命の使い方を考えた生い立ち・父親編②
その後中学生になり、ちょっと反抗期。
弁が立ってきて父に反論できるようになりつつも、
「やっぱり親にはわたしのありのままを受け入れてはもらえないのか」と
いう思いが限界を迎えていた。
父が父自身に思っていたように
私も自分のありのままを受け入れられなくなっていた。
幸い、ファッションやコスメ、絵を描くことが好きだったので
家の外では趣味の合う友達と遊んで
癒しの時間を確保することもたまにはできていたけど、
心の殻はみるみる厚くなっていた。
「このままじゃいけない」と保健室の先生に悩みを聞いてもらったり
自己啓発の本を読んだり、自分の生まれた意味について研究し始めていた。
高校生へ。
進路を決める時。
父は国立大学に行けと圧をかけてきたけど
私の物事への判断基準は
自分が心から楽しめる事かどうか。
「国立大学なんて全然楽しくない。
わたしは自分が本当にやりたいと思える事がある大学に行きたい」
と色々交渉。
ずっとアートや物作りが好きだった私は
美術学部のある地元の大学を選んだ。
反対されて、何度も父と喧嘩してたのだけど
「この大学はパソコンの最新技術で作るグラフィックデザインが学べるの!」
とアピール
「だったらいいぞ。時代はITだから就職にも有利だな。ちゃんと就職しろよ」
とOK。
なんとか希望の大学に進学することに。
そして4年後、IT企業に就職。
けれどすぐさまガチガチの昭和な社風と
IT特有のブラックな環境、
大勢が詰め込まれたオフィスに閉塞感を感じて
「私、会社勤め合ってない...」
と気づいてしまう。
当時の仕事はグラフィックデザインやWEBの画像作成をしていた。
得意分野が功を奏してなんとか4年ほど働いたけど、
さらに悪化するブラックな環境。
「もう限界、そろそろ辞めたい!!!」
「でも1度入った会社を途中で辞めるなんて父の逆鱗に触れるかな」
と悩んでいた。
ちょうどその頃
会社の人から「部署異動を考えてる」という話があり、
行き先に全く惹かれなかったので
それが確実に辞める決め手となった。
父に相談するまでもないと、一人で決めた。
父には
「リストラされることになったの。だからかわりに別の職を探します」
と嘘のエピソードを言って無理矢理切り抜けた。
「会社への就職」は父の顔色にあわせてやった事。
そこからなんとか脱出できて、
とてつもない開放感に満ち溢れていた。
ここから舵取りがはじまる。
わたしが本当にやってみたかった事を
全部自分の意思で選ぶんだ。と思った。
もう父の価値観に左右された生き方はやめる。
この時の私は、実はうまく人と話せなかった。
幼少期から父に抑圧されていたものが蓄積され
緘黙障害や社会不安症、対人恐怖があった。
「本当はもっと楽しく人と話せるようになりたい」
「自分の気持ちを話せないまま歳を重ねたくない」
「変わりたい、自分を好きになりたい」
と言う強い思いがあった。
自分の意思で最初に選んだ仕事
それはアパレルショップだった。
(ファッションが大好きだったところから)
喋り方もぎこちなく、対人恐怖もあったのに、
よくいきなり「喋らないと成り立たない仕事」を選んだな...と自分でも思う。
あの時飛び込んで本当に良かった。
ものすごいバンジージャンプだった。
自分で自分を崖から突き落として、
「怖くてもいいからやる。」と決めて、
先輩から怒られながら毎日取り組み、
徐々になんとか克服することができた。
働いた接客業の中にも
やっぱりモラハラ店長みたいな人がいたけど
「それはおかしいです」と自分の意見を言えるまでになった。
私を信頼してショップに通ってくれるお客様もできた。
今もずっと接客業をやっている。
まさか、ネイルサロンをやっているだなんて、
当時の私に知らせたらきっと驚くだろう。
人はいくらでも変われる。
なりたい自分になれる。
やらないからできないと思ってしまうだけで、
やり続けてたらできるようになることが沢山ある。
ちなみに父は私が28歳のとき、肝臓の病気で他界した。
わたしがネイリストを目指したのは29歳。
ネイルサロンを経営している事はもちろん知らない。
けど間違いなく私の人生を突き動かしたのは父だった。
この支配的なエネルギーから
何をしたら抜け出せるのか
どうしたら自分を幸せにできるのか、
よくよく考え、色々なことを習得するきっかけとなった。
「あんな事があって人生詰んだ」
誰しもそんなエピソードがあると思うけど、
その経験の中にはたくさんのメリットが沢山隠れている。
どんなにキツい環境やクセの強い人間関係でも
何か必ず得るもがある。
次のステージに行く準備になっているのだ。
(次回は「なぜネイリストだったのか?」)