった。これまでを全部吐き出して、とにかくくそがと言いまくった。応援してくれる人に対して口出しされたのが、一番腹が立った。自分だっているくせにみたいな事も言った。騙されてざまぁとか言ったお前の化けの皮が剥がれる日早く来いよとぶちぎれた。
「吸う?」
彼女から差し出されたのは、いつかの煙草だった。
こういう時、普段の私なら断るのだけれどあまりに苛立っていた私は吸うと言った。そして火をつけた。
味は変わらないし喉はピリッとする。気を抜いたらむせて気管支が終わるだろう。
それでも何故か、その時吸った煙草は酷く自分を冷静にさせた。それは吸うために口を閉じるからかもしれない。話す事を、止めるからなのかもしれない。けれどその瞬間、私には間違いなく煙草が必要で身体は素直に欲求を満たした。
灰を犯すため吸って、二本目にも突入した。しかも、立て続けに。あーこれ、私このままイライラし続けてたら永遠に吸うな。電車の中でも吸いたいとか言うかもしれない。良くないな。
二本目を吸い終えた時点で冷静になった私は煙草を手に取るのを止めた。冷静になれました、ありがとうございました。と彼女に礼を言った。
あれだけ嫌いだった煙草を、心を救うために吸った。
それをふと思い出した。
夜の池袋で、目の前を歩いていたカップルが信号が変わる瞬間彼氏が彼女の手を引っ張って走り出した。彼女は驚きながらも笑って反対車線に移っていった。
後ろで見ていたカップルもそれに気づいたが時すでに遅し、赤信号になった横断歩道を見て待つ事にしたようだ。
横目に見ながら重たいエコバッグを持ち直した。初めて行く専門店に近いスーパーを見つけ興奮した結果、大量買いをしたのだ。これでメインディッシュは少なくとも一ヶ月持つだろう。冷凍庫にパッキングしてしまえばバッチリだ。
スニーカーの靴紐が解けた。重たい荷物を持っている時に靴紐は何故か解ける。壁に近づき足を止めた。荷物を持ってくれる人なんていないから諦めて地面に置く。長いスカートがコンクリートに着いた。
きつく結んで解けないように何度も引っ張った。荷物を抱え直し前を向くと夜の街を歩く楽しそうな顔をした人ばかりが目に映った。
瞬間、あ、煙草吸いたいと思った。
すれ違っていく人たちと自分の顔つきが、正反対で。何だかとっても虚しくなってちょっと死にたくなった。だから夜の騒がしい街は好きじゃないと思った。
恋人がどうしても欲しいとか、そんな感情はないんだけど。誰かの幸せな姿を見ると自分のみすぼらしさが痛いくらいに目についた。生活の事、小説の事しか考えていなくて。
このまま私一人で生きて死んでいくんだろうな。腕を引っ張って笑い合うにはもう歳を老いただろうか。大した稼ぎも名誉も何もなく、どこかに消えていくんだろうなあ。
こんな事なら嘘ついてもあの人みたいになるべきだったかな。塗り固めて称賛を取りに行くべきだったなあ。いつだって馬鹿正直に生きてるやつの方が指差されるんだよなあ。
そんな考えが一瞬で脳裏をよぎる中、チェーンソーマンの登場人物である姫野が煙草を吸いながら、依存できるものがあるといいねと話していた事を思い出す。
ああ、確かにそうかも。
人って何だかんだ、寄りかかるものがないと生きていけないから。
それが軽度でも重度でも。拠り所が無いと、帰る場所が無いと心が折れて終わってしまう。だから手っ取り早く、煙草とかアルコールとか恋愛とかで、依存心を満たすのだ。
これがあれば安心。明日死んでも大丈夫。だってこれがあるから私は平和なの。
一度でもそんな事を思った日はあっただろうか。依存性物質とは酷く相性が悪い。はまる前に体調を崩すし、依存関係とも相性が悪い。だって人はいつかいなくなる。この人がいれば生きていけるなんて、いなくなったら死ぬのかよ。
でも、何一つないのが私なのだと、夜の街を歩きながら気づいた。
彼女みたいに、遊んどくべきだったかなあとか、小説書く時間をもっと報われる事のために使うべきだったよなあと、結構頻繁に思っている。特に後者に至っては、まじで毎日思う。結果の出ない、報われもしない事を長々と続けられるほど人の心は強くない。
だから、今。煙草が吸いたいと思ったのも何かに寄りかかって安心したかったからだ。あの日みたいに、吸ったら冷静になれるって分かってるからだ。こんなもので、世界が救えるわけじゃないって捨てる事が出来ると知っているからだ。
一本吸うごとに寿命が一年縮むと言われたら、多分間違いなく吸っていた。吸って吸って吸いまくって、さっさと虚しい時間を終わらせていたはずだ。でもそこまで有害なら手に届く所にはないし、人は自殺なんてしない。
それでも吸いたいと思ったのは、相変わらず私が弱いからなんだろうなあと思いながら、欲を掻き消すために半額のワタリガニでキムチ鍋を作って食べた。身をしゃぶり尽くした頃には、吸いたい欲は消えていた。