そこにある壁 ~居場所のない賢者達~
自分で勉強し、ある程度の知識を得た状態で何かを始める。
そこにあるのは壁。。。
壁を乗り越えて目標を達成するというのも既に時代遅れ。
全世界的に地球規模での問題を解決しようと考えているときに、その壁を越えてしまうことは壁を越えられない人達を置き去りにすることと同義となって取り残される存在ができてしまうから。
資本主義なのだから、進む人とと残る人ができる事も仕方ないというのも時代遅れ。
そもそも本当の資本主義とは何なのかという疑問すら生まれてしまう現代で、一つの歴史的主義主張を正義と掲げてしまうのはどうだろう。
壁と時代遅れにはかなり相関的な関係が存在しているようなので、どちらも乗り越えるではなく、排除する方向性で考え行動しなければ永遠に進歩は見えてこない、混沌とした時代の流れの中で今以上に無意味な時間を過ごすことになるのかもしれない。
大草原をリーダーが先頭を切って行進して統一を図る時代には、様々な人や物、現象を集団で認識でき統一もできたが、小さな壁が点在する現代ではその壁を乗り越えた先に統一は待っていない。
富はあっても幸ではない状態を恐れ、リーダーは新たな壁に囲まれた居城を気付き、結果としてその他の壁と同化する。
歴史は積み重ねていくものという概念も時代遅れなのかもしれない。
歴史上残忍な破壊は多々存在してきたため、破壊するという事が悪であると無意識に認識してしまっているのかもしれないが、これは形あるものいつかは壊れる的な発想、ものや情報に溢れる状態からの創造は、そこにあるものを壊すことで新たな創作が行えるということ、これを基準に考えていかねばならず、善と悪の定義自体が壊れていることを認識しなければならない。
今の賢者達は壊すことを進めるものであり、未だに悪とされる行為を結果を出して推し進めなければならず、その力の範囲が弱いと殻に閉じこもる傾向がある。
肯定する人々を集め、その中の社会で外の世界で認められる事を実現すればいい、それが社会の役に立っていれば良いという思考なのか。
社会への貢献を創造するのであれば、それ自体を否定する気は無いが、一つの組織を作るのであれば、これからはその組織のあり方や創造方法を広く世の中に指し示し、時間と場所の障害を越える再現性を提唱すべきである。
これが行われないのであれば、自身が新たな創造をしたときに感じた壁と同様な存在になってしまうことを認識すべきであろう。
真の賢者は壁を壊し前へ進むが、既存の壁や新たにできる元賢者達の壁によってその存在場所を失いかねない。
すなわち、壁を乗り越えるために知識や教養を身につける時代は終わり、今そこにある壁をどのように壊し新たな創造を与えられるか、それがこれからの一時代の流れのキーワード。
壊し方や壊れ方、周りへの影響やその先にある未来をどれだけ想像できるかが賢者達の人間的課題なのかもしれない。