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神様との糸がちぎれないように

昨日(年間第19主日)は、所属している教会のミサ配信がありませんでした(体調が悪く教会へ行くという選択肢は取れない)。
どこか他にYouTube中継を配信している教会はないだろうかと検索したら、まだ視聴未体験の教会がひとつありました。
見られるだけでありがたい!!…と再生してみたところ、初めて拝見したミサは素晴らしいものでした。ありがとうございます。

その教会のHPによると、司式は主任司祭ではなくどこかの修道会の神父様。
修道会はとてもたくさんあるようなので、初心者マークの私はよくわかりません。
しかしその神父様のお説教のパワフルだったこと!
少し長いお説教でしたが、一瞬の隙もなく、気持ちを逸らされることはありませんでした(原稿はなさそう、カトリックの神父様たちは原稿は使わないかたが多い気がします)。

自分に死ななければならない。これは聖書でわかっていることですが、どういう意味か。
つまり「エゴ」に死ななければならないということ。
私たちはみんなエゴイスト。これがいけない。
コップにいっぱいのエゴが注がれていると、神様がせっかく聖霊を送ってくださっているのに、それらはみんな外に溢れてしまう。
聖霊はコップいっぱいのエゴが捨てられて、私たちのコップにパッと入るのを待っていてくださる。
ずっと待っている。
エゴを捨てましょう。聖霊でいっぱいにしていただきましょう。
そうすれば平和が訪れるでしょう。
エゴに死に、聖霊の助けをいただいて生きましょう。
…というたとえが印象的なお説教でした(コップのエゴについては有名なたとえらしい)。

お説教だけで頭を殴られた(自分のエゴを殴られた)ようなショックを受けていたら、感謝の典礼でご聖体拝領の時の「平和のあいさつ」(主の平和、と言って周囲の人たちにお辞儀をするところ)でも、神父様は強烈なことをおっしゃいました。

「もしも心に許せない人、大嫌いな人がいると思いながら平和のあいさつをするなら、それは嘘。許せないとか、大嫌いとか思っている人は、それだけで神様との糸が切れている。神様との繋がりが切れると、外の暗闇で歯ぎしりする(聖書の表現)ことになる。許せない人や大嫌いな人のことを幸せにしてくださいと祈りましょう。口だけの祈りであってもその通りにしちゃうのが神様。皆さん、許し合いましょう。許し合ってご聖体に与りましょう」

私には許せない人がいます。
その人の幸せために祈れるかどうか…
でも今までに聞いたり読んだりしたお説教(カテキズムも含む)の中では、どれも同様のことが指摘されています。
しかしどう考えても、許せないという心は神様の喜ばれることではないとわかっています。
昨日の神父様は「口だけでもいい」という主旨のお言葉を叫ぶようにおっしゃっていました。
本当に叫ぶように。
みんなが「神様との繋がりが切れないように」、みんなが「救われるように」、誰一人として「取り残されないように」、そんな思いが伝わってきたのです。
口だけでもいい、もっと言えばちょっと嘘でもいい。
それができるように、相手のことを祈れるように、もっと努力できるか、もっと祈れるか。
思い切り、心を殴られました。

昨日拝見したミサ中継で、私はまたも悔い改めを求められました。
何度求められるのか…
何度やられても懲りない、なんという強情なエゴなのか…
ゆるす、ということは、なんと難しいことなのか…

昨日の福音はヨハネの6章。
ヨハネの6章はだいたい「イエスは命のパン」というところです。
「私は天から降ってきた命のパンだ」というイエスキリストに、人々はコソコソと「あれはヨセフの息子じゃないか、我々はヨセフのこともマリアのことも知ってるのに、天から降ってきたとはなにごと?」と言います。
それを聞いたイエスキリストは、「つぶやき合うのはやめなさい」と毅然と答える。
私もいつもつぶやいています。
これだけキリストから「許しなさい、敵を愛しなさい」と言われているのに、「でも」「だって」「そんなことできない」「できないんだもん」。
「つぶやくのはやめなさい!」と、昨日の神父様のお説教で脳天をゴッと殴られました。

主イエスキリストの言葉は厳しい。
決してやさしくはない。
「敵を愛しなさい」は、もっとも厳しい教えです。
それを実践しなければ信者とは言えない。
絶対に…

昨日はありがたいお説教を拝聴できました。
何度でも殴られないと、実践へは程遠い私です。
できますように。敵のために祈れますように。

主のみこころにかなう生活ができますように。