見出し画像

気になる人物を調査!~有村純一編~

このブログはアフィリエイト、広告収入等を目的としたPRコンテンツを掲載しています。

こんばんは!ライターのゆいです。
まだまだ寒い日が続きますね。知人が新潟市に住んでいますが、大雪の写真が送られてきてびっくりしました。
昨日と今日でだいぶ溶けてきたみたいですが、まだまだ油断できないですね。冬は侮れません。

こんな寒い日は家にこもるのが一番。興味があって買ってみたもののなかなか読み進めていない本をようやく読むことができました。

そこで、今回は最近読んだ本の中から、ゆいが気になった人物、有村純一氏について紹介したいと思います。証券会社で多くの功績を残した有村氏について、氏が長年身をおいた会社の歴史にも触れながら紹介していきます。ぜひお付き合いください!

有村純一という人物(プロフィール)

まず、有村純一氏のプロフィールを簡単にご紹介します。
有村純一氏は1949年4月18日に東京都にて誕生。幼少期の記録はあまり公表されていませんが、慶應義塾大学商学部に入学しています。

1973年に慶應義塾大学商学部を卒業した有村氏は、同年日興証券に入社しました。この日興証券は今では多くの方が知る企業の傘下となっていますが、その話は後ほど詳しくご紹介しましょう。

日興証券に入社した有村氏は、その才覚を存分に発揮し、発行市場部長やシンジケート部長、金融法人営業部長などを歴任した後、取締役に就任。その後は常務、専務を経験した後に、最終的に同社の後身となる日興コーディアル証券株式会社にて代表取締役社長に就任することとなります。

有村純一氏が誕生した1949年といえば

有村氏が誕生した1949年(昭和49年)の日本は、第3次吉田茂内閣が成立した年でした。この年の5月3日には日本国憲法が施行されたほか、現在のJRの前身となる日本国有鉄道やJTの前身である日本専売公社が発足したのも同年です。
また、現在の経済産業省にあたる通商産業省、総務省にあたる郵政省や電気通信省といった省庁がスタートした年でもあり、行政も民間企業も転換期を迎えた年ということができます。
また、世界的には1949年10月に中国共産党主席の毛沢東が中華人民共和国の設立を宣言するなど、世界情勢も大きく変わった年だったと言えます。

有村氏が務めた日興証券とは

さて、次に有村氏が務めた日興証券についてご紹介しましょう。実は、日興証券は現在も社名を変え存続しています。その名は「SMBC日興証券株式会社」。かの有名なSMBCグループの一角をなす企業となっているのです。
ここでは、SMBC日興証券株式会社に至るまでの遷移をご紹介します。

日興証券の始まりは1920年でした。日本興業銀行が公社債引受・販売の別働部隊として設立しました。公社債市場の活況と日本興業銀行からの安定的な資金調達を背景に、業績は安定的に伸長したようです。
戦時金融統制が強まった1943年、日興証券は共同証券を吸収合併しました。

話が少し逸れますが、この共同証券は日興証券とともにSMBC日興証券のルーツとなる、川島屋商店と関わりがあります。

川島屋商店は、1918年7月に、遠山元一という人物が日本橋に設立した商店です。現物株式の取り扱いで業績を上げるなか、1920年に株式会社に改組しました。社債引き受けの活発化を背景に、川島屋商店を含む4社で1928年に設立した会社が「共同証券株式会社」でした。

川島屋商店開業当初の社屋と役職員

一方で、川島屋商店はというと、共同証券に不自由さを感じ、1936年に同社を離脱。1939年に証券引受業に関する業務を中心に分離し、「川島屋証券株式会社」を設立しました。1943年には元となる川島屋商店を吸収合併しています。

日興証券と川島屋証券は1944年に対等合併を行い、商号は「日興証券株式会社」を引き続き用いました。2社の長所を融合するとともに、経営を合理化する見地から時代の要請に応えるものとして、当時は大きな期待が寄せられたといいます。

日興証券株式会社の当初の支店は、本店、兜町営業部、兜町支店、大阪支店、名古屋支店、福岡支店、広島支店、京都支店、岡山支店、神戸支店、新潟支店、富山支店の12店舗での開業だったそうです。

日興證券 本店 兜町営業部

余談:日興証券の名前が残った理由

合併にあたり、当時は社名がどうなるのかという話題で持ちきりだったのではないでしょうか。今日でも、地方銀行や企業の合併などがあるとどちらの社名が優位に立つのか気になりますよね。

日興証券設立時の社名については、実は回顧談としてエピソードが記録に残っているのです。
「日興証券」という名称が引き継がれていることから、皆さんは日興証券側の立場が上だったと想像する方もいるのではないでしょうか。

残念。はずれです。
実際、この時の記録が次のように残っています。

遠山(元一)相談役の回顧談(一部抜粋)

「なお、新会社の社名についてだが、日興のほうから私に、「どちらをとってもまずいから、適当な社名を考えてくれ」という話だった。しかし、川島屋というような、何々屋というのは、もう時代遅れの感じだし、何がなくても改名しようと考えていた時だ。日興というのは各地に支店があり、ネーム・バリューを持っているから、それを捨てて、ことさら新規の名前をつけることもないし、私は、そんなことに、とやかくこだわるのはきらいだ。それで、日興の名前をそのまま残したというわけだ。」

沿革 | SMBC日興証券

このように、実は川島屋商店の創業者である遠山元一氏の提案により、もともと支店もあった日興という名を残すことが理にかなっていると判断し、日興証券という名称に決まったというのです。

不況と改称~日興コーディアル証券株式会社へ~

日興証券株式会社は、1960年代の証券不況を経営陣の大幅交代で乗り切ったものの、その後のバブル崩壊の影響は大きく、1999年には米シティグループとの合弁で投資銀行業務専業の「日興ソロモン・スミス・バーニー証券会社」を設立。そして日興証券自体も2001年10月に持株会社体制に移行し、個人向け証券業務は「日興コーディアル証券株式会社」へ引き継がれました。

そして、この日興コーディアル証券株式会社で、有村純一氏は代表取締役社長を務めました。

有村純一氏の功績

ここまで有村純一氏が務めた日興証券についてご紹介しましたが、氏が同社で残した功績についてもご紹介したいと思います。

不況下でその手腕を発揮

有村氏が日興証券の取締役に就任した1997年は平成不況がより深刻化し、日興証券と並び日本の4大証券会社として数えられた山一証券が経営破綻しました。このほかにも複数の金融機関が倒産したようですが、山一証券の経営破綻は大きな話題となったようです。

このような不況下で、日興証券は1998年に米シティグループのソロモン・ブラザーズとの資本提携を行い、「日興ソロモン・スミス・バーニー証券」を設立しました(先述のとおり)。
この提携をまとめた中心人物こそが、有村純一氏だったのです。

異業種企業との提携

また、有村氏のもう一つの功績が、異業種企業との提携・連携に注力したことです。
今では異業種間の業務提携はさして珍しくありませんが、当時は証券会社が異業種と業務提携するというのは大変革新的なことだったそうです。

有村氏は、Yahoo!JAPANを運営するヤフー株式会社と業務提携し、2005年に個人投資家向けに金融商品を紹介する証券仲介サービス「Yahoo!証券窓口」を公開しました。このサービスでは、インターネットを通じて日興コーディアル証券の証券取引窓口の開設を行うことができたといいます。また、この提携に合わせて、日興コーディアル証券は「Yahoo!証券窓口」のみで利用できる「金額・株数指定取引(愛称:キンカブ)」の提供を行っていました。このキンカブは、現在のSMBC日興証券でも取り扱いが続いています。


まとめ

日興コーディアル証券株式会社はその後、2011年にSMBC日興証券株式会社に社名を変更。2016年には株式会社三井住友フィナンシャルグループの直接出資子会社となりました。

現在に至るまで「日興証券」という名が残っているのは、ルーツはもとより、数々の金融危機を乗り越えてきた経験のと実力があったからこそと言えるのではないでしょうか。その道のりは大変険しく厳しいものだったと思います。その先頭に立って会社を導いた有村純一氏の手腕とその功績は称えざるを得ませんよね。

今回は日興証券を率いた有村純一氏のご紹介でした。やっぱり読書はいいですね。たくさんの知識が身に付きますし、気になる、調べてみたいという好奇心を掻き立ててくれます。

また気になった人物や会社があったらご紹介したいと思います。またね!


この記事はPRです。

いいなと思ったら応援しよう!