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エイトシークエンスをなんのためにはじめたのか

エイトシークエンスをなんのためにはじめたのか。

「お客様本位の、本来あるべき人材紹介事業をつくってみたい」

それがエイトシークエンスを創業した理由だった。

リクルートキャリア(入社当時はリクルートエイブリック)時代、
顧客のことを考える時間が圧倒的に少ないことに疑問を感じたことがはじまりだった。

自分自身、リクルートキャリアに転職相談をしにいった時、
面談でまったく自分のことを聞かれず興味も持たれなかったことが違和感だったし、
リクルートキャリア入社後も、キャリアアドバイザー(以下CA)から求職者の未来を思った発言を聞くことはほとんどなかった。
RA(リクルーティングアドバイザー=法人営業)だった時は、企業の未来を本気で考えるより、一にも二にも求人開拓が求められ、
エグゼクティブ案件はリクルートEXに振ってダブルカウントで業績達成することしか考えていなかった。

つまり当時、顧客のためではなく、自分が達成したいがためだけに仕事をしていた。

そんな状態でも、市場が急成長している中だったお陰もあり、毎月達成していたし、年間2億円近い業績貢献をし社内では相当に評価されていた。

Q(3ヵ月)単位で目標数字がリセットされるが、毎回毎回、達成したくて、朝は7時から夜は24時のシステムダウンまで働いた。
24時から同僚と飲みに行っていたので、毎週睡眠不足で、水曜日の午後からの記憶はほとんどなく、ランナーズハイ状態。
土日もどちらかは出社し、40度近い熱が出てもオフィスに出社していた。

進捗は常時400件。毎日100人以上の候補者のレジュメと推薦状がCAから上がってきて、書類選考フェーズは150件ほど。残り150件は一次面接以上フェーズ以上の進捗で、
毎日15-20名以上の面接がセットされていた。
当時の最重要KPIは新規求人獲得数。週に5-7件の新規求人の獲得が命題で、週5件ほどのアポイントが必達だった。

この量をこなすのが大変だった。
一人のレジュメを見る時間は約30秒程度。それでも1時間以上はかかる。じっくり見ていると2時間くらいはあっという間だった。
書類選考の結果プッシュ、面接結果とフィードバックで2時間、アポは前後の移動時間含めて2時間、アポイント後はすぐに求人票の作成に1時間以上(新規と既存で異なる)、CAへの案件告知行脚で1時間以上(虎ノ門から新宿オフィスまで移動して行うことも多かった)、
そしてやっと、二次面接以降の進捗にじっくりと時間をとることになる。

正直、一次面接フェーズの候補者のことは名前もキャリアも、どの会社で進んでいるかもほとんど把握できていなかったし、する時間もなかった。
なので、一次面接を通過した段階からようやく、状況を確認していくことになる。
ただこれも、どちらかといえば、求職者の志望順位を確認し、自分の案件志望度が2位以下だった場合に、どうすれば志望順位を1位にできるか、
そのための懸念潰しと、他社より秀でている部分を如何にCAに伝えてもらうかをひたすら交渉するのが仕事だった。

CAはどのRAの求人から決定しても実績になるので、正直相手にしてくれない。
まっすぐにいっても"なしのつぶて"なので、結局は関係値をつくって優先的に言うことを聞いてもらえるように取り組んだ。
CAと「仲良くなる」ことが重要だった。社内営業である。案件の告知行脚は、CAとの直接接点を創るよい機会だったので、足しげく通ったし、飲みにいくことも多かった。

さらに時間がとられたのは会議と後輩の同行である。
マーケットとグループ定例会、チーム会、リーダー会、プロジェクトが2-3本、そして新卒など後輩の同行。
こんなことをやっていると、朝7時に出社しても、やっと落ち着いて仕事ができるのは夜22:00くらいからだった。

そんな毎日で、今思えばいつ倒れてもおかしくないぐらい走り回っていたが、不思議と楽しかった。
それは明らかにメンバーと社風のおかげだった。

同期

※リクルートキャリア時代の同期との一枚。本当に仲が良かった↑

常に前向き、どの部署の人たちも快く手伝ってくれるし、みんな忙しいのに笑顔でおせっかいな人たちばかりで、気軽に相談しても真剣に向き合ってくれた。
「お前はどうしたいの?」というマネジメントも、自分で考えて進んでいる実感を与えてくれたし、
何より、走り切ってハイ達成のゴールテープを切った時の高揚感と、まわりのメンバーからの賞賛の拍手と握手。後輩からの尊敬のまなざしが嬉しかった。
そのアドレナリンが毎日全速力で走り切る原動力を与えてくれた。

今も思うが、あの会社は「文化」が事業を支えているのだと確信している。
そしてそれはエイトシークエンスでも実現したいと思っている。

今でもリクルート出身者たちは、初対面だったとしても、共に汗を流した仲間であることを認め合い、助け合う。
事業が素晴らしかったというより、人とカルチャーが完璧に近いくらい素晴らしいのだ。


メンバーや社風は申し分なく、居心地はよかった。
ただ、私は入社時からずっと抱えていた違和感をぬぐえなかった。

簡単にいえば、「この仕事は誰の役に立ってるのだろう」ということだ。

これだけの量をこなす中で、顧客のことを考える時間がほとんどなかったからだ。
事業の未来の相談をされていても、「そんなことより求人ください」という感じだったし、
課題を解決する人材提案ではなく「とにかくできるだけ年齢は広く、経験は浅く」を考えていた。
実際、未経験の案件を獲得すれば、成績は確実にあがるし、CAからは「あてどころのない求職者が山ほどいる!」といって喜ばれた。
そして何よりも、業績が高いほど称賛されるシステムだったことから、図らずしも自分もその流れに乗っていた。

そもそも、採用のその先のことなど考える余地もなかった。決定し入社後に気にするは6ヵ月以内退職で発生する返金のみだった。
寝ても覚めても、採用、採用。そして採用成功の定義は、「決定」であり業績だった。

社内の会話もいびつだった。
クライアントのことをスポンサー(通称S)と呼び、案件内容ではなく、「決まりやすいかどうか」だけが重要言語。
「顧客のために」という言葉はあったが、「どう役に立つのか」という言葉は少なかった。
案件を未経験に下げる技術や、計上を上げるために早期に意思決定や退職交渉に入らせるためのスキルを学び、
クライアントは成長性ではなく、バックオーダーと呼ばれる採用人数で良しあしを判断していた。

「お前はどうしたいの?」も、前提に「(達成するために)お前はどうしたいの?」だったので、
どうしてもベクトルが自分の欲に向いてしまいがちだった。

すべてが悪いわけではないが、爆発的に成長するマーケットで高回転で仕組みを回すためには、
カスタマイズではなく徹底したオペレーションを高度に回すルールが必要だったのではと思う。
これが早期にマーケットリーダーになるための戦略・戦術であり、戦略と文化のハイブリッドが市場成長以上の業績を叩きだす原動力となっていた。

悪い面ばかりではなく、良い面も多分にあった。
今の自分の素地を築いてくれたのは間違いなくリクルートキャリアのお陰と言い切れる。
爆発的な量に塗れたおかげで数千枚の求人票を書き、10万人以上のレジュメと進捗を見たことで、
さまざまな業界、会社ごとの特性、職種、役職、採用要件と選考フロー、求職者のキャリアと志向を嫌というほど体感した。
そして何よりも、達成の喜び、成長感、支え合い称賛し合う居心地の大切さ、仕事の足腰が鍛えられたことは何にも代えがたい喜びであり、自己肯定感を極限まで上げてくれた。

入社4年目、30歳を過ぎたころから、違和感が大きくなっていった。
その頃私は、リーダーという職位でメンバー3名の教育を行うプレイングマネージャーのような仕事をしており、
業績も順風満帆、チームは全国MVPに輝き、個人でもマーケットNo.1、周りからの見え方も変わってきていた。
ただ、社内で偉いとか、凄いとか言われるほど、何がそんなに凄いのか、わからなくなっていた。

実際、お客様に「MVP獲りました!ありがとうございます!」と報告しに訪問した際、
「よかったね、獲れて。ただそれはリクルートさんの中でやってるだけで、うちの採用は火の車なんでもっと助けてください」
「そんなことより、小山さんから採用した人、なかなか活躍しなくて大変なんだよ」

など、自分のMVPなんて、お客様にとってはどうでも良いことで、本当のMVPはお客様からいただかないといけないのだと強く感じたのを覚えている。

また、リクルートキャリアは分業制だったので、RAである自分は求職者にお会いしたこともなく、
採用決定して入社後、お客様から「小山さんからご紹介いただいた方、連れてくるね」と言われても、その方とは初対面なので名刺交換から始まる。
それを見たお客様から、「そっか、、、小山さんは会ってないんだもんね。」と残念そうに言われたのは毎回心苦しかった。

教育担当だったメンバーにも「お客様になり切ったつもりで考えろ、仕事をしろ」と言っていたが、
言っている自分はどうなのかとも常に思っていた。

偉そうに振舞っているけど、自分は本当にお客様に認められているのか。
役に立っている自信はあるようでなかった。
採用充足に向けた動きは鮮やかにできる自信はある。社内の仕組みも熟知しスムーズに動かせる。
ただ、お客様から経営の相談をされたら答える自信などないし、そのシーンを考えるだけでフリーズした。

そんなこと考えていると、急に仕事への熱が冷めてきた。
こんなことをやっていて何の意味があるんだろうと思うと、さっきまでの情熱が嘘のように消えていった。

そんな折にリーマンショックがやってきた。
忘れもしないのは、全社に対して「派遣アシスタントを中止します」の告知である。翌日、会社からアシスタントと呼ばれる派遣の方々は全員消えていた。
そして、とめどない退職勧奨の嵐。
成績を上げていないメンバーたちは、軒並み肩を叩かれ、早期退職金をアテに辞めそうになる優秀層の引き止めもすごかった。
どんどん社員が減っていった。売り上げも1/4くらいが数か月で消え、達成する人は誰もいなくなった。

雇用を生み出す会社が、いとも簡単に雇用を切った。
ショックというか、「あぁ、そういうもんなんだな」と理解した。
事業だから。自分たちが創ってきたものとか、思い入れとか関係ない。マーケットが縮小しているのだからしょうがないのだと。

自分にとってはちょうどよかった。
ここにいてはいけないと思っていた矢先だったし、「30歳を過ぎたら独立する」と決めていたから、早期退職金を資本金にして独立できる。
渡りに船だった。
そして、「人材紹介業界には二度と戻ってこないだろうな」と本気で思っていた。

2009年9月にリクルートキャリアを退職し、独立を決めたもののネタがなく、
仕方なくお客様をフラフラと周り、「自分は何をしたらうまくいくと思いますか」と聞いて回ったが、
「そんなもの、成功するのがわかってるなら自分たちがやってるよ!!」と怒られるのが関の山だった。

そんな中、リクルートキャリア時代に最も良くして頂いた株式会社ビルケンシュトックジャパンの取締役の小野さんが、
「君、まだ何も考えてないなら、うちで新規事業マネージャーやってよ」
と声をかけられ、「どうせやることもないし、新規事業の練習だと思ってやるか」ぐらいの気持ちで入社した。

ビルケンシュトックジャパンは、従業員100名、売上40億円くらいの中小企業だったが、業績好調で伸びていた。
リクルートキャリア時代には、部長やマネージャーといった管理職層を軒並み採用頂き、同社への取り組みはリクルートキャリア社内で称賛されるものだった。

ただ、入社して愕然とした。
当時、「この人は採用すべきです!」と熱く語ってご採用頂いたマネージャー陣たちと顔合わせをしたが、
ほとんどが活躍しておらず、むしろ社風を悪くしていた。
「自分がCAだったら絶対に紹介しないのに、、、」
ここでもまた、お客様に価値を届けていたのかという疑問が大きくよぎった。

ビルケンシュトックでの新規事業ミッションはBtoBの市場開発だった。(ビルケンシュトックはドイツを本国とし、ブランド靴ビジネスを展開する小売事業を展開していた)
北海道から九州まで、病院、レストラン、ホテルを中心にスーツケースに商品をギッシリと詰め込んで販売機会を探っていった。
時にEXILEの事務所まで売り込んでみたりと、可能性があると思えばどこへでもいった。

お客様は面白がってはくれたが、1足1万円以上のシューズを従業員に履かせるのはコストが合わないと、ほとんどの会社に断られた。
その時感じた。
「価格に見合うメリットがないと誰も買わない。リクルート時代はそんなことを考えなくても数百万円を払ってくださっていたのに、1万円でも高いと言われるのだ」
お客様への価値とは何か、ビルケンシュトックの高いシューズを喜んで購入いただくにはどうすればよいか。
機能性を訴求するため、京都大学の教授に頼み込み実証実験をお願いしたが、本社よりNGがおり断念。
JISマーク認定シューズにしたくカスタマイズを願い出たがドイツ本国よりNGで断念。
ならデザイン性で勝負だと、高級ホテルに売り込んだところ、あるオーナーがビルケンシュトック好きで導入してくれた。
なるほど、ビルケンシュトックを知る人に「業務用」という一般では買えないメリットを出せばよいのかと思い、
業務用スーパーへ厨房専用シューズと訴求して陳列したところ、飛ぶように売れた。
ここまで来るのに1年かかったが、報われた思いだった。
マネージャーというタイトルだったがずっと一人で営業してきたので、達成感より、苦労と開放感のほうが大きかった。

ビルケンシュトックは、商品はとても愛着があったが、社内の派閥争いや、真摯さに欠ける役員、部長陣と肌が合わず、
結果がでたことを皮切りに退職し、次の道を模索することにした。
この時もやはり、社内では顧客の話をする人は少なかったように思う。デザインブランド故のプロダクトアウト戦略はそうなってしまうのかなぐらいに感じていた。

当時31歳。この時もやはり独立するネタがなく、どうしようと思っていた矢先、またもやリクルートキャリア時代のお客様からお声がけを頂き、フラフラと話を聞きに行った。
彼らは中国でビジネスを仕掛けるという。中国は日本人の人口と同じ1億人以上の中産階級富裕層がおり、日本企業は中国進出の突破口となるターゲットを富裕層に絞り込んだものの、囲い込み戦略に苦戦していた。
彼らが言うには、中国は個人情報保護法が緩く個人情報売買が可能であり、富裕層の個人データを1億人以上保有するロードウェイという会社とジョイントベンチャーを創り、
日本企業に一気に個人情報を流し込むダイレクトマーケティング事業をやろうという話だった。

当時、全然意味不明だったが、即座にOKした。

起業は、誰もやっていないことをやるもんだと思っていた私は、中国=グローバル市場、富裕層=高単価、顧客は大手日本企業の掛け算に未来を感じた。
そこから1.5年、七転八倒の日々が続いた。
英語も中国語もダメ。営業以外はほぼ知らない。プロジェクトでのチームワークもよくわかっていない。
もっというと、中国への航空券の取り方もよくわかっていないぐらいのレベルだったので、歴戦の経営者ばかりのチームメンバーの皆様には多大なる迷惑をかけたし、
「お前は派遣以下だ。この金食い虫!」と罵られ悔し涙を流した。

それでも、「デューデリしてこい」と言われれば、デューデリのデの字も知らないのに上海に単身で乗り込み、
提携先の中国人社長に失礼な質問をして軟禁されたり、電通の局長にプレゼンしろと言われれば、緊張して死にそうになりながら話をした。
契約形態も、途中から出来高に変え、売り上げが上がるまでは自腹でやることにしたので、
毎月の出張費用やホテル代、自宅の家賃や食費などで毎月50万円以上ずつなくなり、貯金はほとんどなくなった。

ただ、我ながら度胸はついたし、意外とやればなんでもできるもんだなと、人一倍の自信はついた。

中国時代

※上海にてメンバーとの一枚。私以外全員経営者。今でも気にかけていただいており感謝しかない↑


中国ビジネスは、提携社長の逮捕によりあっけなく幕を閉じた。
ただ、それよりもそもそも、ビジネスモデルに無理があり、これはダメになるなというのは現場で肌で感じていたので、予定より早く幕を閉じただけの印象だった。
私は貯金が底をつきそうになっていたこともあり、日本での再出発を余儀なくされた。

そして、
日本に帰国する前の安宿でのビジネスパートナーとの会話が私がエイトシークエンスとして人材紹介事業を再び志すきっかけとなる。

今でも私のメンターであり、大きな兄貴のような存在である奥園さんとの出会いは、私の人生にとってかけがいのないものだと思っている。
一泊1500円程度の安宿に二人で宿泊し、汚い布団のうえであぐらをかきながら、「これからどうしましょうか」と言っている私に奥園さんは、

「小山ちゃん、俺にずっと、リクルートの時の話ばっかりしてるよ。キライだとか人材紹介は戻らないとか言ってる割には、もっとこうだったらとか、あーだったらとか。そんなに言うんだったら、自分でやってみたらいいのに」

目から鱗だった。
まったく気づかなかった。でも確かに、リクルートキャリアのことは嫌いじゃない。
企業が数百万円払ってでもお願いしたいと思う、価値のあるビジネスをしていたと思う。
ただ、もっとよくできる。もっとあるべき姿に変えられる。そう思い続けていたのは事実だった。

当時は人材紹介事業に後発参入するのは起業ではない。という思いもあった。

ただ今は違う。先発とか後発とかではなく、どちらが顧客が喜ぶかだ。
ビルケンシュトックや中国事業で、顧客に価値を感じてもらえなければ一円だって払ってくれないことを学んだ。
問題は顧客志向がどうかである。

あともう一つ、日本に帰ってやりたいことがあった。
自分のような大したことのない人間でも、中国へ渡り、失敗はしたものの、やるだけやれたのだ。
それなら日本にいる優秀な人たちがやれば、もっともっとうまくいく。彼らの背中を押したいと思った。

また、中国人と日本の国民性の違いにも影響を受けた。

中国人は絶対にできないことでも「できる」と言い切って地位や金を獲得する「ない袖を振る」人種。
日本人はできることも「できない」と言ってチャンスを失う「ある袖も振らない」人種。

白のタンクトップを着てフライパンを振ってたようなおじさんが、プログラマーとかいって応募してくる国なのだ。
もちろん、プログラマーなんて真っ赤なウソ。

でも思った。
どっちの人種が成長を手に入れるだろうかと。間違いなく中国人だ。
日本人は謙虚が美徳という罠にはまって、結局は何も手に入れられず文句ばかり言っている。
そんなことではだめだ。謙虚というメンタルブロックを外してやりたいことを実現させる後押しがしたい。

そんな思いを胸に帰国しすぐに有料職業免許をとり、人材紹介事業をはじめた。

安宿

※上海の安宿。新たな出発のきっかけとなった↑


「顧客本位の人材紹介事業と、日本人のメンタルブロックを外し背中を押すこと」

これが私がエイトシークエンスを始めた時の想いだ。


最初は勝手がわからなかったので、
面談は一回2時間以上、面接前アドバイスなどを含めると一人当たり4-5回は面談し、
企業もリクルートキャリア時代にお世話になったたった2社(一社は古巣のビルケンシュトック、もう一社は日本アムウェイ社)とほぼ毎日やりとりし、
想いだけで手探りで緊張感の中、一生懸命向き合った。
メールの書き方一つもわからなかったので、2時間以上かけてメールを作成することもザラだった。

自信をつけた最大の出来事は、
日本アムウェイ社にジョンソンアンドジョンソンのスイス支社長の転職を支援した時のことだ。
彼からの質問にほとんど答えることができず、毎回アムウェイ社に訪問しては根掘り葉掘り聞いて、長文のメールを送っていた。
ポジションが経営層だったこともあり、面接は計6回にわたり、経営、事業、組織、ミッション、評価など、
彼からの質問への返答は小論文の束のようになった。

オファーの後、彼から「妻が反対しているんだ」と言われた時、残念だったがここまでやりきったのだから仕方ないと諦めた。
だが、忘れもしない、回答期限日、渋谷のスクランブル交差点で彼から電話がかかり、「オファーを正式にお受けします」と言われた。
なんのことかまったくわからなくなり、思わず「どうしてですか?」と聞いた時、
「あなたがこれまで私に送ってきたメールの束を妻に見せたんだ。そしたら妻が、『こんなに誠実に取り組んでくださる方がお薦めしている会社なら、きっと誠実な会社なのね』とOKしてくれたんだよ」と。
そして、「私も思う。君は世界一の人材エージェントだよ。私には世界中から数々のオファーが来るが、嘘偽りなく誠実にやってくれたのは君だけだから」。
「ありがとうございます」といって電話を切った後、渋谷のど真ん中で泣いた。嬉しかった。こんな自分でも役に立てた。
なんの想定もできなくて受け身で、ダメダメだと思っていたのに、世界一と言われた。
人材紹介事業には二度とタッチしないと決めたのに、戻ってきてよかった。誠実に向き合い、理解を諦めず、顧客同士の期待を結び付けられた。
報われた思いと共に、これは大きな自信に変わったことは間違いない。

その後、求職者の方と涙を流したことは数知れず。「おめでとうございます」「ありがとうございます」と涙声で握手し、一緒にお祝いディナーにいくことも多かった。

創業時のホームオフィス

※創業時のホームオフィス。センスが悪いのとモノが多い↑


それから9年の月日が流れた。

だんだんと器用になり、面談はほぼ1時間でできるようになってきたし、企業も社長との会話が少しはスムーズにできるようになってきた。
共に働くメンバーも増えたり減ったりしながら、その都度、その方にとって私との時間が無駄になっていないかと心を痛め、自分がなんのためにこの会社をはじめたのか自問自答を繰り返し、8年目に入った頃からようやく言葉にできるようになってきた。

いつまでも変わらない、根本にあるもの、それは、

顧客を理解し、前進させることだ。

少し言葉は変わったが、「理解する」という言葉の重みと深みに、日々、追求がやまない。
そして、「どうすれば前進させられるのか」。自分に役に立てることはなんなのか。

企業がなんのために採用をするのか、事業成長において今重要なことは何なのか。
個人の方がなんのために転職をするのか。どのような人生を生きたいのか。本当は何を求めているのか。

このことばかり考えて仕事がしているのは今も変わらない。


「豊かな社会へ想いを繋ぐ」

抽象的な表現になったが、私は「豊かな社会」とは一人ひとりが「幸せ」を感じることができる世界だと思っている。
それは決して単純に欲が満たされることを是としているわけではなく、
その人がその人でいられる状態、「こうあらねばならない」と何かに抗うのではなく、自然体でいる状態。
誰かに影響されることなく「あぁ、幸せだなぁ」と思える時間をどれだけ創ることできるのか。

マズローの欲求だと最上位かもしれない。でも誰もが一段ずつ昇っていきたいと思っているし、その背中を押したいのだ。

そして会社。言葉を変えれば組織。
人は一人では生きていけない。
なんらかのコミュニティに属しており、中でも最も大きな存在が会社という組織である。

組織にも目的や想いがある。むしろ一人で果たせない目的を達成するために組織がある。

個人は組織の目的や思いを叶えることと、自分が幸せになることを両立することが求められる。
これは職位に関係なく、全員である。
創業者は組織の夢と自分の夢を重ね合わせやすいが、厳しい市場環境でリスクを負って不退転の精神で戦うことが求められるのは、
果たして幸せなのかと思うと、彼らも常に組織と個人の幸せの両立に向けて戦っている。

簡単に書いているが、この状態をいかに創り出すかは永遠のテーマである。


「個人の幸せと組織発展の両立を追求する」

エイトシークエンスが目指したいのは、組織と個人の在り方を定義し、繋ぐことである。

人は変わるし、組織も変わる。
だから正解も日々変わる。

エイトシークエンスが追い求めるのは売上を伸ばしたり、社員数を増やすことではない。
我々が繋ぐ、組織と個人、それぞれの発展に繋がる最適解を探しつづけることである。

人材紹介業は数字に一喜一憂されやすい。

単価が高い分、採用/転職を実現させることが是となりやすい。
目標設定も業績主体だからなおさらだ。
ただ、大事なのはプロセスだと思っている。

どこまで企業と個人を理解し、両者の目的の奥深くを理解したうえで、納得した結びつきを創ることができたか。
転職という点の実現よりも、最適な解を見つけるべくベストを尽くしたかどうか。
ベストを尽くすために、エイトシークエンスだからこそできる取り組みは何か。

経営者と会うことは、単に独占的な案件を獲得するための手段ではなく、明日への期待と不安の中で彼らの背中をどう押すべきかを考える場であり、
面談でお会いした求職者の方が、紹介した案件にエントリーするかどうかより、その方自身が我々との対話で何かに気づき前進したかどうかを見て欲しい、
エントリーした求職者が書類選考で落ちた時の彼らの気持ちを考えてみて欲しいし、面接前でドキドキしている彼らを少しでも自信をつけられるようできることは何かを考えて欲しい、


日々当たり前に流れる一つ一つのプロセスが、人の心に触れていることを忘れず、お客様の心に触れながら、自分が何の役に立てるかを考える。

そんな顧客本位の心を持った集団が「エイトシークエンス」というチーム名だったらどんなに素敵かと願っている。

それを戦略や戦術という形にするのであれば、


エイトシークエンスは、
日本で最も確率が高い人材紹介事業であり、
組織のことを相談できるCHROやNo.2不在の経営者と、心のどこかで自分に歯止めをかけている個人(特に実力があるのに発揮する環境を得ていない方)に対し、
経営者(個人)の壁打ち相手となることで事業と組織の課題(幸せの定義とキャリア)を整理し、前進するソリューションを提示する。
そこにはKPI型のマッチング事業を行う人材紹介会社でも、組織コンサルティングだけを主体としている会社でもできない、
組織と個人との発展をリアルに実現できる力が存在する世界でただ一つの会社である。

また、
顧客理解に繋がるソリューションはすべからく実施し、組織コンサルティング、キャリア開発、採用代行、エグゼクティブコーチングなど、
背中を押し前進させる事業をどんどん展開していく。

2021年はその皮切りとなる年になると思っている。


最後に、
エイトシークエンスが目指す世界観は、ティール型、ホラクラシー型などと言われ新しい組織の形と言われている。
ただ私は、そんな組織論とは関係なく、人は幸せに生きたいし、組織は目的に向かって発展したいのが当たり前だと思っている。

組織と個人の対等さや公平さは、コロナによるリモートワークや、フリーランス社会の台頭などにより、一層注目を浴びると思っている。

働き方の変化が生まれたこのタイミングに生きていて本当によかったと思う。

今、組織と個人の幸せの形を創り出すチャンスを得ていると思っている。

ここに向かって邁進したいと心から思っている。

2021.1.1

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