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ヨーロッパで時代を変えた事件

先週に滞在したプラハでは、二日連続で外務省を訪問しました。その中でも、二日目の訪問は私にとって貴重な機会となりました。

チェコ外務省庁舎
こちらは、エドヴァルド・ベネシュ大統領が、ミュンヘン協定をの文書を持ち失望している様子の像

こちらの美しい中庭は、歴史あるチェコ外務省の庁舎の中にあるものです。こちらの上階には、外務大臣が宿泊する部屋があり、ベッドやバスルームがあります。ここはぜひとも、長い時間、一度訪れてみたいと思っていたところでした。

こちらは外務省宿泊室のバスルーム
そしてベッドルーム


私の博士論文を基にした『戦後国際秩序とイギリス外交』をお読みいただいた方もおられるかもしれませんが、戦後初期の大国間協調の英米仏ソの四大国による外交理事会を通じた協調外交から、冷戦分断の時代に移行する転換点となったのが、1948年3月10日のチェコスロバキアのクーデタでした。

それまで、チェコスロバキアは、親西側の政党と親ソの共産党との連立政権でした。しかしながら、前年から東西対立がより一層構造的、固定的となっていきます。そのような中では、チェコスロバキアでの連立政権の維持はより難しくなり、さらにはソ連政府からの強烈な圧力によりチェコスロバキアは戦後経済復興のための必要とし、求めていたマーシャル・プランによるアメリカからの経済援助の計画に参加することを断念します。

より一層強力なソ連からの圧力。そしてアメリカやイギリスなどとの提携を断念せざるを得なくなった失望。外務大臣であり、建国の父の子でもあるヤン・マサリクは失意の中にいました。

そのマサリク外相が、このプラハにあるチェコスロバキア外務省の庁舎の外相宿舎の窓から転落死したという衝撃的な知らせが入ります。当初は「自殺」ということになっていましたが、しかしながら、冷戦後のさまざまな研究によれば、不自然な点が多く、その部屋で格闘した様子があり物が倒れていたことや、遺書がないことなどから、共産党関係者により窓から投げ落とされた可能性が高い、と言われています。

こちらがその窓。ちょっと高い位置にあるために、自殺は考えにくい
眼科の中庭。マサリク外相は、こちらに転落して死去しました。


現代史の転換点となった事件が起きたこの部屋を、ぜひ一度直接みたいと思っていました。そして、チェコ外務省の方は、親切にもそのような私の願いを伝える前に、ぜひ貴重な機会なのでこちらの部屋を見てくださいと、ご案内をいただきました。

確かに、窓はかなり高い位置にあって、よじ登って飛び降りられるような感じではありません。

この現職のマサリク外相「自殺」事件の後に、結局共産党の一党独裁政権ができて、共産党以外の閣僚は辞任します。そして、その後多くの非共産党系の政治家は政治の舞台をさり、中には政治犯とされるものもいました。イギリス外務省は、これを見て、24時間のうちにチェコスロバキアが、西欧的な民主主義国家から、ソ連同様の一党独裁体制となった、と衝撃を受けました。同様に、アメリカ政府も、ソ連の強引な行動と思われる帰結に、大きく共産主義勢力の暴力性、非妥協性の強い印象を受けます。

私自身、歴史の舞台に足を運んで、実際にその景色を見ることや、可能な場合に歴史の舞台にいた政策立案者、あるいは政治指導者からお話を聞くことは、立体的に歴史を理解する上での重要な基礎になると感じています。

ミュンヘン会談により、大国の主導で自国の主権的領土が失われたチェコスロバキア。そしてソ連による間接的な強行措置により、民主主義を否定され、独裁体制へと余儀なく転換された国家。

決してこれは昔話にすぎないのではなく、今身近でも同様のことが起きています。チェコスロバキアのクーデタは一つの契機となり、その後の世界史を大きく変えていきました。21世紀の現在では、ウクライナ情勢が今後の世界史を動かすでしょう。

現在のロシアのウクライナ侵略の帰結が、もしかしたら新しい「冷戦」あるいは、新しい暴力と対立の時代をもたらすことになるかもしれません。そして、それを回避することこそが、切実にわれわれが模索すべきことだと考えます。

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