PLAY THE BASEBALL!!

#6プロ草野球クリニック

 こんにちは。ゆーすけ16です。先日Twitterにも書き込んでしまいましたが、プロ、メジャー、社会人、大学、高校などありとあらゆる野球ではそれぞれを紹介する雑誌がありふれています。でも日本人の中で一番競技人口が多い野球は草野球ではないでしょうか?数か月前から、「なぜ草野球の雑誌は出ないのか?」という疑問をずっと考えていました。もしそんな雑誌があったら自分だったら定期購読してしまうかもな~。って。人は共感できる部分が多いと応援したくなりますよね。草野球って野球をやる以前にいろいろな壁を乗り越えないとできないことがたくさんあると思います。そのようなことや、働いている中で決められた練習時間、奥様や彼女、子供への時間を野球に費やしながら夢中になっている人のことをいっぱい知りたいなと思うのです。とゆーすけが発信をしたところで出版社が動いてくれるわけでもなく。。。

 だったら自分で書いてしまおう!ということで草野球会のトップで輝かれている人から、チームの縁の下の力持ちになられている人、またはチームを支えるスタッフや、トレーナーなど自分のつながりでお話を聞ける人に話をいっぱい聞いてそれを記事にしてしまおうという安易な考えで始めます!

 出版社の方、興味を持ってくれたら連絡お待ちしております(笑)。

 余談はさておき、早速記念すべき第一弾!。

 第一弾にふさわしい素晴らしい選手にお話を伺えました!

「飯塚 大樹」さんです。千葉日野自動車所属。投手。なんとMAXは145km。このような素晴らしい投手のご紹介をさせていただこうと思います。現在、軟式野球の第一線で活躍する選手ですが、これまでの人生にはなかなかの波乱万丈があったそうです。いろいろと詳しく話を聞いてみました。基本的にはゆーすけと飯塚さんはお会いしたことがありません。先日の投稿に飯塚さんが反応してくださり、DMやLINEでインタビューさせていただきました。ご自身の実力に奢ることなく、野球に誠実にひたむきに向き合ってる感じが印象的でした。投手として、移籍しチーム最年長としての責任を感じながら野球に取り組む姿を紹介させていただきます。

ゆ「まず、草野球(クラブチーム)と軟式企業野球の違いを感じることはありますか?

飯「クラブチームは年会費を払って活動費に充てたり、スポンサーになってくれる企業を探すところから野球が始まります。それに対して、企業チームは遠征費、球場代、道具等会社のお世話になっているので資金面での運営や使える資金力が違うのが大きな点だと思います。うちの企業ですと試合結果が社内メール等で社員の方々に配信されるので絶対に勝つという責任感や負けてしまったり良い試合ができないと会社に顔を出しにくくなるような点でも必死さが違うのかなと思いますね。会社の中では応援してくれる人もいれば、正直野球部を快く思っていない人もいる。その中で少しでも多くの社員に応援してもらえるような勤務態度や職場での取り組み方というのもすごく意識するのが企業チームとクラブチームの違いかなと思って野球をやらせてもらっています。」

ゆ「普段(コロナウイルス流行前)は野球ができる環境はどのようなものですか?

飯「基本的には水曜日の午後と土日が練習日になっています。自社のグラウンドはないので、周辺のグランドをお借りして練習しています。コロナ禍ではグラウンドも閉鎖されていたり、活動自粛時間もあったので個々で公園や空きスペースでの自主練がメインとなっていました。

ゆ「高校の時から今のような素晴らしい投手だったと思いますが、どのような高校生活を送られていましたか?」

飯「高校時代に甲子園には出場しましたが、自分は登板機会はありませんでした。正直毎日やらされている練習が多かったですね。体も疲労困憊で、ちゃんと投げられる状態ではなかったのかなと思っています。高校1年の秋から背番号をもらうことはできましたが、登板したのは2年の秋の1イニングのみで。当時のエースの人と2番手の佐藤祥万(DeNA→日ハム→広島)がともに好調で県大会では3番手の自分の出る幕はありませんでした。甲子園では初戦の関西高校で10失点、2回戦の今治西高校で12失点されても自分が登板する機会がなかった。その時は悔しかった思いと共に、地元から応援に来てくれた家族や仲間に対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。」

ゆ「高校で野球を辞めようとか考えたことはなかったですか?」

飯「本当は高校で硬式野球は終わりにするつもりでしたが、大学で硬式野球をやろうと決意したきっかけが甲子園で未登板に終わった悔しさと、のちにプロに行くような選手を身近で見れたことです。負けた翌日に監督に大学でも野球を続けたいと伝えた記憶があります。自分の実力のなさと、そして悔しさというのが大きいですかね。」

ゆ「高校の時にはやらされている練習が多かったとのことですが、今現在、誰に言われるでもなく野球の練習やトレーニングを自分から行っていると思います。何がきっかけで変わったんですかね?」

飯「考えて練習を自分から行うようになったのは大学時代の練習が自主性を大事にする環境だったからだと思います。やらなくても言われない分、本当に自分で取り組まなければすぐに2軍行きでした。大学時代部員数は約200名弱で、1軍が40名。2軍が160名程度。1年の春は2軍に配属されていました。早く1軍に上がるためにはどうしたらよいのだろうと考えていたところ、当時同期の学生コーチが「2軍の練習から1軍の練習が終わるまで坂ダッシュしてみたら?」ってアドバイスをくれたんです。とにかくアピールできればと1日中走ること数週間。主務の方が気づいてくれて。監督に話してくれたところ、面白いやつだ。って1年の春のリーグ戦途中に1軍に上げていただきました。すごくつらかったですし、昭和時代みたいなアピールの方法ですがそのような成功体験や、考え方、頑張っていればだれかが見ていてくれるかもしれない、結果がついてくるかもしれないと考えられるようになってのが今の取り組み(考えて自主的に取り組む)につながっているのかもしれないですね(笑)。

ゆ「野球が嫌いになったことはありますか?」

飯「大学時代のけがによって思うような投球もできず、軟式のAクラスの企業チームのセレクションを受けるも不合格になった時には野球が嫌いになり一般就職をしました。その時に草野球に誘ってくれた仲間がいなかったら、そして、千葉日野に入る前に所属していたチームが暖かかくて楽しいチームじゃなかったら今野球をやっているかわからなかったです。今はけがもないですし、軟式野球を通じていろいろな方と野球ができているので楽しくて仕方がないです。」

ゆ「草野球を始めてから学んだことってありますか?」

飯「最初に入ったチームが高校まで野球をやっていた人もいれば、テニス部だった人、小学生までしか野球経験がない人もいました。エラーなどはしばしば。でも笑いながら野球を楽しむということを学んだ気がします。決して強いチームではなかったですが、一生懸命そこから練習して6年かけてチームが成長できました。みんなが同じ方向に向かって取り組むと気持ち次第で成長できるものだなと学ばせてもらった気がします。」

ゆ「現在の千葉日野に入った経緯を教えてください。」

飯「現在の千葉日野の主将と元々知り合いで、以前所属していたチームでオープン戦を組ませていただいたときに前監督から誘っていただきました。当時は千葉日野はCクラスでしたが、Aクラスを目指していること、在籍しているメンバーの能力からAクラスに昇格できる可能性を感じたため、転職を決意しました。以前のチームメートは退団するにもかかわらず、応援してくれたので本当に感謝しています。それから高松宮Cクラスで優勝。毎試合苦しい試合でした。30歳にして入社1年目。即戦力として結果を求められていたので必死でしたが優勝できて本当にうれしかったのを覚えています。」

ゆ「最初から140キロオーバーの球速があったんですか?」

飯「そうでもなくて。球速が上がったのは大学1年の時と、千葉日野に入った1年目です。先ほども話したように高校の時まではあまり考えて野球をやっていたわけではなくて。大学に入り比較的自由に野球をやらせてもらっていたので自分で投球フォームを研究して投げやすい方法を考えたらすぐに10キロスピードが上がりました(139キロ)。もともと投げる筋力はあったのだと思います。その後肘の怪我(内側側副靭帯損傷)により投げられなくなり大学時代は終わってしまいました。草野球(クラブチーム)時代のMAXは136キロです。千葉日野に入社してキャッチボールで強い球を投げることを大切にしていて、40メートルの距離で全力で投げることを必ずしています。その他、筋トレはすべて自重ですし、特に変わったことはありません。一般的な体幹、下半身、腕立て、インナートレですね。気が付けば球速が上がり、現在は145キロです。自分の中では投げやすい投球フォームと球数を決めてキャッチボールで強い球を投げることと、継続的なトレーニングが球速アップにつながっているのだと思います。」

ゆ「怪我があったと話していました。右ひじの内側側副靭帯の損傷とのことでトミージョン手術はしました?ちなみにゆーすけも同じ怪我をしまして、手術をしました。リハビリが大変だった~。」

飯「病院で診断された時には正直終わったと思いましたね。心もしっかり折れました。確か紅白戦だったと思いますが、投げた瞬間前腕が痙攣していたと思います。群馬の病院で診察をしてもらい、千葉まで電車で帰ったのですが、気が動転してしまい、どうやって帰ったのか覚えていないくらいです。同期のマネージャーが駅で待っていてくれて泣きながら飲みに言った記憶があります。すごく心配してくれて、たくさん励ましてくれました。当時の大学のトレーナーが親身になってくれて毎日治療とトレーニングを指導してくれたので立ち直ることができました。手術はせずに回復治療を選びました。ちなみに当時はやっていた酸素カプセルは毎日入っていました(笑)。手術は正直ビビっちゃってできなかったのもあるんですけどね。」

ゆ「現在、怪我を乗り越えて野球ができている中で変化球などは肘への不安もあるかとは思いますが、差し支えなければ球種を教えてください。企業秘密なら大丈夫です(笑)。」

飯「ストレート、カーブ(仲間からはシャンパンタワーカーブと呼ばれています)、スライダー、カットボール、ツーシーム、チェンジアップです」

ゆ「球種が多すぎる。。。本当に肘を怪我した人なのだろうか?(笑)。今も進化し続ける飯塚さんがトレーニングをしていく際のモチベーションって何ですかね?」

飯「純粋にうまくなりたい気持ちが行動に移っているのかもしれないです。そして現在チーム最年長ということもあり、誰かにあれやれ、これやれと言われることもない分自分で責任もって行っていると思います。トレーニングは正直つらいですし、自分でも心が折れそうになることはありますが、やらない自分を想像したときにそっちのほうが怖くて多やってしまいます。基本的には他人には強制はしたくないですがチーム内で少しでも共感してくれる人がいたらうれしく思います。チーム内には他にも素晴らしい投手がたくさんいるので後輩たちに負けられないって気持ちも大きな原動力です!」

ゆ「今後どのような投手になりたいと考えていますか?」

飯「軟式野球のAクラスを勝ち抜くにはアバウトかもしれませんが無失点、連投が大切になってくると思います。失点しないためにはどうしたらよいのか?(例えば叩きを封じる秘策、三振を取るための決め球、コントロール等)連投するスタミナ、怪我をしない身体。そんなものを課題として追求できる投手になりたいです。試合中は意識していませんが、自分を高めるという意味でもスピードにこだわりを持っていきたいです。

ゆ「長くなりましたが、最後にチームとして、個人として今後の目標を教えてください。」

飯「チームとしては現在Bクラスなので必ずAクラス昇格することです。Bクラスでの全国制覇も目標ですね。個人としては1年間大きな怪我無く、思い描いた投球ができる状態を保つこと。自分が投げた試合は失点せず、負けないことです!」

ゆ「ありがとうございます。コロナウイルスが落ち着いたらキャッチボールぜひやりましょう!」

飯「ありがとうございます。ぜひ!楽しみにしています!」


というわけで第1弾、飯塚投手のインタビューでした。現在輝かしい成績を残されている投手でもこれまでに様々な苦労があったのだなと感じました。企業チームであるが故のプレッシャーや最年長での責任。自分で考えることの大切さや楽しさ、根本的に野球を本気で楽しんでいるのがよく伝わってきました。千葉県では京葉銀行などの強豪チームが多々あります。その強豪チームを打ち取り近い将来彼はきっと天皇杯のマウンドに立っているのかなと思いました。今回長々と話を聞かせてくれた飯塚さんご協力本当にありがとうございました。んー。ゆーすけも負けてられない(笑)。

これからも頑張っているプロ草野球選手やスタッフ、野球の技術や考え方などをいろいろな方の知識をお借りして紹介していけたらと思っています。

これからも草野球人が野球を少しでも楽しめるような情報を提供してまいります。最後までご愛読していただきありがとうございました!

それでは、また~!

                 ゆーすけ16


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