チカラ1 コンタジオン(積極的な感染)
Frank Michelettiさん / Kubilai Khan Investigations
2002/10/27 @ 七つ森(高円寺)
フランクさんは、遅れて到着したことを気にかける千晴さんに続いて、ゆったりと高円寺駅の改札を抜けて来た。
舞台で見たときの印象に比べると小柄に感じたが、しっかりとした顔つきで堂々とした、それでいて物腰の柔らかな人だった。前日までタイを旅していたとのことで、タイのきれいな民族衣裳をジーンズに合わせて着ていた。それを僕と友人に得意に見せてくれた。
Kubilai Khan Investigations(以下 K.K.I.)は、多国籍のアーティスト達によって構成され、様々な都市に滞在して作品を創作している。
どの分野にしろ、1人として同じバックグラウンドを持ったメンバーがいない。創作活動の中で、その内のどの分野が優先されるわけでもなく、全員がゼロから一緒に始め、交換、交流する。
彼らの中心的なテーマは地理・距離・文化・アイデンティティー・人種・摩擦・交換・一枚の世界地図のような人間の存在、といったこれら全ての味を活かしたところにある。
Tanin No Kaoという作品は、1991年の冬に、祖国に強制送還される途中で殺されたスリランカ人の話がもとになっている。
ヨーロッパには、自国から逃れようとする人々が許可なしにたくさん入ってくる。その多くは、政治的理由、経済的理由、生きるだけの生活から逃れるため。彼らは不法移民と呼ばれる。
フランスにはいくつかの不法移民収容施設があり、移民達は不潔でひどい環境の中に収容されているという。1991年当時、フランスはこうした不法移民収容施設において、人権の面から非難されていた。その為、フランス政府は不法移民達を専用のチャーター便で祖国に帰すという決定を下した。
あるスリランカ人がホテルの最上階に設けられた収容所に入れられた後、一般人と共に飛行機に乗せられた。しかし、彼は飛行機の中で祖国に帰されることに抵抗し、付き添った2人の警察官に口をガムテープでふさがれ、殴られ、窒息死させられた。この話は政府の圧力で、4年間メディアで伝えられなかった。
Frankさん:
どうやって許可なしに領土内に入ってくる不法移民達を管理するかってことが、(作品の)動機であり、テーマだった。
なぜ彼らは祖国を離れなくちゃいけないのか? とても複雑なこと。僕は、このスリランカ人の出来事は、社会がより複雑となり、僕たちを強制し、一方で僕たちが物質的に豊かにされていることを示していると思う。
民主主義の最初の目的は、みんなの日常生活がもっとより良いものになるために掲げられたものだったのに、今はそれがただの秩序になってしまっている。少数派の上部の人間のためにだけ働いているようになっている。
僕はそれに同意しない。僕らはシステムに抵抗することを舞台と共に試みるんだ。僕らがモノを、舞台をつくる。その時、きっと見る人の心を動かすことが出来ると思う。君たちの記憶に1つの痕跡を残すんだ。1つの力。君たちが違った考え方を始めるということ。
一人一人が時間、空間、生き方、考え、独自のものなど、少し変わったものを持つことは、内の内のこと。何故なら、僕らはシステムの中にいるのだから。僕はこのシステムに従い、これを使い、同時に使われてもいる。
だから頭の中だけで試みるんだ。きっと少し人生を改善してくれると思う。システムに抵抗するひとつの方法。
世界で起きていること、大きなこと、自分と直接関係のないこと、他者のことを考えるということ、それは何なのだろうかと思った。
他者意識を持たない人生を、僕は勿体ないと思う。何故ならそこに1つの相互性があるから。人は自分に必要なものは自分で取る。しかし、人はまた多くのモノを他者の視線から取る。
他者の視線の中に自分の視線を置くこと、他人の目の中にものを探しに行くこと、それが出来ることはとても重要な栄養だと思う。
他人を認めるためには、自分を持つ必要があると思った。
自分が怖くないって時は、きっと他人も怖くないってことだと思う。だから、他人が怖いってことは、自分自身が怖いってことだと思う。
しばしば防御は必要。でも、鈍感過ぎるのも問題。恐れるんじゃなくて、自分の中にモノを入り込ませるんだ。守ってたら何も入ってこない、何も。
コンタジオン(フランス語で「感染、接触」)。積極的感染だよ。それは1つの入ったり、出たりする動き。出ていく者と、帰ってくる者を持つ必要。
これはスリランカ人が帰らないって決めたことに繋がる。人は入ったり出たりすることが必要。大切なことは距離。動ける、歩ける、移動できる距離。国境は必要だけど、通過することを許すものでなくては。
ダンスは空間と時間が1つの発明だってことを探すこと。
空間と時間を作り出すことに責任を持つということ。こうしたことを全く考えない人がいる。彼らは決して能動的じゃない。空間に、時間に、社会に受身。いつも受身。
社会は受身の人間を作り出す。操作しやすいから。もし、僕が時間と空間を発明できるとしたら、そちらを選ぶ。だけど、それは操作されるよりずっと難しいこと。
自分自身に責任を持てば、僕はもっと大事な他者の存在に関心を持つことが出来る。母親と父親は、子供の存在に責任を持つ。それは人間にとって1つの自然な動きだよ。
親が子を無償で愛するように、そこに愛するための要素が無くても出来るとしたら、同じく差別も、そこに差別するための要素がなくても出来ることだと思った。愛と差別という、選択と排除によって文化が成り立ってきたのではと聞いた。
悪を探すんじゃないんだ。例えば、病気。僕らは、病気は元々その人にあったわけではなくて、違うところから来たのだろうって考える。自分が自分を作り出したと思っても、属している文化が自分を作り出したことでもあるってこと。
自分は自分だけど、自分だけじゃない。自分が能動的であること、責任を持つことに繋がる。踊りは覚醒する、受信するってこと。無限の可能性のために、この視点持つということ。無限の可能性のために。
君も風の流れや、雲の動きを見るよね? 僕の中では、雨が降って、雪が降って、日が照っているに違いない。乾燥しているかもしれない、寒いかもしれない、1つのものじゃない。
フランクさんのことばを頭に通過させるだけで精一杯な僕をみかねて、千晴さんが言った。
自分というものを個として考えないで、変わっていくとか、良い意味で混乱した状態にいるってことは決してネガティブなことじゃないってこと。
最後にK.K.I.で実験していること、魅力を聞いた。
僕たちは音楽・映像・ダンスを使う。踊ること、音楽をつくること、映像をつくること、それは同じことじゃない。違う記憶の上で働く。僕らは、人間の違った受信器官の上で働くんだ。
この集団は地球のミニチュアのような場。みんながどのように共有し、耐え、共存し、どのように1つのイメージを異質な要素、自然な違いの要素からつくり出すのかっていうことが面白い。そう、自然な違い、面白いんだ。
千晴さんとフランクさんと友人と共に、高円寺のルック商店街を歩いた。
フランクさんはいろんなものに寄っていく、あちこちに、感染していく。千晴さんが「ほら、早く行こ。ホテルのすぐ近くだから、また来れるから」と急かしていた。
僕らは阿佐ヶ谷のBGMとお酒の店『阿呆船』に向かった。
もくじ
守らないで守ることの力
チカラ1 コンタジオン(積極的な感染) : Frank Michelettiさん
チカラ2 私はつまらない人間でいいです : 間宮千晴さん