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【エッセイ】踏ん張りどころの木曜日
木曜日はいつも体力が尽きそう。そのうえ、今週末は予定がたくさんある。
金曜日には地元に帰って役所に行かなくちゃいけない。土曜日は通院。しかも初めましての心理士さんとのカウンセリング。緊張。日曜日は1年半ぶりくらいの美容院。
いつから一つ一つの出来事に対して、大なり小なり精神的な『疲れ』を感じるようになったのだろう。子供の頃はそれなりに活発だった気もするが。
いや、いつまでを『子供』と定義するかにもよるか。自分のことを考えると、訳が分からなくなる。わたしの場合、恐らく一般的な家庭よりも成人するまでにターニングポイントが多すぎる。自分史を作ったとして、切り取る時期が少しでもズレると全く違う人間像が浮かび上がってくる。
一つずつ、振り返るしかないのだろう。
わたしの記憶がある時代から時間の許す限り、遡ってみようか。
わたしの記憶は東京都内のとあるファミリー向けのマンションで父と母と姉と暮らしていた頃から始まっている。今でもそのマンションのことはよく覚えているし、周辺のスーパーや銭湯、最寄りの駅もしっかりと記憶に残っている。
わたしは、当時とても大人しい子供であった。そういう認識が自分自身にもある。基本静かで、じーっと考えて、ひとりでに遊ぶのが好きだった。保育園に友達はいたけれど、特定の子と遊ぶのが好きで、『見慣れない世界』は苦手だった。
そんなわたしに、似合わない名を付け、名の通りに育つよう自分の気の赴くままに外へ連れ出したのが父だった。
やれ、1.5メートルほどある花壇から「飛び降りてみろ」だの、ベランダに止まった鳩を鷲掴みにして怖がる私の前に差し出したり、やりたがらないわたしを引っ張り出してローラースケートをさせてみたり…。わたしが泣くとよく笑っていたような気がする。
父はとにかくデカいひとだった。185センチの長身に加え体重も90キロ~100キロを行ったり来たりするくらいのガタイの良さ。父の母が背が高いのだ。
昔の女性ながら、170センチ近くはあったのではないだろうか。父の実家に泊りに行くと、祖母はいつも椅子に座っていたがそれでも背が高いのが分かった。引き換え祖父は凄く小柄な人だった。顔が湯飲みみたいな長方形の形をしていた。二人の記憶はあまりない。ただ、父の実家は昔ながらの家という感じで冬になると部屋の中でも白い息が出るくらい寒かったことは覚えている。
わたしは祖父に対してそんな印象は無いのだけれど、相当に厳しい性格だったようだ。暴力も日常茶飯事だったらしい。幼い父は大人になっても自分の父親に怯えていたとわたしの母はいう。
そういった家庭環境が起因してなのか、それとも父自身が生まれ持った素因なのか、はたまたその両方か、父も怒りのコントロールが下手な人間であった。母が離婚を切り出すまでの間、直接母や姉、わたしを殴ることはしなかったが、家の壁には拳骨の穴が開き、窓ガラスを割り、家じゅうのものを破壊して一度怒り出すと手が付けられなかった。らしい。
わたしはよく知らなかったのだ。幼かったからか、母や姉が必死で守っていたからか。先ほど述べたような父の奇行は覚えていても、それ類は何となくの記憶しかない。
………姉の涙を覚えている。
一度はわたしが泣かせてしまった。姉と私の父に血の繋がりが無いと知った時、わたしはそのことについて無邪気に母を問い詰めた。「お姉ちゃんは家族じゃないの?」そんなことを言った気がする。
もう一度は、両親の喧嘩中、わたしを震える手で強く私を抱きしめながら泣いていた。「こんなの嫌だよね。ごめんね。」と手と同じように震えた声で呟いた。
どちらの時もわたしは姉の涙につられて声をあげて泣いた。
今日の夕食はクリームシチュー。彼の仕事はもうすぐ終わる。
今日は、ここまで。