わたしは続くよ、どこまでも。 木皿泉『さざなみのよる』
知ったかぶりの知識で申し訳ないが、何万年もの前の生物の分子が、今この瞬間の世界を構成しているそうだ。私という小さな人間も、何だかんだで毎年100程度の実を付ける庭の柿の木も、教育実習の先生から貰った猿のぬいぐるみも、環境を破壊するオゾンガスも、この世に存在するもの全てを分解すれば、原子に辿り着く訳で。今この時間軸には生きていない遥か彼方の人間も、私達が吸う酸素や今晩のおかずの豆腐ハンバーグとして、今、ここに存在しているかもしれない、らしい。つまり、私達は、過去に生きた、または未来に生きるであろう人間達の中で、またはもっと広い自然となって、いつまでもどこまでも生き続ける、ということらしい。
『さざなみのよる』は、脚本家の木皿泉(夫婦で共同執筆なさっているので、名前は一人だが実はお二人!)による小説第2作である。
小国ナスミ、享年43。息をひきとった瞬間から、彼女の言葉と存在は、湖に落ちた雫の波紋のように、家族や友人、知人へと広がっていく――。命のまばゆいきらめきを描く感動と祝福の物語!
と、河出書房の紹介にある様に、端的に言えば、一人の人間の「死」から始まる物語だ。
一つの長編であるが、計14話に章立てされていて、主人公?のナスミは第1話で早々に亡くなってしまう。その後は、彼女の周囲に生きる人物とナスミとの物語が、丁寧に繊細に、だけれど、するりするりと紡がれてゆく。
直接の接点を持たない人物達が、実はある面ではリンクしている、という作品は数多くあれど、今作では、その中心にある人物が既に亡くなっていて、今は亡きナスミという人が、遺された者達の目線によって形作られて行く、という点が特質である。
そう。ナスミは、今、生きていない。
私達が、生きているナスミと出逢うのは第1話のみであり、ナスミという人物は、今ここには居ないのに、私はナスミのことを随分と知っている気になっている。
ナスミは、勝気で、男らしくて、自らの正義に従って生きる。かと言って、話のわからない人間でもない。サバサバとした姉御肌でもあり、世話焼きで、素直で、感情的で、でも、冷静で。淡々としている様でいながら、人を思いやれる心を持っていて、ガサツで、大らかで、ガハハと笑う。煙草を吸うところは少し意外だけれど、彼女といたら何でも出来そうな気がして、ナスミの背中はとっても大きい。たぶん。
彼女は、今、確かに存在している。それは、彼女と関わった者達の記憶の中でであり、彼女と出逢ったことで培われた信念の中でであり、彼女から与えられた言葉の中でである。それに、もしかしたら、今、すぐそばに、いるかもしれない。たとえば、私をくるむ毛布の毛羽立った毛糸となって。
淡々と過ぎゆく日常の中で、私達はこんなにも、誰かを想って、誰かに想われている。
でも、いや、だから、大切なあの人を失ったら、絶対に哀しい。哀しい時、鼻がつんとして、喉が締め付けられる様に痛くなる。そんな時でも、それでも、前に足を進めて行かなきゃならない。生きている限り、時間は前に進んでゆく。立ち止まることなど出来ない。
そして、その哀しみを哀しみとして受け止めるには、きっと時間が必要で。その方法は、時間を取って休養するとか、誰よりも多い時間その人のことを考えるとか、そういうことじゃなくて。
ただ、その人と共に、生きて行くってことで。
私達は、問いを抱えたままに生きていて、その答えをふと得ることがある。例えば、ナスミのことを全然知らない誰かの何気ない言葉が、ナスミに求めていた(聞きたかった)ことの答えになったりする。私達が「生きる」という歩みを止めないでいれば、いつかのどこかの誰かの言葉に救われる瞬間が訪れるはずだし、反対に、私の言葉が誰かを助ける時だって来るかもしれない。
人は、自分が思っている以上に多くのことを他者に授けている。そして、それは、与えられた人の中で血となり肉となってゆく。人は、他者と出逢い、相手を自分の中に取り入れることで、自分を形成して行くのではなかろうか。
人と人とは、繋がり、連鎖し、支え合って、今ここにいる。人は、人の中で生きられるし、人が人を生かすんだ。その為に、今、私は生きている。歩き続けている。
初めに述べた様に、『さざなみのよる』は死から始まる物語である。だが、この肉体を手放したとしても、「わたし」というストーリーは続いて行くし、そもそも、私が生まれる前から、「わたし」のストーリーは始まっていた訳で、この物語は連綿とどこまでも受け継がれて行くのである。そうだ。私達一人一人が、何百億年もの地球の、宇宙の歴史の構成者であり、継承者なのだ。
恐らく、私達は、とんでもなく大きなうねりの中にあって、この世の「生」とは、その流れの一部に過ぎない。私達は、死してもなお、この世界のどこかで、漂い、たゆたい続けるだろう。寄せては返す波が、水蒸気となって天に昇り、いつかは雲となり、恵みの雨となって大地に降り注ぎ、やがて川となり、また海へと還って行く様に。
中学校の時、音楽の授業で歌っていた曲がある。ダサいメロディと凡庸なタイトル(もう忘れてしまったが)故に好きになれない歌だったが、歌詞の一節だけとても気に入っていた。
何億年もの時間をかけて用意された私たちの出会い
生きていることに、生かされていることに、出会えたことに、出会わせてくれたことに、感謝しないで生きるなんて、もったいないよなあ。
ちなみに、木皿泉の小説第1作『昨夜のカレー、明日のパン』も実に素晴らしい(個人的には『昨夜のカレー~』の方が好きだったりする)。両作に共通するのは、血縁ではない関係(亡くなった夫の父・義父と嫁との同居やら亡くなった妻の姉妹や祖母との関係継続やら)をそのまま結び続けるという点である。愛した人が愛した人を愛する、ということは、人間の倫理の様であって、大多数の人間が疎み避けていることかもしれない。