「最高裁判例」とは何か

福島県内中学教諭の体罰訴訟
74児童犠牲の大川小惨事は人災だ
無能校長を発令した宮城県教委の責任は
なぜ石巻市だけ20億円背負うのか


大川小惨事訴訟仙台高裁判決(平成30年年4月26日)に対する石巻市と宮城県の上告について最高裁は令和元年10月10日、上告棄却した。19遺族23児童の23億円国家賠償訴訟は延滞遅延金、弁護士費用などを含め20億5,600万円の賠償が確定した。
村井知事は『最高裁判例』を持ち出し「県に責任はない。大川小設置者の石巻市が支払う。財政上厳しいので県が20億5,600万円を立て替え払いする。市は10年間で返済する」ことが決まった。同年10月17日、県議会全員協議会で村井知事の「立て替え払いする」方針について協議したが、各会派代表は仙台地裁の控訴、仙台高裁の上告は知事の専決処分のようだった。「県の立て替え払い」は本会議を開いて慎重に対応すべきだという意見が多かった。村井知事は東日本大震災発生以来、上告棄却まで8年半もかかった。遺族の気持ちを考えて早く賠償金を支払いたい。石巻市議会の意向もあるが亀山石巻市長、菅原副市長、境教育長は了承したとして県議会の承認を強く求めた。
石巻市議会は同年12月5日に本会議を開き、亀山市長は市民に対するお詫びとして令和2年1月から6カ月、月給50%削減、菅原副市長、境教育長は30%削減を提案したが、市議会は賛成15人、反対14人の1票差で可決された。4議員は反対討論、亀山市長退任せよと迫った。
『最高裁判例』は郡山市の「行健(こうけん)中学」で平成21年に起きた教師が学級副委員長をトイレに連れ込み蹴った体罰事件。保護者が50万円の国家賠償請求訴訟を提起。1審の福島地裁が市と県に2分1ずつ賠償の判決。最高裁は平成21年10月23日、学校設置者の郡山市に賠償責任があると裁定した。この判決を不服として福島県が提訴し、これが石巻市に賠償責任があるという村井知事の理由だった。
しかし、防災マニュアル等の策定を怠った結果、74児童を犠牲にした校長を任命した県教委の責任は問わないのか。23児童19遺族が提起した国家賠償請求訴訟では柏葉照幸校長の責任を追及する声が強かった。柏葉校長は定年前の58歳で退職。遺族の前から去っていった。
仙台高裁は平成30年4月26日、大川小23児童19遺族が石巻市と宮城県に出した23億円の国家賠償控訴について判決を下した。平成28年10月26日、仙台地裁は9人の教員が児童たちを北上川三角地帯に避難誘導した責任があるとして14億2,556万円の賠償を命じた。石巻市、宮城県は津波襲来を予測できなかったとして控訴した。村井知事は県議会に諮らず知事決済で控訴しが、議会から説明すべきという意見が出て説明会を開催して県議会は控訴を承認した。
仙台高裁は大川小で74児童、9人の教師が津波で亡くなった原因にについて学校防災の点から審査した。義務教育管理下の小学校で大川小1校だけが多数の犠牲者が出た。仙台地裁の1審裁判は校庭に50分間も避難させて津波襲来直前に北上川三角地帯に避難させたのは誘導の9人の「教員に責任があるとして14億2,556万円の賠償判決を行った。小川仙台高裁裁判長は「昭和53年6月12日午後5時14分に発生した宮城県沖大地震(マグニチュード7・4)クラスは予測されていた。宮城県は県教委などと学校防災対策を行うことにしていた。対策をきちんと実行していれば津波避難誘導場所を事前に定めておくことができた。大川小から700メートルの『バットの森』に決めておけば犠牲者は出なかった」と判断、仙台地裁の1審判決を見直して石巻市、宮城県に連帯して責任があるとして14億3,600万円の賠償を命じた。
柏葉照幸校長、教頭、教務主任ら幹部と石巻市教委は予測された宮城県沖地震に備えて北上川釜谷地区の大川小校舎を2次避難場所にしたのは安全対策を怠った。3次避難場所として平成19年11月、大川小、大川中の児童、生徒全員と保護者ら約300人が植樹祭を行った『バットの森』を決めることができた。教師、市教育委員会は地域住民より学校の安全対策を真剣に講じることが要求されている。『バットの森』は大川小から700メートル、標高20メートル、車が登れる山道、緩やかな斜面、低学年でも歩ける。3月11日は北上川三角地帯に逃げたが『バットの森』へ逃げれば犠牲者はだれも出なかった。柏葉校長、市教委関係者の組織的な怠慢が惨事を招いた。2審判決は明らかに「人災」と判断したのだ。
20億円の賠償金を県が石巻市に「立て替え払いする」ことで一応決着した形となったが、74児童の遺族たちは「なぜ、大川小だけが70人を超す多くの津波犠牲者を出してしまったのか」と今も思い続けている。
私は河北新報の元新聞記者だ。「60年のマスコミ人生」で「おかしいことはおかしい」と書いてきた。大川小惨事の真実を追及しているが、仙台高裁の判決は「人災だ」という判決。最高裁は市、県の上告を棄却した。村井宮城県知事は「県には責任がない。賠償金は石巻市が支払う」というが、私は柏葉照幸校長という無能な教師を大川小校長に発令した宮城県教委の責任は消えはしない。最高裁判例を持ち出して「石巻市に立て替え払いする」という県、市の協定書を再検討してほしいが、東日本大震災発生から来年は満10年目が来る。村井知事は柏葉校長を発令した県教委の責任をどのように判断するのか。20億円の賠償金のある程度を県が負担するべきと考える。
私は令和元年10月17日に開催した宮城県議全員協議会議の議事録を議会事務局から入手した。最高裁判例を見直すべきという意見もある。宮城県教委は大川小惨事を教訓にして2月に研修会開催した。
石巻市内には43小学校がある。父兄が学校に来て自宅に連れ戻して亡くなった小学生は多数いるが、大川小のように校庭に避難した74児童が学校管理下で津波に襲われて亡くなった小学校は1校もない。
河北新報は平成23年12月5日付で宮城、岩手、福島3県小中学校の児童、生徒津波犠牲状況を報道した。宮城県(9市6町)の児童犠牲は168人。(石巻市138人)、岩手県(4市6町)26人、福島県(4市5町)27人。中学生は宮城県91人、岩手県16人、福島県18人。大地震が発生した3月11日、大川小には108名の児童が学校に在籍していた。10人の教員もいた。30人の児童が父兄に連れ戻され、学校に78人の児童と11人の教職員(職員1人)がいた。4児童と教員1人が山に逃げて助かった。学校管理下で津波の犠牲になったのは大川小だけなのだ。4人の児童は今も行方不明だ。この事実を村井知事の言うように「県には責任がない」で済ませるのか。
津波発生後、石巻市教委は遺族説明会を開いた。なぜ、大川小だけが74人の児童が犠牲になったのかと遺族たちは追及した。
文部科学省、県教育委員会が平成25年年2月に開催した大川小学校事故検証委員会(委員長・室崎益輝神戸大学名誉教授)では「行政上、法律上の責任については所掌に含めることは困難」と書かれた設置要綱がある。県教委、市教委、文科省の前川喜平氏(当時、官房長)、高橋正宮城県県教育長らが検討して設置した。石巻市は事故検証委員会の費用5,700円(当初2,000万円、追加3,700万円)を支出した。震災後、市教委は遺族説明会を開催してきた。説明会で亀山市長の「宿命発言」があって批判が起きた。柏葉校長は学校安全対策を何も行わず説明会では遺族から厳しく追及され「怠惰であった」と謝罪するだけ。柏葉校長は赴任1年目、石巻市内のアパートにいたが2年目から大崎市鳴子川渡の80キロ離れた自宅から片道2時間かけてマイカー通勤した。事故検証委員会ではただ1人生き延びた遠藤純二教務主任を精神上の病気を理由に入院させた。今は自宅療養で県内に住んでいる。柏葉校長は定年前の58歳で退職した。
大川小惨事は仙台高裁判決が下した「人災」である。新聞、本などで報道されてきたが、柏葉照幸という教師はどのような人間か。義務教育の安全なはずの大川小校長に赴任しなければ、大川小の74人に児童たちは亡くなっていなかった、と元新聞記者の私は確信する。宮城県知事という最高トップの村井嘉浩知事は柏葉校長の教員経歴、勤務態度など子供の生命を守る教員という仕事を委ねる人物だったのか。判断してほしい。
東日本大震災最大の被災地石巻市の亀山紘市長(1942年10月26日生まれ)は1兆2,000億円の国復興復旧費を参謀役の浅野亨石巻商工会議所会頭(1941年12月12日生まれ)と組んで復興事業を展開した。グループ補助金詐取で県が告発する事件もあった。
私は三陸河北新報社長を退任しており、大川小事故検証委員会の傍聴にしばしば行った。高橋正県教育長に「私は河北新報記者で現役時代は県教委を取材した。校長を決めて発令するのは県教委だ。履歴など資料を入手して驚いた。2009年(平成21年)4月、5回も教頭職を転々として柏葉照幸は準辺地校の大川小校長に発令された。なぜ校長にしたのか」と聞いたがノーコメント。事故検証委6人の委員に宮城教育大学教授だった方がいた。「74人も児童が亡くなったことを検証するのは先生たちでしょう」と聞いた。「設置要綱にあるように校長については検証委員会では取り上げないのです」と答えてくれた。出版社の記者たちの取材に県教委は「個人情報は出せない」と断わったという。私は柏葉校長の経歴資料を持っている。最高裁上告棄却後、境石巻市教育長に取材した。「最高裁判例で村井知事は県には責任ないというが、そうですか」と聞いたが答えるはずはない。境市教育長は平成24年6月25日、石巻中学校長から亀山市長の任命で就任した。「仙台高裁判決は柏葉校長の責任を鋭く追及している。最高裁判例で県教委は免責されているのか。使用者の県教委に対して柏葉校長の個人情報や不適切な情報を告知しているのか。そうした情報を為されずに大川小校長に赴任させたのは、県教委の責任が問われるのだ」と境市教育長に伝えた。
石巻市選出の佐々木喜蔵県議は令和元年10月17日に開催した宮城県議会全員協議会で自民会派を代表して村井知事に「宮城県にも責任はある。事故検証委員会設置には文科省が関与した。本会議を開催するなどして石巻市に20億5,600万円立て替え払いを決めるのは本会議で検討したらどうか」と迫った。村井知事は「最高裁判例の法律上も県には支払う責任はない」と各会派にも同じように答弁した。
私は1980年(昭和55年)4月、河北新報石巻総局長として赴任、地域新聞「石巻かほく」を創刊、4年間勤務した。「自分の目・耳・足 」で取材して書くことをモットーにしている。石巻の産業、文化、歴史など知った。天才彫刻家・高橋英吉さんのことを石巻図書館長の橋本晶さんから教えられた。2メートルを超す潮音像など「海の3部作」はすごい。小さな娘を残し32歳でガタルカナル島で戦死した。ガタルカナルの平和公園に潮音像のブロンズ像が石巻市、経済界、市民の寄付で建立された。河北新報では報道部長、編集局長、常務取締役をした。
三陸河北新報社長で退任。その後、FM放送のラジオ石巻社長9年間した。「オール市民ラジオ」をスローガンに掲げた。平成23年2月に石巻商工会議所副会頭・小笠原秀一さん(小笠原新聞店社長)に社長をバトンタッチした。
1カ月後の平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災発生が発生した。石巻市は最大の被災地となって国から1兆2,000億円の復旧復興費が交付された。浅野亨石巻商工会議所会頭が亀山紘市長の参謀役となって「石巻市、市議会、商工会議所の三位一体で復興しよう」と呼び掛けた。2016年(平成28年)9月10日、東京都港区・モッツコーポレーション・高須基仁社長から「病める『海のまち』・闇」という亀山市長、浅野会頭の疑惑の実態をレポートする本を出版した。亀山市長は仙台市内で講演中に津波発生、市役所に戻れず日赤病院に2泊して3日目昼、カヌーに乗って登庁した。トップの責任は果たしているのかという批判が上がった。本の帯に「津波に流された石巻・大川小学校74人の子供たちは哭いている“ 」とある。
本の記事は私がほとんど書いた。
柏葉照幸校長は1978年(昭和53年)3月、東北福祉大学卒、大崎教育事務所管内小、中学校5校で臨時講師、1977年(平成9年)4月、43歳で伊具郡丸森町小齊小(児童93人)教頭に昇任した。3年後、大崎教育事務所管内に転勤、色麻町清水小(143人)教頭に2年間、中新田町上多田川小教頭(28人)3年間、岩出山町岩出山小(330人)教頭2年間、5校目は父親が校長だった大崎市志田小(67人)教頭3年間。12年間小学校5校の教頭から2009年(平成21年)4月、石巻教育事務所管内の児童数111人の大川小校長に昇任した。この経歴をどう見ればよいのか。
55歳で校長に昇任したが、柏葉教員の勤務態度、異常なカメラ趣味。学校安全対策など何も行っていない。裏山に児童たちが行っていたシイタケ栽培の小さな畠を閉鎖した。もし続けていればそこへ逃げていたのではないか。

石巻市教育長は7カ月間も病気欠勤で不在

石巻市教委は2000年12月から綿引雄一教育長が脳疾患病気で長期休職。行政職の今野慶正事務局長が教育長職務代行者として対応した。そこへ平成23年3月11日、東日本大震災が発生、70人を超す児童が亡くなる惨事に襲われた。教育長不在の遺族説明会は混乱した。7カ月間不在の教育長に平成24年6月25日、境直彦石巻中校長が発令された。亀山市長が任命権を持つ新教育委員に「がれき詐取事件」で逮捕された元青年会議所理事長のJCグループの窪木好文氏を就任させた。教育委員会体制についても亀山市政の疑惑となった。大川小賠償上告棄却で20億円を超す賠償金を村井宮城県知事は最高裁判例を持ち出して「宮城県に責任はない、賠償金支払いは学校設置者の石巻市にある。県が立て替え払いする。10年間で返済する」と協定書を締結した。しかし柏葉照幸大川小校長の県教委の任命責任が問われているが、今となってはどうしようもないだろう。
上告棄却決定後、境石巻市教育長は亀山市長、菅原副市長と遺族たちに謝罪している。「私はジャーナリストとして大川小惨事を追及している」ことを伝えるため境市教委長に会った。石巻市教委には大川小教頭だった教員や校長に就任した学校教育課長らがいる。仙台高裁は宮城県沖地震に備えて『バットの森』にしておけば74児童の惨事は起きなかったと判決、県、石巻市教委にも責任があると判決文に書いている。
柏葉校長は赴任後1年間、石巻市内のアパートにいた。2年目の平成22年から大崎市鳴子川渡の80キロ離れた自宅からマイカー通勤した。片道2時間。震災の平成23年3月11日は金曜日。午前中は大川中卒業式に出席。午後から鳴子中の娘の卒業式出席との理由で自宅に帰った。長女は不登校で卒業証書を受け取りに行った。
9日に大きな地震があって体調を崩した児童がいた。校長、教頭、教務主任は校庭の裏山に避難するかと話し合ったとのことだが、昭和35年のチリ地震津波など釜谷地区には津波は来なかった。仙台高裁は700メートル離れた『バットの森』を避難場所にしておけば74人の犠牲児童は出なかった。安全対策を怠ってきたのだ。トップの柏葉校長の無責任、市教委の怠惰対応に惨事の原因があったと判決している。
特に柏葉校長は異常なほど写真撮影が趣味。最新のデジタル68ギガバイトUSBメモリーを装着したカメラを身辺に置いて1年間で1万枚も撮影する。学校の裏山は遠方から撮影。児童ポルノまがいの写真もあるという噂も耳に入った。中学校教員だった保護者の1人が校長からカメラメモリーチップを入手。自分のパソコンに装着して見ていた。私は1万枚ほど見た。修学旅行に同行する校長は記念写真を撮影してやるのが普通だが、遠く離れたスナップ写真。しかも校長は撮影した写真を学校参観日に来校する保護者に1枚50円で販売している。柏葉校長は平成24年5月の遺族説明会で約9,000コマの写真を2日間かけてファイル化していることを遺族たちに話した。1枚50円で販売するのは写真撮影の費用にすると言っていた。5年生女子児童の母親は水着姿写真があったので見せたくないので買ってきた。異常な教員だ。
震災後、柏葉校長が大川小に戻ったのは1週間後の3月月17日昼ころ。校長室で捜索中の消防団員に2個ある金庫のカギを開けてほしいと頼んだが断られた。翌18日、北上川三角地帯に運ばれた金庫を自衛隊員にバーナーで開けてもらい、中から茶封筒とファイル2冊を持ってマイカーで旧河北町集会施設ビッグバンに避難した。他人には見せたくない写真など入っていたのだろうと地域の人が言っていた。
遺族代表が平成24年2月3日付で亀山市長と阿部盛雄市教育委員長に「大川小惨事」全般について公開質問状を提出した。そのなかに「柏葉校長は3月18日にも再度訪問、自衛隊がバーナーで金庫のカギを焼き切り私物を取り出し車に積んで走り去った。この非常識な状況をわきまえない校長の行動を把握していたのか。金庫は学校の備品であり、校長の私物を補完するものではない。
公開質問状にはさまざまなことが書かれている。校長は74人の児童が犠牲になった責任者だが、村井知事の「県には責任はない」ということに私は納得できない。

3月11日、河北総合支所の広報車が来て「津波が来た。早く逃げて」と呼び掛けたが遅かった。教員で1人だけ助かった遠藤純二教務主任(1961年生まれ)は金華山のサル、シカの研究者として知られている。
遺族説明会には1回出席したが、「山で児童と逃げて1泊した」と言ったが、夕方には釜谷峠の自動車整備工場に避難していた。精神的障害で医師から面会謝絶という診断書で隠された。入院したまま59歳になった。遠藤さん長野県出身、宮城教育大学卒業。大川小惨事がなければ校長になっていたろう。児童たちから理科の先生として人気があったという。柏葉照幸という教員は遠藤純二という教師の人生を絶った。遠藤さんは退院して宮城県内の自宅で生活している。「石巻かほく」を経営する三陸河北新報社長時代、平成13年12月、「石巻圏1市9町ふるさとの人間史・20世紀の群像」という上・中・下3冊を出版した。個性豊かな「石巻人」に光を当てようと「石巻かほく」創刊20周年記念として企画した。第1部「文化をはぐくむ」(文化人)、第2部「記録に挑む」(スポーツ選手)、第3部「学にささげる」(学者、教育者)、第4部「社会のために」(法曹界、国際人)と展開、連載は116回を重ねた。手元にある本を読むと亡くなった人物を含めて人生は面白い、楽しいと思う。この中に大川小教員だった遠藤純二さんがいる。74人の児童たちは柏葉照幸という教員が大川小校長でなければ死ななかった。だから私は大川小惨事を追っている。

私は2006年(平成18年)12月、細胞がんと診断され仙台厚生病院で肝臓の3分の1を摘出手術された。72歳だった。国立がん研究センターは肝臓がんの5年生存率は39・6%と発表している。1934年(昭和9年)9月9日生まれ。現在85歳。抗がん剤、放射線治療を受けずに天然素材の健康食品だけ服用してきた。令和元年5月、「がんからの脱出」という自著を「モッツコーポレーション」から出版した。「マスコミ人生60年」を加えて私の歩みを振り返った。
オールドジャーナリストとしてもっと発言していきたい。インターネット、ブログ、SNSなどペーパーレスの時代に入った。私のブログを5月中に開設する計画を立てている。「病める『海のまち』・闇」の帯に「津波に流された石巻・大川小学校74人の子供たちは哭いている“」と書いてある。
「石巻 再生へ漕ぎ出そう」を呼び掛けていきたい。


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