孤独な私は、神様の愛に背いている
ここ数日、孤独感で押し潰されそうな時間を過ごしていました。
話すのは家族だけ。
そうでなければ医療関係者か美容師だけ。
友達という存在は私には認識できませんでした。
たとえ誰かが「あなたは私の友達だよ」と言ってくれたとしても。
これは友達を蔑ろにしているわけではないのです。
友人たちのことは愛しています。
でも、私の中に、神様の愛が染み渡っていなかった。
神様の惜しみない全能の愛が私を包んでくださるのに、私がそれから背いているので、友人たちへの愛がなくなってしまったのかもしれません。
「行って、あなたも同じようにしなさい」(善きサマリア人のたとえより)
同じようにしなさいとは、隣人愛を実践しなさいということ。
しかしその隣人愛は神様の愛を自覚して、信頼して、主によってのみ可能なことだと気づきました。
人間単体からは恐らく「愛」は出てこないのかもしれません。
それも「無償の愛」なんかもってのほかでしょう。
稀にできる人もいるとは思いますが、その人にはきっと神様の愛が働いています。
キリストのことを知らなくても。
私は神様の驚くべき大きな、大き過ぎる愛に背を向けていたのです。
神様の方を向いていなければ、神の国のことより人間のことを思ってばかりで(イエスがペトロを叱りましたね、そのことで)、人間の価値観で自分が孤独な人間だと思い込んでしまっていました。
この孤独感は即ち「罪」です。
できるだけ早くゆるしの秘跡を受けなければなりません。
病気のこともありいつ日程調整できるか未知数ですが、教会へ問い合わせれば病者の塗油とゆるしの秘跡を受けられるかもしれません。
できなければ病者の塗油だけでもお願いしたいのです。
だってもうこの病気と障害、30年選手なのですから。
ベテランです。秘跡に与りたい。
だから相談してみようと思います。
この孤独感には病気の症状もあります。
そして季節の変わり目が理由、台風の低気圧が理由とも言えます。
しかし私が「孤独だ」と言うことによって、傷つく人もいるはずです。
私を友と言ってくれる人たち。
じゃあ私たちはあなたの何だったの!?…と言われてしまいます。
孤独感は多くの人を不幸にします。
何度でも神様のもとに立ち返りたい。
また一匹の羊のように迷ったり、放蕩息子のように背いたりするかもしれない。
それでも何度でも許してください。
御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために。
主よ、おゆるしください。
私はあなたの方に向いていませんでした。
私は神様を信じています。
何度つまずいても、帰ってくる場所はここにしかないのです。