「障害者だからできる」という自分の言葉の差別意識から、見つけた答えのでない問い
「利益のないところを大切にする会社をつくりたい」
この言葉を見つけたとき、私は複雑な感情に襲われました。それは、「素晴らしい」と「いや無理でしょ」とがきれいに50:50でブレンドされた状態でした。
利益のないところを大切にするとは、たとえば、日々の挨拶であったり、ちょっとした気遣いであったり、トイレ掃除であったり。やったからと言って何かが良くなるかどうかは、はっきりしないけれど、やったほうがいいことです。
そのほかにも、利益を生みにくい新規事業であったり、広報や人事など利益に直接貢献しない仕事をしている人にとって、共感できる言葉だと思います。
それと同時に、会社は利益を求めて活動します。営利団体です。お金がなければ動くことすらできない存在です。この前提条件を考えれば、最初の言葉はただの甘っちょろい理想論にしか感じられなくなってしまうのです。
しかし、この会社は北海道の浦河町に存在します。ただし、1つ特殊な条件があります。それは母体が福祉法人であるということです。
北海道の浦河町にある「べてるの家」という精神障害を抱えた当事者の方たちが運営する地域活動拠点があります。その地域活動拠点・グループホームのメンバーさんが主体となって設立されたのが、この「利益のないところを大切にする」会社です。
この事実を知ったときに、私は恥ずかしながらこう思いました。
「障害者の方たちが運営するという特殊な環境だからこの会社は成立しているのではないか」と。
そして、その自分の思考に愕然としました。差別意識がそこに隠れていたからです。
障害者という言葉は、日常生活に「障害」があるという意味で使われています。そして、最近では、障害者の人たちが、日常生活を送るためには、社会の側に「障害」があるという意味でも使われます。
どちらにしても、障害者と「社会」との間には、何かしらのバリアがあるということです。そして、このバリアを作ったのは、(意識的にしろ、無意識にしろ)障害者でない人たちです。
そのために、特別学級・養護学校・グループホームなど、一般的な(もしそれがあるとすれば)日常生活を送れない人たちのために、用意されています。
その根本になるのは、「障害者だからできない」というふうに考え方です。しかし、それと同時に、私はこのバリアを逆手にとって、「障害者だからできる」と都合の良い使い方をしてしまいました。
自分たちは、競争社会の中で生き抜いていかなければいけない、資本主義を無視することはできない、だから、彼らのようにはできない、と。
でも、本当にそうでしょうか?
本当に「べてるの家」ができたことは、私たちにはできないのでしょうか?それは、障害者の人たちだからできた、社会の特異点でしかないのでしょうか?自分たちの生活・社会・経済を前提として考えすぎてはいないでしょうか?
正直なところ、まだ答えは出そうにありません。どう答えたらいいのかわからない問いを見つけて、深く戸惑っています。が、この問題にはもっと長く深く付き合っていかなければいけない、そう感じています。
この問いを見つけるきっかけをくれたのは、「変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから」という一冊でした。
この本の序文のところに、著者の清水義晴さんが、友人の選挙の選挙対策本部長に任命されたエピソードが載っています。
選挙の世界は、勝つことが至上命題です。負ければ何にもなりません。しかし、この時、清水さんが勝たせたかった友人は、この「勝負」で全てを決めてしまう今の世の中をどうにかしたいと思って、出馬しました。
この勝たなければ意味がない中で、勝ち負けが全てではないという価値観をどうやって押し通すのか、を悩んでいた時に、「べてる」のメンバーの一人から、こんな言葉をかけられたそうです。
「清水さんが負けつづけることが、きっと選挙に勝つことにつながるんだよナー」
この言葉を聞いた清水さんは、深く深く納得したそうです。しかし、これを読んだ時の私は、いい言葉なのはわかる、深い言葉なのもわかる、でも、「これだ!」という強い感覚はありませんでした。
だからこそ、この言葉の意味がわかるように、もっともっと悩み続けなければいけない、そう感じました。